2011年4月30日土曜日

孝のつく4帝はすべて高句麗の領有者

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録18:6頁

 日本足彦国押人=孝安天皇。

 大はないが日と本はある。

 そして「足」は古来「タラシ」と発音してきて、「根」のタラシと同じである。

 やはり根の国・高句麗が領土に入っている。

 では、それ以前はどうなっているか?。

 天足彦国押人=孝安天皇の兄。

 一見してわかるように、孝安天皇とは日本が天に変わっているだけである。

 こちらは九州本土はもっていないが、天すなわち沖縄と高句麗を領有していた。

 ではそれ以前はどうか?。

 二人の父・孝昭天皇はどうなっているか?。

 その名乗りは観松彦香殖稲=孝昭天皇。

 これはミマツヒコ・カエシネと読まれてきた。

 しかし観はカンで韓、松は馬津で馬韓。

 ヒコは日子で日向と子の国。

 カの香はコウ=高、

 殖はフユで冬すなわち夫余、

 シは子、ネも子、子はコで高もコ、間違いなく高句麗を領有していた。

 この4帝を淡海三船は、

 孝昭・孝安・孝霊・孝元と、

 全て「孝」のつく法号で表現した。

 だからこの「孝」は、

 高句麓・高族の「高」なのだと以前にお話しした。

 三船の頃までは、まだ古代の天皇たちのことがよく知られていた証拠である。

 だが、それにも増して重大なのは、

 この4帝はこれまで欠史天皇と呼ばれて、

 架空の人物だと抹殺されてきた8帝の半分に当たることだ。

 真実は欠史どころか、その名乗りが、その領土まで詳しく語るのに…。

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古代天皇たちは高句麗を領有していたか?

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録18:5頁
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 これで、高麓だけでなく高句麓までもが、なぜ?コマと呼ばれていたかが完全にわかった。

 その語源が「子」すなわち「干支のネ」だったこともわかった。

 だから天皇たちの名乗りの「根子」は、そのネの発音と、

 干支の名詞「子」とを組み合わせたものと見ていい。

 するとそれは高句麗の支配者を意味するから、

 その名乗りをもった天皇たちで、

 この考えが正しいかどうか?確認することができる。

 大日本根子彦太瓊=孝霊天皇。卑弥呼=倭迩迩日百襲姫たちの父。

 大日はタカで「高族」、大国で「ウマ=午」、日は日向だから、

 カリエン以来の南海の支配地=琉球・奄美・南九州を意味し、

 本は、それ以北の本つ国=九州と朝鮮半島と見ると、

 根子はやはり最北の子=ネの位置にある高句麓を意味する名乗りになっている。

 位宮は卑弥呼の弟・稚武彦で、天照大神とスサノオに当たり、

 兄の高句麓王の死後、山上王として高句麗に行った。

 その父が高句麓を領していたことは疑いない。

 大日本根子彦国牽=孝元天皇。

 この天皇が、その位宮の兄であるから、高句麗も領土だったことは説明の必要もない。

 むしろ必要なのは、その高句麗領有は高霊天皇からか?、

 それ以前からか?という疑問への答である。

 高霊天皇の父はどうなっていたのか?。

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2011年4月28日木曜日

総崩れになった「根の国=冥途」の定説

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録18:4頁
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 スサノオの尊は「根の国に行きたい!」と泣き叫び、

 天皇の名乗りにも「根子」がついたものが多数みられる。

 根はネで、沖縄発音ではニだから、

 それはニルヤ=ニルバーナ(涅槃=ねはん)であり、

 ニライ・カナイと呼ばれてきた西方浄土のことであろう。

 というのがこれまでの、ほぼ定説だった。

 それはスサノオの尊が「母の国へ行きたい」と言って泣き、

 その母はすでに冥界の人であって、

 その根の国とは冥界のことだとする定説もあったからである。

 だが皆さんは、今からそれらの定説が完全にくつがえり、

 消滅してしまうのをご覧になる。

 なぜなら「根」が冥界なら「黄泉の国」で、そこは都そのものであり、

 そんな西方のはるか彼方にある国ではないし、

 不気味な死者の世界へ行きたがる子供もいない。

 それにも増して当時の大政治圏に君臨していた天皇たちが、

 冥途の意味で「根子」を名乗るとは、

 常識では考えられない。

 過去の定説は、とんでもない食わせ物だったというほかないからである。

 正しい答は、「ネ」は「子=ネ=干支のネ」、

 すなわち「真北」の方角を意味していたのである。

 だがそれ1つでは偶然ということになる。

 反対がわは真南で「午=ウマ」である。

 そこにはウマ=大国があればいい。

 南の海上には奄美大島がある。

 これは大之国(オオシマ)だから大国。

 すると北は子国で「コマ=高麗・高句麗」これは「小国」と書いてもいい。

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2011年4月27日水曜日

まだある我が国の古代大政治圏内=「干支圏」

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録18:3頁
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 過去の学者が想像もしなかった、我が国古代の政治圏の実在が、

 我が「言語復原史学」で発見され確認できた。

 それは『四神圏』に始まって、『五彩圏』に発展し、

 『方位名圏』が見つかり、『四季圏』が加わった。

 『記・紀』や『旧事本紀』などの古代文献も、中国歴代の『倭人章』も、

 ギリシャやインドなどの史書や経典類もその片鱗にさえ気づかず、

 欧米のどこの歴史書にも聖書にも見られなかった巨大な古代文化が、我が国で見つかった!。

 それは直ちに『魏書倭人章』などの核心を衝き、

 卑弥呼時代、壹與時代から天智天皇時代に至るまでの、

 秘められていた「大きな史実」と「大政治圏」の実在と、

 その背景と環境を明確に立証して、

 江戸から20世紀に至るあの賑やかだった「邪馬台国位置論争」や、

 「倭国・日本論争」「大化改新論争」が、まるでバカバカしくなるほどの古代地図を、

 ありありと展開して、本講の真価を決定的にした。

 これに刺激されたか新年早々、

 明日香のキトラ古墳の四神壁画の現状確認が行なわれて、

 古代史マニアの関心を煽った。

 痛快なことである。

 だが、我が国の古代政治圏の発見は、これで終わりではない。

 さらにもう1つある。

 それはこれからお話しする「十二支による地名」を、

 正確な方位に配置した『干支圏』の実在が確認できている事実である。

 それは私たちに、さらに何を教えてくれるのであろうか?。

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2011年4月26日火曜日

「万世一系」は本当に賞賛に値いするか?

