ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2013年8月2日金曜日
埋葬儀礼(2)
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:102頁
第二章 埋葬儀礼(2)
環状の石の配列は炉と考えられており、
葬送に当り燔祭を行ったことを推測される。
エリドゥの神殿の供物台の上で供物が焼かれたり、
湯沸かし器で魚が煮られたことを思い出せば、
この無土器の新石器時代においては、
供物を焼くことが調理することであり、
炉が調理の場であった。
供物台の元祖であると考えてよいのではないだろうか。
そうすれば、エリドゥの最古と思われる最下層から
第四層の神殿建物の外に作られた円形の構造物をは
火を焚いた炉または窯であったことが推測される。
一辺三メートルに足らない建物の中で
供物を調理することはできなかったのである。
それに続く時代には神殿建物自体が拡大され、
内部で火を使っても危険が無くなり、
供物台上で焼いた痕跡が残されることとなったのである。
柱石状の立体物は祭壇になる以前の神の依代であることが判ってくる。
あるいは葬送の式礼の中で死んだ者の頭骨を
その柱(台座)に置いて儀礼を行ったとも考えられる。
頭骨を胴体から離し、別のところに
しかも集落の一定箇所に埋葬するのは
西アジアでの死者を葬送する方法としてよく行われた慣習である。
パレスティナ、レヴァント、
そしてアナトリア高原の遺跡で一般化していた方法である。
頭骨に塗装したり、飾り付けしたものさえ発見されている。
このような儀礼については、一種の祖先信仰を表しており、
祖先が死後も残されたものに対して強い影響を及ぼすため、
祈りや犠牲を捧げることによって、
鎮めねばならないと信じられていたというのが
専門家による理解である。
『参考』
まんどぅーかネット
《Key Word》
エリドゥの神殿
燔祭
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