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:32頁
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 奄美の島でひっそりと生き続けてきた

 古代地名「芦花部」が、

 次々に建国史の巨大なナゾを解いた事実と、

 次第にギリシャ語が日本語化し、

 また新しい日本語が次々に生まれて増え続けた史実が、

 以上で眼に見えるようによくおわかり戴けたと思う。

 我が国の政権は『記・紀』が書く通り、

 確かに古代にも政変によって幾度か皇朝が交替し、

 その支配者と支配圏も五彩圏帝国から新しいものに次々に変わっている。

 しかしその発想や根本思想はギリシャ以来はとんど変わっていない。

 変化は発展したために表現だけ新しくしただけで、

 その中心は常に天皇が掌握していて、

 後世の武家政治時代ほどひどくはない。

 だからその天皇の血統をみれば全て一つの血統に結びっき、

 万世一系は変わらない。

 というより変わりようがない。

 血液は結婚によってどんどん広がる。

 蝦夷の意味がわかった今では

 日本人全部が天皇家の血を受けていると言っていい。

 この事実が大切なのであって、

 一握りの一族以外は賤民だという

 在来の王権神授説式の万世一系思想では、

 未来は自滅しかない。

 天皇家でも聖人だけが生れるわけがない。

 国民に愛想をつかされては短命に終わる。

 そこで他の里人が交替してきたから、

 2000年の万世一系が保たれたのである。

 天皇家が永く続いた事実が

 「聖君が多かった」証明であってこそ、

 賞賛に値いするのである。

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2011年4月25日月曜日

名乗りが確定する『時間帯』は天智天皇の時

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:31頁

 これが何時のものかは、決定的な証拠がある。

 それは春と秋とが共通性をもっているからである。

 福岡は白日別。

 広島は大隅語でシロシマ=白之国(シロシマ)どちらも半島の新羅と

 誤認されてきた国名である。

 中国地方が新羅勢力下に入ったのは

 新羅王・金春秋=天智天皇の時で、

 それが神武東征の「十有二月…安芸国に至る(書紀)」

 「阿岐の国の多祁理(タケリ)の宮に七年坐す(記)」の史実なのである。

 だとすると、この春と秋は彼の名乗りにちゃんと入っている。

 春秋とは、福岡と広島という地名だったのである。

 では金は何か?。

 「キン」は彼の出身地・南九州では「キの」を意味する。

 「黄の」とは五彩圏の中央、

 四神に囲まれた全帝国の中枢、

 とりも直さず帝国の支配者を意味する。

 日本流にいえば天皇という名乗りだったのである。

 だから天智天皇の名乗りは

 天命開別、南九州語のキンは沖縄語の「チヌ=天」。

 やはり天の王=テミスへの当て字である。

 これは彼以外の名乗りにも例外はない。

 天の若日子は仲哀天皇。

 他の「天の○○」も皆、天皇なのだ。
 
 沖縄語がギリシャ語のテをチに変え、

 そのチを南九州語がキに変えた、

 またその南九州語のンか、

 標準語の助詞「の」であるといった

 「言語の発音変化」が、

 歴史の解明にどんなに重要な必需品であるか知らなければ、
 
 史学を語る資格はないとおわかりになったと思う。

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2011年4月24日日曜日

「時間帯」を教えてくれる地名変化の原則

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:30頁

 那覇は「ナ」ではないが、

 沖縄語はウチナをウチナーと発音する。

 このナは「国」を意味する国称だから「ナ」なのだが、

 それをナーとひっぱる。

 そこで新井白石が「縄(ナハ)」と当て字したのである。

 那覇も同じことで「覇」には元々特別な意味はない。

 長くひっぱった語尾に、勿体をつけただけのものにすぎない。

 だから港の津をつければナツ。

 福岡の娜津はこの那覇津の人々が移動した先につけられた

 「港湾都市の名」だったのである。

 これは冬夏の縦軸は沖縄本島から夫余までを含んでいるから、

 奄美に南限を置く卑弥呼の五彩圏より後で、

 沖縄を強く意識した時代のものだから、

 沖縄で即位した壹與と位宮の時代に始まっているが、

 その時代には広島はまだ安芸にはなっていない。

 だから、

 壹與時代にはナツとフユという日本語は生まれたが、

 四季圏はまだ生まれていない。

 四季圏は、

 倭(ウワイ)が日向から中国地方に移動して、

 上井(アゲイ)に発音が変わり、

 それに「安芸(アゲイ)」という当て字がつけられたあと、

 「アキ」と読むようになるには相当年月がかかる。

 中国地方を東進した倭人は

 卑弥呼と同じ高句麗系の長寿王=敏達天皇と用明天皇だから、

 その当時はまだウワイと呼ばれていた時代で、

 それがアゲイと発音を変え、

 文字も安芸に変えたあと

 さらに「アキ」と続み変えられるのには、また時間がかかる。

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2011年4月23日土曜日

四季の名が生まれ五彩圏超す『四季圏』実在

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:29頁

 ⑩ 四季の名が生まれ五彩圏超す『四季圏』実在

 それは、天武天皇の死後、持統・元明・元正と女王制が復活したことに対応し、

 その都も飛鳥、藤原と、仏教倭国の再現を意味している。

 邪馬壹国誕生で消滅したかに見えた卑弥呼時代の伝統が息を吹き返した。

 それが皇族の墳墓に五彩圏思想が見られる理由なのである。

 では、壹與時代に始まった

 「ヒガシ・ニシ・ミナミ・キタ」という

 『方位名圏』は、どうなったのか?。

 我が国には、もう1つ、

 春(ハル)・夏(ナツ)・秋(アキ)・冬(フユ)圏が実在していた。

 これは『五彩圏』と『方位名圏』とに、

 さらに対立する領域名として、

 『四季圏』と呼べるものである。

 まず冬だが、これは寒い季節だから北である。

 高句麗の隣りに実在した

 夫余(フヨ)は、

 沖縄発音では「フユ」、

 ぴったり日本語の「冬」の発音と重なる。

 夏は当然「南」だから、

 博多湾の古名「娜津」が「ナツ」。

 互いに対象的な位置にある。

 その博多の福岡市には「春(ハル)町」があり、

 そのすぐ南には福岡市に隣接して春日市がある。

 発音は「カスガ」市だし、位置も少し具合が悪いが、

 「ハル○」だった可能性がある。

 これは西だから、その東を探すと、

 広鳥の古名は安芸(アキ)、

 これもまた、ぴったり「秋」に合う。

 すると位置の悪い夏は娜津以外に、

 もっと南にあったはずである。

 福岡と広島の東西の線から夫余までと、

 ほぼ等距離に、沖縄の首都・那覇がある。

 そこは港で、古語の津だから、ナツに合う。

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2011年4月22日金曜日

ギリシャ色名文化が物語る日本誕生までの推移

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:28頁

 ⑨ ギリシャ色名文化が物語る日本誕生までの推移

 では、それは、卑弥呼政権没落後はどうなったのか?。

 玄武と呼ばれてきた動物は亀と蛇で、

 これが亀(キ)蛇(ダ)で「北・キタ」の語源であることは、

 もうよく御存知である。

 南も皆海だから「ミナミ」だと本号の前の方でお話しした。

 東は「日向ひ」だから大隅語でヒムカシ、今も詩歌ではこれを使う。

 「ヒガシ」はその訛りである。
 
 西の「ニシ」は沖縄語では「北」のこと。

 そこから北にあるのは九州本土。

 そこにあった伊都国には、

 爾支(にし)という最高支配者がいたと

 『魏書倭人章』が記録している。

 この爾支は「ニシ=西」によく合う。

 壹與は新羅の始祖王だったから都は白日別=福岡へ移った。

 そこから見れば佐賀の伊都国は西に当たる。

 沖縄からみてもニシ。

 福岡からみてもニシに爾支がいた時代は壷輿時代だ。

 それまでの卑弥呼時代の方位名をやめて新しい名で呼んだのは、

 壹與政権からだったことがわかる。

 これは高句麗王として魏の公孫氏討伐戦に参加した位宮が、

 魏軍に学んだ新知識の「中国式方位名=東西南北」を

 邪馬壹国式にアレンジしたものだったのである。

 それは倭の五王時代にも使われていた。

 倭王・武が「西は66か国」と書いたのは、

 視点が九州北東部にあり、

 西はまさに「爾支支配圏」に当たる。

 しかしギリシャ式色名文化が消えたのではない。

 日本誕生時にはキトラ古墳壁画に見るように、

 復活しているのである。

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2011年4月21日木曜日

完全に消滅した「中国文化の朝鮮経由流入説」

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:27頁

 こうして「芦花部」という、たった1つの地名が、

 こんなに大きな問題のナゾを、

 的確に次々に解くことができたのは、

 それがギリシャから伝わった

 「色名文化」の1つ

 『五彩圏』が実在したお陰だということを、

 ここで改めて、よくわきまえておいて戴きたい。

 そしてまた、

 それが「名乗り」という独特の方法で保存されたのも、

 またギリシャの伝統であって、

 中国歴代の王たちにも、

 また『三国史記』の朝鮮王たちにもそんな名乗りはない。

 中国にはこの重要な「名乗りがない」という事実で、

 我が国の天皇家を中心とする文化が

 中国から朝鮮経由で入ったという、

 在来有力だった文化流入経路仮説は、

 完全に誤りとして消滅したことを強く認識していなければ、

 余りにも知識人として時代遅れなのである。

 四神は方角を基礎としているが、

 その方角を「色と動物の組み合わせ」で表現している。

 北は黒で玄武、これはクロ・タケシへの当て字。

 南は赤で朱雀、これはアカイヤで明宮の朱=アケと、

 雀はジャク=邪久=屋久=邪馬壹国の邪馬。

 東はアイオリヤで、これをアオリュと発音して青竜と当て字したもの。

 西は新羅で白木、これをシラコと発音して白虎(こ)と当て字したもの。

 これがギリシャ文化と倭人文化の混血児であることは、

 疑う余地がない。

 そして、この文化は、

 奄美に赤=芦花部があることで、明確に卑弥呼当時のものだと確認できる。

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2011年4月20日水曜日

「名乗り」はギリシャから来た文化

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 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:26頁

 この名乗りの由来は、

 白鳥の跡を追って出雲または但馬で捕らえ、

 それを皇子に献上した

 「鳥取造の祖」の天の湯河板挙にあると、

 『日本書紀』は垂仁天皇23年10月の小節に書く。

 この人物の板挙という名は「イタアゲル」、

 当て字を変えると「倭・健、ヤマトタケルと同じになる。

 この英雄皇子の陵は3つもあるが皆「白鳥陵」と呼ばれている。

 どうみても倭健と仲哀天皇は蘆髪蒲見別王を含めて同一人物なのである。

 だが湯河板挙は白鳥を追って出雲や但馬まで行っている。

 『古事記』になると姓名も山辺の大鷹(たか)に変わり、

 白鳥を追ったコースも

 木の国から針間、旦波、三野、科野(しなの)、高志などと、

 大変な旅を重ねて捕ったとある。

 これではとても卑弥呼時代の話ではなくなる。

 これは出雲(イズン)は出水(イズン)。

 但馬(タジマ)は種子島(タジマ)と読むと、

 話の原型がわかり、

 奄美から南九州までの、活動範囲に納まる。

 大鷹(たか)という名も

 「大高=大島と高の国」を意味し、少しもおかしくない。

 こうして「名乗り」は素晴らしい働きをしてくれるのである。

 ギリシャにはヘルマプロデイトスという名がある。

 これはヘルメスとアプロディテとの間に生まれた

 オス=男という「名乗り」なのである。

 名乗りと地名の関係は

 アテネとアテナイ、

 ロムルスとローマ、

 アレクサンドロスとアレキサンドリヤなどで

 充分理解できる。

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2011年4月19日火曜日

アスカを何故?飛鳥と書くのか?

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 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:25頁

 この名乗りの問題は、まだ終わりではない。

 それは天平以後にも姓として使われたからである。

 飛鳥戸(アスカベ)意等麻呂(オトマロ)は、

 大宝2年の

 豊前の国・上三毛郡・加目久也里(カメクヤリ)の住人だった。

 飛鳥戸造(アスカベのミヤツコ)弟見(オトミ)は、

 延暦2年に外従五位下になった役人で、

 安宿戸(アスカべ)と当て字したものや

 安宿造だけのものもあるから、

 当時は発音だけが日常使われていて、

 文字は固定していなかったことがわかる。

 これはアスカミヤツコと読むと、

 アスカミ=アシカビ+ヤツコ(奴)になる。

 また安宿造・立方呂には「飛部」と書いたものもある。

 在来は「アスカ」への当て字は

 明日香と飛鳥と安宿だと思っていた人が多いが、

 「飛」一字のアスカもあったのである。

 では何故?飛ぶ鳥と書くのだろう?。

 『日本書紀』は

 「蘆髪蒲見別王」が白鳥を盗ったので殺したと書いていた。

 殺されたのは、

 実は仲哀天皇だったのだから小さな事件ではない。

 その子孫が

 「鳥盗り」という渾名(あだな)で呼ばれたから

 「鳥取」という姓が生まれ、

 それを嫌った者が「飛鳥」という好い字に変えた、

 と見ると辻つまが合う。

 それが可能なのはトットリという南九州発音の場合だけで、

 トリトリやトブトリではこんなことは起こらない。

 現に鳥取県がそのトットリという発音で、

 語源と住民が南九州から来たことを証言している。

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2011年4月18日月曜日

整理すれば詳細な真相が見つかる仲哀天皇の記録

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 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:24頁

 蒲見、竃見はどちらも「カマミ」、

 甘美(カムミ)が語源の当て字で、

 カガミの「ガミ」も同じもの、

 これが奄美の芦花部の地名を名乗ったものであることは間違いない。

 ところが『日本書紀』の記事は、

 「越(こし)国が献上するためにもってきた白鳥を、

  彼が菟道河のほとりで横取りした。

  怒った天皇が兵士に命じて殺させた」とあるので、

 北陸から白鳥をもってきたのを、

 京都府の宇治川あたりで奪ったので、

 大和にいた仲哀天皇が殺させたのだと、

 在来は説明して済ませている。

 だがそれでは名乗りが何故?奄美大島なのか?説明がつかない。

 越は古代には高志(こし)で、

 沖縄を本拠にして、

 次第に九州から朝鮮半島を北上した高族のこと。

 鹿児島県西部の離島・甑(コシキ)島は「越来島」で、

 高族が鹿児島へやってきた遺跡だという島名。

 その首都が里(さと)で、

 越後(えちご)の佐渡は、

 それが移動発展した歴史を物語る地名になっている。

 菟道をウヂと読めば

 大邪馬臺(ウジャマダ)=宇治山田の

 ウジ=ウは大で大島、

 ジは邪馬国、

 ウチと読めば鹿児島神宮の所在地などの「内」という地名。

 河まで入れてウチカと読めば、

 小値賀(オチカ)島が五島列島の北部にある。

 いずれにしても京都の宇治に限る必要はない。

 卑弥呼は明姫=白玉だから白鳥にも例えられていたとみると、

 彼女と結婚して同じ名乗りをもつ彼は、

 高木の神の「天の返し矢」に殺された

 天稚彦=仲哀天皇自身だった可能性に満ちている。

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2011年4月17日日曜日

変形は激しいが卑弥呼と同じ名乗り実在

 『ウバイド』
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 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:23頁

 ここまで来れば

 「芦花部」という、

 この地名の、古代からの実在を疑う人はないと思うが、

 さらに念の為に、

 それが名乗りとして使われたかどうかを調査してみた。

 すると『記・紀』にも

 『先代旧事本紀(くじほんぎ)』の「天皇本紀」にも、

 明確にその名乗りが記録されていたのである。

 『古事記』は「足鏡別王」と書き、

 父は倭建命、母は山代の玖玖麻毛理比売だから、

 そのままだと仲哀天皇の異母弟になる。

 『日本書紀』には

 日本武尊系譜には書かれていないが、

 足鏡別王とほとんど同じ名の「蘆髪蒲見別王」が、

 仲哀天皇の元年11月の小節に出てくる。

 また『先代旧事本紀(くじほんぎ)』の

 「天皇本紀」と『住吉神代記』には、

 葦敢竃見別命が日本武尊と弟橘姫の子として出てくる。

 系譜は単純ではない。

 つねに深く研究して戴きたい。

 地名を名乗るのが「名乗り」なのだから、

 アシカビが元になっているとわかっているから、

 どれが良いか簡単に順位を決められる。

 「ビ」に「美」を使うとアシカミになる。

 「蘆髪」はそれに合うが、

 「葦敢」は、

 その蘆髪を「アシカン」と南九州語詑りで発音しているから、

 蘆髪より後で、

 足鏡は「アシカ・ガミ=アソカ神」に合い、

 地名からは最も離れているが、意味は一番正しい。

 これは地名を知らずに名乗りだけで

 『日本書紀』の誤りを訂正したものだと物語るから、

 『古事記』のこの部分は

 『日本書紀』を読んでから書かれたのだとわかる。

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2011年4月16日土曜日

神も奄美への当て字、徹底したアソカ仏教賛美

 『ウバイド』
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 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:22頁

 ついでだからも少しお話しすると、

 天之御中主神は、もう御存知の通りビシュヌー神で、

 仏教では仏教の最高の守護神・帝釈天だとしている。

 そしてこの名が沖縄語化したものが美紐縫神などと当て字されて

 「ミチヌウシン」と呼ばれたものを、王の名乗りに使ったのが、

 「美知能宇志の(ミチノウシン)王」だった。

 『古事記』はこの神を初代だと主張すると同時に、

 美知能宇志(ミチノウシ)の王=道の大人(ウシ)が最初の天皇だと、

 婉曲に、しかし強く主張しているのである。

 そしてもう1つ注意が要るのは、

 その次に挙げた2柱の神名、

 高御産巣日神と神産巣日神なのである。

 高御はカウ・ミで「カミ」、神と同じだが、

 その後の産巣日は「産はアレでア」「巣はス」「日はカ」。

 はっきりアスカと書いているのである。

 これがアソカの沖縄発音であることは、

 もうよく御存知の王の名で、

 それに「神」がつくはずがなく、

 それも後でなく前についているから、

 これは神という意味ではない。

 文字は神でもそれは当て字なのである。

 ではそれは何に対する当て字なのか?。

 先に甘美がでてきたが、

 甘はカンで「カ」、美は「ミ」だから、

 このカミは甘美がもとで、

 アマミを意味する名詞なのに、

 どこかでカミと読まれてしまったものだったのである。

 だから本当の内容は甘美・芦花で奄美のアスカ。

 3神の名は実は同じで、1つの名だったのだ。

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2011年4月15日金曜日

完全に確認できた「『古事記』は仏教徒の国史」

 『ウバイド』
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 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:21頁

 その地名はいま大島にある。

 オオシマは倭之国(オオシマ)、

 淡島(オオシマ)も同じだから、

 淡島がなぜ「子の数」に入らないのか?という

 「国生みのナゾ」も解ける。

 芦花部といった今の人には、

 ほとんど知る人もない地名が、

 こうして、どんどん

 『記・紀』のナゾを解いてしまったのである。

 でも、これがどうして?、

 ⑧ 『古事記』とは何かという真相と立証なのか?、

 それをこれからお話ししよう。

 ご覧のように『日本書紀』は、

 この葦牙の神を宇宙最初の神だとして

 『国常立神』としているのに、

 『古事記』はそれを否定して4番目の神だとし、

 『国常立神』という名も書かず、

 それ以前に天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神を挙げている。

 なぜその『国常立神』を抹殺したのか?。

 それは、この神がシンドゥ教の神だからである。

 それを「プラジャーパテイ」という。

 「プラ」は「国」だから国の字を当てているが、

 後は適当な訳ができなかったとみえて、

 「ジャー」に「常(じょー)」、

 「バテイ」に「立(たち)」を当てている。


 これがこの神名の真相なのである。

 『古事記』筆者は、

 このシンドゥの神を容認することができなかったから、

 それを密かに阿斯訶=アソカ王に変えたのである。

 『古事記』は自国の国名まで、

 日本ではなく「倭」に変えた本である。

 『古事記』は紛れもなく「仏教徒の国史」だったのだ。

 その真相が、

 この芦花部という地名1つで完全に立証されたのである。

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2011年4月14日木曜日

天津神・『宇麻志阿斯訶備(うましあしかび)比古遅』の正体

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『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:20頁

⑦ 天津神・『宇麻志阿斯訶備(うましあしかび)比古遅』の正体

古代にはシの当て字に斯の字を多く使っている。

この字はいまの「瓦斯(ガス)」という当て字でおわかりのように

「ス」と読まれている。

だからアスカとアシカは簡単に入れ替わる。

この芦花(あしか)部はアスカベという名と同じものだとすると、

奈良の明日香は少なくとも2世紀に奄美大島で生まれていたのである。

だがこの地名は本当に2世紀からある、そんなに古いものなのであろうか?。

部の「ベ」という発音は沖縄語では「ビ」なのだから、芦花部はアシカビ。

すると『記・紀』にこれとぴったり同じ名の神様が記録されている。

『古事記』は

「葦牙(あしかび)の如く萌(も)え騰(あが)る物によりて、

成れる神の名は『宇麻志(うまし)・阿斯訶備(あしかび)・比古遅・神』」と書くが、

『日本書紀』は

「天地の中に一つの物が生じた。

その状『葦牙』の如く、化して神になる。

これを『国常立神』と号す」と書いてある。

この『葦牙・阿斯訶備』が、

どちらもアシカビと読まれてきたから、

芦花部のアシカビと完全に一致する。

その前に書かれた『宇麻志』も、

「甘美(あまみ)」と書いて「うまし」と読むので、

今の文字なら奄美なのである。

『宇麻志・阿斯訶備』とは、

『奄美の芦花部』という「地名」だったのだ。

比古はそこの支配者、

遅はチだから沖縄語の助詞「津(チ)=の」で、

名乗りだと、はっきりわかる。

これが『日本書紀神話』の最初の神なのである。

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2011年4月13日水曜日

万世一系の真実度と聖徳太子と馬子の真相

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『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:19頁

これで7世紀の蘇我氏とは、

2世紀の卑弥呼の夫・仲哀天皇から

連綿と続いた万世一系の家系だったと

明瞭におわかり戴けたと思う。

これが

⑥ の「それが語る蘇我氏の正体」である。

もう一度、よく確認しておくと、足仲も息長も蘇那葛も牛頭も、

全て蘇我・曽我・宗我・巷宜などと当て字された

ソナカに対する当て字だったのであって、

その皇統はアソカ王までさかのぼり、

さらにアレクサンドロス当時の

チャンドラグプタによるマウルヤ王朝に遡る。

このマウルヤは「馬得る国(ヤ)」と当て字できるから、

7世紀人たちは得馬古(うまこ)・馬子という当て字を選んだ可能性も、

『法王帝説』などの文献を読むと見えてくる。

そして何よりも重要なことは、

聖徳太子の厩戸もまたウマコへの当て字だということである。

『日本書紀』は意識して2人に書き分けているが、

同時に同じ名乗りの人が肩を並べるような地位にいるはずがない。

これがわかると聖徳太子のナゾは1つも残らない。

馬子が臣下でありながら専横政治を行なったのではない。

悪く見えるように、

『日本書紀』が小細工をしただけなのである。

こうみてくると彼らの首都が、

なぜ?アスカだつたのかも見えてくる。

卑弥呼の出発点は芦花部だった。

これはアシカベでアスカベとは1字違いでしかない。

その語源がアソカ王にあるとみると、

沖縄ではアソカはアスカになるから

飛鳥・明日香はそれに対する当て字だ。

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2011年4月12日火曜日

蘇我馬子と仲哀天皇とは同じ名乗りの持ち主

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『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:18頁

<蘇那曷叱智>と<足仲比古の智(チ)と古(コ)は、

「木」に変えると、「チ」はキの沖縄語発音。

「コ」は古語の木の発音で、同じもの。

また「叱と比」は大隅語と本土語の「ヒ」で同じだから、

この2つの名は同じもので、ただ当て字が違っているだけだとわかる。

もっと面白いのは、比古はビコと読む習慣もあったから、昆古とも書く。

沖縄語の「ビ」は南九州語では「ベ」に翻訳される。

だから比古は「ベコ=黄牛」と同じ名になる。

すると朝鮮語の「牛=ソ」を知っている南九州人は、

頭をカシタと発音するからソナカシチという名は

「牛の頭(ソなカシタ)」のことだと思い牛頭天王と呼ぶ。

現実にスサノオノ尊は牛頭天王と呼ばれているから、

「誓約(うけひ)」によって天照大神の夫になった

スサノオノ尊は、仲哀天皇と重なる。

また息長=蘇那曷は「ソ」な「ガ」で、

「な」は助詞の「の」だとみれば、

ソガと書いても「ソナカ」と発音できる。

曽我・蘇我はソナカと同じだった可能性がある。

それは蘇我が仏教政権の中枢にいて、

それに反対した物部守屋を殺し崇峻天皇まで殺したからである。

すると蘇我馬子という名は息長比古と、

馬と比だけが違うだけの1字違いに見えてくる。

馬は「メ」という発音がある。

比は「ビ=美=ミ」だから、

沖縄のミは南九州ではメである。

だから馬子は比古・彦と同じもので、

蘇我馬子は仲哀天皇と同じ名乗りだったのである。

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2011年4月11日月曜日

卑弥呼の多数の別名と仏教入信と神功皇后だった証明

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『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:17頁

卑弥呼が天照大神のピューティヤ・天照大御(女)神として、

地域の人に尊崇されていたとき、

ソナカ皇子(蘇那曷叱智=天日矛=天稚彦=仲哀天皇)に求婚されて、

それを嫌って逃げ出した地域がどこだったか?

それがこれまで不明だったが、

このアガフイの幼名を今に止どめている地名が、

彼女の誕生地とわかっている伊是名島以外で見つかったこと、

しかもその地名が、

伝承に記録されている「赤玉」「明姫」とピッタリ合うことで、

そこが幾つもの伝承が物語る

「運命の出会いの場所」だったことが確認できた。

またソナカがソナカ仏教宣布団の一員として、

我が国に広めようとしてやって来た目的である

「信仰=仏教」に、

彼女が改宗して、

倭(W'ai=ウアイ=優婆畏=女性仏教徒)女王になったことも、

全て作り話の説話ではなく、

現実に起こった史実だったことを証言している。

これが

④ の「卑弥呼と仏教との関係・ソナカとの出会いの証明」である。

ソナカは足仲(ソナカ)、

足仲比古は仲哀天皇だから、

その妻は神功皇后。

卑弥呼は天皇と共に出陣して現実に旧帯方郡までを領土に加え、

息長(ソナカ)・帯(タイ)・姫の名乗りをもっている。

これで、

⑤ の「なぜ彼女が神功皇后か」が、

さらに詳しく確認できたばかりでなく、

『記・紀』その他が書く

「神功皇后伝承」の、

皇后の出発点がどこだったか?

も決定的にわかったのである。

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2011年4月10日日曜日

卑弥呼の幼名と居た場所と五彩圏のルーツの確認

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『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:16頁

しかし、ほんとうに間違いないか、念をいれて確認してみよう。

これが沖縄語だとすると部は「ベ」ではなく「ビ」でなければならない。

するとアガフイという卑弥呼の幼名に合う。

古代の当て字は様々なものが使われたが、

アガフイという沖縄型の発音には

阿賀日という当て字が一番ポピュラーである。

この字だと誰でもアカヒと読むし、

大隅人はアカシと発音する。

すると明石・赤石という地名や姓にも一致するから、

実在した証明には事(こと)欠かない。

この地域に赤に当たる地名が沢山あっても、

その中で卑弥呼の出身地に当たるのは、

ここしかないと結論できる。

だからこの地名は、

① 卑弥呼の幼名と、

② 居た場所とを同時に証明している。

彼女が選んだ五彩圏の起点であることはことは間違いない。

この大きな五彩圏は卑弥呼の最盛期のもので、

13頁の2つはそれを挟む時代のもの、

こう確認できると、それは倭人の文化だったという結論になる。

しかしそれと同じものが、それ以前にギリシャにも実在していた。

そこには日本語の色の名の発音と同じ地名が。

全部、正確な位置に配置されて現在もなお揃っている。

倭人の五彩圏はギリシャ人とギリシャ文化が日本にもやってきて、

卑弥呼政権がそれを受け継いでいた史実を立証している。

これが

③ の「倭人五彩圏文化誕生の真相」である。

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2011年4月9日土曜日

卑弥呼の記念すべき聖地「芦花部」

『ウバイド』
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『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:15頁

この基肄(きい)が中央だと、

帯方郡使がそこを起点にして、

わざわざ書き加えた

「水行二十日」の投馬国は、

「水行十日・陸行二十日」の邪馬壹国よりも、

はるか南の島だとわかる。

当時の交通事情を考えると、

そんな所に領土をもっていても往来するだけでも大負担で、

決して利益にはならない。

それなのに『魏書倭人章』が、

宗主国の邪馬壹国と並べて特記したのは、

そこが並々ならぬ重要な土地=卑弥呼の聖地だったことを

教えているのである。

ではそこは一体?

何処なのであろう?。

いま奄美大島の首都・名瀬市に

「芦花部」という地名がある。

これが前号のご挨拶の中で「予告」させて戴いた

「たった1つの地名」なのである。

『万葉集』などでご承知のように、

古語の仮名(カナ)として読めば、

芦はア、花はカでアカ=赤。

部はべで「アカベ」、

幼児語の「あかべ!(あかんベー!)」でもある。

伊都国を中心にすれば北の高句麗と似た位置に、

この南の赤がある。

卑弥呼が比売碁曽で阿加流比売(明姫)であることは、

『古事記』が天の日矛のところで書き、

もう私たちには常識だから、

彼女は南の国でピューティヤをしていて、

皇子に見染められて逃げたことは、

周知の事実だといっていい。

この南島地域には他に赤に相当する地名がない。

だからここがその彼女の故郷であり、

最盛期のアカイヤに当たることは、まず間違いない。

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2011年4月8日金曜日

卑弥呼時代の五彩圏と黄の国の豪華さ

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『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:14頁

彼女が無力であった当時は、

たとえ出身地であっても、南海は単なる故郷にすぎず、

直接支配する統治圏の中に入っていなくても不思議はない。

しかし北は高句麓におよぶ大帝国を築きあげた晩年は、

少なくとも彼女が、

かつて領有していた土地を傘下に収めていた可能性は高い。

まず

北から高句麗=黒。

東は大分=オオ=青。

西は平戸=ヒラド=シラコ=白木。と見てくると、

中央はどうしても伊都国のあった佐賀市一帯でなければならない。

今変えられて、なくなってしまっているが、

『倭名類聚鈔』をみると、

『肥前国』の項に「基肄(きい)郡」がある。

ここは他の郡と合併して今では三養基(みやき)郡になっているが、

最後の「基」の字に、その名残を止どめている。

黄色は西日本では「キ」でなく「キイ」と発音するから、

黄の国だった紀州も、わざわざ「紀伊」と書く。

また霧島も地元では「キイシマ」と発音する。

この基肄(きい)も同じで、「キイ」という当て字が、

かつて「黄の国」だったという動かぬ証拠になっているのである。

この郡には姫社(ひめこそ)、山田、長谷、葛木、物部、財部といった

建国史の錚々(そうそう)たる豪族名が並び、

筆頭の姫社は

『記・紀』が比売碁曽・比売語曽・比売許曽と書く卑弥呼の名で、

それと山田は彼女の神宮名でもある。

これで、ここが当時の黄の国だったことは一層動かなくなる。

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2011年4月7日木曜日

卑弥呼の初期と敗戦後の五彩圏

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『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:13頁


それ以前の五彩圏を探してみると、次のような小さいものが実在している。

      A  栗野       
        (姶良郡)       
         ↑       
開聞 ← 姫木→  大隈  
(揖宿郡) (姶良郡) (姶良郡) 
         ↓       
         赤水         
        (桜島)        


 B          球磨
           (熊本県)
                 ↑
不知火 ← 霧島 →  青島
  (川辺郡) (姶良郡) (宮崎県)
                ↓
           有明  
             (曽於郡)


Aは卑弥呼の若い頃の範囲。

Bは卑弥呼政権が敗れて

東へ都を移した当時の範囲とみると合理性がある。

では彼女の最盛期には、どうなっていたか?。

それは勿論、彼女の出身地である南海からに至る、

九州と朝鮮半島の全域を包括するものでなければならない。

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2011年4月6日水曜日

壹輿時代の五彩圏実在と、ミナミ(南)の語源

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『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:12頁

では日本では五彩圏はどんな歴史をたどり、どうなったのであろうか?。

結論を先にお話しすると、

小国・日本はギリシャ人の国を「毛人之国=霧島」と

呼んで自分たちと区別している。

この小国・日本は

「薩摩(さつま)=壹国(サツま)」を中心にしているから、

3世紀には位宮と壹輿政権のことであり、

開聞(シラキッ)があり

壹輿が赫居世(かごし)で新羅始祖王なのだからシラ=白。

その東の霧島は黄で、

その東の宮崎県に倭国=オオ=青があったのに完全に合う。

この配置はまさに壹輿の赫居世時代のもので、

当時は北端に高句麗の黒があり、

壹輿の出身地であり位宮の名乗りでもある琉球が、

アカイヤ以来の「アカ=南」という方角名をもっていたのである。

このことは、

さらに南をなぜ?ミナミというか?という日本語のナゾも解く。

そこの有力住民だったソナカ仏教宣布団の人々は、

その「アカ」をパーリ語の「水=アクァ=アカの国」として受けとって使い、

水を「ミッ」「ミ」と発音していた九州本土の人々はそれを受けて、

南海を総称して「皆水(ミナミ)=ミナミの国」と呼び、

さらに南海と書いてもミナミと読んだから、

「南=ミナミ」という日本独特の名詞が定着したのである。

この結論に欠陥はないか傍証を求めてみると、

大海のことを咸(かん)池・咸海とも書く。

この「咸」の訓(よ)みは「ミナ=皆」だからやはりミナミで、

源=は水元(すいげん)だけでなく

「皆(国民)の本=天皇家」出身を意味している。

『参考』

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2011年4月5日火曜日

今も生きているギリシャ生まれの五彩圏思想と文化

『ウバイド』
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『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:11頁

こうみてくると

ギリシャの<五彩圏>は<中心の黄>が見当たらないが、

<四神>に囲まれているので、

ギリシャそのものが<黄>に当たることは、

少し考えれば誰にでもわかる。

やはり<五彩圏思想>は、ギリシャ生まれだったのである。

しかしギリシャは我が国にはない。

だからそれに当たるものをキ=黄で表現した。

これが五彩圏に残されていた最終のナゾの、明快な答である。

ギリシャでは現代まで、それらの四神を配置した国名が残っているし、

国名に色名を使う伝統もアルバニアなどと表現は変化しながらも、

今なお使われている。

そして古いほうは、

今では日本語にしか合わないので意味不明で、

それが色の名であることさえわからなかった。

それを発見した私たちの研究は、決して無駄ではなかったのである。

それに成功したお陰で、

私たちは真実の建国史を見つけることもできた。

もし仮に、ギリシャ文明が残したそれらの地名が、

消されて別の名に変えられていたら、

私たちは永遠に史実を失ったのである。

これで地名・国名の保存がどんなに大切なものか、

地名がいかに貴重な文化財であるかが、

身に泌みてよくわかる。

我が国では

無知な行政公務員がどんどん地名を破壊し破棄してきた。

それがどれはど私たち国民に巨大な損害を与えてしまったか、

彼らがどんなに悪質な文化の破壊者、犯罪者だったか、

徹底的に糾弾される日がくるのは眼にみえている。

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2011年4月4日月曜日

発音の地域差が生んだ当て字の証拠群と証拠力

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:10頁

沖縄語は<ニワトリ>を<ミヤドリ>と呼ぶ。

本土語と<N>と<M>が入れ替わっている。

また語尾の<ス>は<シ>に変わる。

だから<テミス>は<天子>になる。

それをカナで書くと<チヌシ>だが

その発音を耳で聴くと<チナー>に聞こえる。

だから古代沖縄には「天=テン」という発音は存在しなかった。

<大隅語はその沖縄語と鹿児島語の混血児>である。

<ケ>の発音はなく<ケ>は<キ>になるが、

沖縄のように<キ>が<チ>にはならない。

だから「毛」は<キ>である。

すると旧『唐書』の小「日本国」の記事の最後にある

「山外すなわち毛人の国」の毛人は、

面白い答を幾つも教えてくれる。

私が耳にした戦時中の大隅語を含む南九州語は、

<ラ行をザ行かダ行で発音>していた。

<リン>は<ジン>、<ルスパン>は<ズスパン>、

<ライオン>は<ダイオン>といった調子だった。

だから<毛人>も<キジン>なら、

<麒麟>も<キジン>だった。

隋の小説『古鏡記』の鏡の中央にうづくまる

<麒麟>はこれでいくと<毛人>だったのである。

その鏡には我が国の<四神>が彫ってあったのだから、

この考えは間違ってはいない。

その<毛人>の国は

小国日本=鹿児島県の東北を境する大山以東にあった。

その<大山>は今「霧島」と呼ばれているが、

これは「<毛人之国>(キリシマ)」への仮の当て字であり、

最後の国称を<マ>から<ヤ>に変えただけで

「キリシヤ」に変わることは、もうよく御存知である。

<毛>は<キ>。

<毛人>は<ギリシャ人>。

<四神の中央>に君臨していたのは<ギリシャ人政府>だったのである。

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2011年4月3日日曜日

天子=テミスと、アポルロン=スサノオ=位宮

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:9頁

だが発音が、もっと<天子>に近い「テミス」という神がいる。

彼は<アボルロン>が<デルポイ>を奪い取る前に、

その神殿で<神託>を授けていた神である。

ところがそれまで、

寒い北風の国の<ヒューベルボレオイ>にいた<アボルロン>は、

<ゼウス>と<ヒュブリス>の子である<バン>に予言を習い、

<デルポイ>へやってきて、

神殿を守る大蛇・<ピュートーン>を退治して、

<テミス>に替わって予言し、

<ピューティア>たちに神託を述べさせた。

これは<スサノオの命>が寒い朝鮮半島から帰ってきて、

<八俣の大蛇>(おろち)を退治して<八上姫>と結婚し、

王になった話そのままである。

この神話の真相は

<スサノオ>と<天照大神>の

「誓約(うけひ)」=実は政争であり戦争でもあった

史実で、<高句麗王位宮>が、

<卑弥呼政権>を倒して<邪馬壹国>を樹立した事件だが、

それをスサノオ伝説にスリ変えた時、

この<アボルロン>の神話がモデルになったことは、

その余りの一致と、『記・紀』にあるその他の説話が、

大量にギリシャ神話から借用したもので満ちている事実から、

どんなにしても否定することは不可能である。

これもギリシャと我が国が「2大神話国」と呼ばれたことの理由と、

これまで隠れていた本当の深層を見せてくれているのである。

この<テミス>はさらに最も重要なことを教えてくれる。

それは「天子」は国家の最も重要な中心人物だということだ。

そして<テミス>もギリシャの中心・<デルポイ>にいたのである。

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2011年4月2日土曜日

チナ・キノに合うギリシャ地名・テノス

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:8頁

だが、まだ完全に解決したわけではない。

それは最も重要な位置を占めている

<中央の黄>がギリシャにないことだ。

そこで見つかったのは<橙色>であって<黄>ではない。

あらゆる可能性を考えて出た結論は、

この答は沖縄語が<キ>を<チ>と

発音すること以外にないということである。

そこで「沖縄」と

新井白石が当て字した国名の<ウチナー>を考えてみると、

<ウ>は<大>という美称として省くと、

<チナ>が本来の国名として後に残る。

これは<チヌ>・<チン>・<ツナ>・<キノ>と変化しながら、

<倭王・珍>を経て現代まで、

我が国の建国史を貫いて「中央」を意味し、

最後には「畿内」に至る「キ」の本体として

実在が確かめられた「巨大な文化財」なのである。

だから<チナ>は「黄国(キナ)」である。

ではなぜそれが「国家の中央」を意味するのであろうか?。

古代ギリシャの名詞を調べてみると、

これに該当するように見えるものが1つ見つかった。

地名の<テノス>である。

これは沖縄では<チヌシ>になるから

「地主」という領土の所有者を意味する当て字に合う。

これに助詞の「ン」を挟むと、<チンヌシ>=<テンヌシ>=天主、

テンヌーシ=<天の御主>=<天の大人(うし)>⇒<天皇氏>という当て字もすぐ生まれる。

しかしこの<テノス>は単なる地名に過ぎず、天皇を意味するような何物ももっていない。

これでは「他人のソラ似」「コジつけ」と軽蔑されても文句はいえない。

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2011年4月1日金曜日

橙色も「色」という言葉もギリシャから

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:7頁

ついでに日本語の<橙色>(ダイダイいろ)という変わった色の名は、

どこからきたかもお話ししておこう。

これは<斧>や<車>や<帆>を発明した

ギリシャ筆頭の大技術家<ダイダロス>が、

ミノス大王の王妃・<パシバェ>のために作った牝牛(めうし)像からきている。

この牝牛は輝く<橙色の眼>をもっていた。

だから、

その眼にそっくりな<柑橘>を<ダイダロスの眼>(メ⇒ミ)⇒実と呼び、

それが南九州で<デデ>と縮まって変わったものが、

本土語で<ダイダイ>になったものなのである。

さらに、ついでにお話しすると、

可愛い<キューピー>は英語、ラテン語の<クピド>、

ギリシャ語の<エロス>だが、

彼は恋の仲立ちをする「色ごと師」である。

恋愛や恋人を我が国で「色(いろ)」と呼ぶのは、

この<エロス>が大隅で「イロ」と発音が変わったからで、

それは色情を離れて、

すべての色の日本語発音「イロ」としても使われることになったのである。

だから<イロ>というものへの認識と、

その色の名は、ギリシャ人が日本にやってこなければ、

生まれるはずのない言語だったことがわかる。

これで日本の色名がギリシャ生まれだということは疑う余地がなく、

それがいつ、どう使われたか、経過まで明確になった。

だから四神は中国ではなく

ギリシャ生まれの日本育ちで、

中国へは逆に日本から、

<鮮卑人>=<隋唐人>が<五胡十六国時代>にもって行ったのだと、

細部まで詳細におわかり戴けたと思う。

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