2010年12月31日金曜日

金波鎮漢紀武のナゾは八咫烏が解く

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:21頁

でも、允恭天皇を倒した金波鎮漢紀武は、

本当の実在者なのか?。

名を分析してみよう。

金はキン。

波鎮はハチン。

漢紀はカンキ。

武はタケシと読もう。

キンは、

南九州語とみると

「キの」で「紀伊(キ)の」という名乗りに合う。

紀伊は興が五瀬の命として死んだところだから、

そのとき弟の神武=武は紀伊の領主だった。

金・キンは、それに完全によく合っている。

波鎮は新羅の官名か称号だとする説もあったが、

武は応神天皇=大隅八幡を始祖にもち、

仁徳の出発点が宇佐八幡。

自分も八幡徒=ヤマト朝廷を

大和に始めて導いた雄略天皇なのだから、

波鎮はハチンでなく、

ハチマンへの、まずい当て字だと断定していい。

カンキも本当は「韓木」が元の当て字だったとみると、

その発音はカラコ。

その元の字は「韓子」が妥当だから、

それはカラスとも読めるので鳥の「烏」、

大雀や木莵(ミミヅク)の名をもった一族の名の1つである。

八幡をヤハタと読めば「ヤハタガラス」。

紀伊から大和へ神武軍を先導した有名な

「八咫=ヤアタ、鳥=ガラス」という名が完成するが、

この八咫烏は京都の賀茂御祖(みおや)神社に、

賀茂建角身(タケツノミ)の命として祭られている。

「建=武=高市・の・身」だ。

身はミともシンとも読めるから

「臣」に換えると高市の臣、

タケチノシンかタケチノオミで両方とも意味は同じだ。

即位前の武=雄略天皇自身の名乗りになるのである。

『参考』

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2010年12月30日木曜日

万世一糸と允恭問題。允恭の名乗りは難升米

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:20頁

これまでお話ししてきたように、

允恭天皇は倭の五王にとっては敵の天皇であって、

仁徳天皇以下、

歴代の記事中に必ずある

「皇位継承争い」の一種である。

高句麗王家といってもそれは同系の九州に残った同族であり、

九州から見れば、

むしろ自分たちが本家で、

近畿の天皇家が分家に見えていたのである。

万世一系とはそういう意味で、

決して実父から実子へ相続したという意味ではない。

そうでないとしたら天皇家は、

後醍醐天皇の南北朝時代に、

万世一系ではなくなってしまって、

北朝の現天皇家はニセモノだと断定するしかなくなる。

ところが、そうではなくて、

私のいう通りだと証明するのが、

『記・紀』の役目だといっていい。

それは注意して読めば、

至るところでその継承が切れて、

別の有力者が現われては、

それを継いでいることを教えることに精力を注(そそ)いでいる。

だから『記・紀』は、

血統ばかり重んじて、

それだけでバカ殿様に皇位継承させてはいけないということを、

重要なテーマにした『帝王学』と倫理の教科書であり、

古式の『憲法』でもあったことがわかる。

しかし血統も重んじたのは、

継体天皇が応神天皇の5世孫だと、

執拗に主張したことでも明らかであり、

允恭の名乗り男浅(ナンセン)津間(マ)も、

助詞の津を余分に挟んでいるだけで「ナンセンマ」

『魏書倭人章』の

難升米(ナンサンマイ)の世襲だとすぐわかる。

3世紀からの血統は変わっていない。

『参考』

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2010年12月29日水曜日

疑問の余地ない、允恭・雄略両天皇の全て

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:19頁

これで安康天皇が

允恭天皇の子ではなかったことが証明された。

では雄略天皇だけが実子だったか?。

『古事記』の名乗りは彼が種子島の長谷を名乗っていて、

いかにもこの一族の一員のように見えるが、

彼は允恭を倒して、

その次の天皇になったので、

跡取りという意味では確かに

「皇太子」の位置にいるが、

直接、血のつながった実子ではない。

ちょうど日本武尊が熊襲を倒して、

その名乗りの「日本武尊」を受け継いだように、

天皇の地位を得たから、

子として名を連ねているだけである。

さらにこの皇后の父や后妃皇子女の名乗りを見ると、

それはまさに

日本=肥索=クマソ=熊本で、

熊襲退治の舞台そのものである。

そして雄略天皇の固有名もまた「武」である。

だとすると允恭天皇の

「男浅津間」はナン・アサの国と読める。

もとは「南阿蘇の国」だったとすれば、

この一族の名乗り群に合理的に一致する。

肥後はヒゴ。

大隅語でシゴ。

沖縄語になるとチゴ・チグァ。

「稚子」はこれに対する当て字だった可能性も大きい。

すると何よりも高麗は略称高国でクマ。

高句麗王朝の本拠だった土地だ。

故国川王が球磨川王への当て字で、

他の王たちも薩摩から熊本地方に都していたことは、

よくご存知である。

応神天皇の育ての親、

武内宿祢の宿祢を名乗る允恭天皇が何者だったか、

疑問の余地はない。

『参考』

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2010年12月28日火曜日

近畿の地名の当て字に変えた『日本書紀』

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:18頁

『日本書紀』   正しい名乗り        [天皇名]

皇后は 

稚薄毛二派皇子 (チヌギ=津奈木・三派=ミナマタ=水俣)皇子の娘

忍坂大中津姫   忍坂(奈良県桜井市にもある)

皇子女 

木梨軽皇子    軽(大和の国、高市の郡、軽村があった)

名形大娘皇女   長田(神戸市長田が神社で有名)

軽大娘皇女    軽(大和の国、高市の郡、軽村があった)

八釣白彦皇子   八爪(八幡への当て字)

大泊瀕稚武天皇  長谷(奈良県桜井市にもある)[雄略天皇]

但馬橘大娘皇女  タジマ=種子島だが、但馬国は兵庫県の一部

酒見皇女     坂井(大阪府堺市)

計7名

安康天皇と境黒日子王の2人が消え、

当て字も本来の地名がわからなくなるよう小細工がしてある。

それは南九州ではなく、近畿の人に見えるように変えてある。

しかし皇后の父が熊本県の地名を名乗ることは、

祖父・応神天皇がどこにいたかまで見事に証言している。

『参考』

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2010年12月27日月曜日

全員、南九州の名乗りをもつ允恭天皇の一族

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:17頁

『古事記』の允恭天皇の系譜をご覧いただこう。

当て字   読みと地名・(古音は清音)    [天皇名]

皇后は 

意富本抒王(イヅミ・ホンド=出水・本渡)王の娘の

忍坂大中津比売命(オシ・サカ・オオ・ナカツ・ヒメ=大隅・坂井・倭・長田)

皇子女 

木梨軽王(キリ・カル=霧之国(シマ)=霧島・鹿児(カル)之国=鹿児島)

長田大郎女(ナカタ=ナカツ、屋久島の長田)          倭長田

境黒日子王(サカイ=種子島坂井、クロ=高麗、ヒコ=日向)坂井

穴穂命(ケチホ=カウチホ=高千穂=高はコウ=河内王・興)  [安康天皇]

軽大郎女(カル=鹿児之国=鹿児島)衣通郎女(ソツ=襲津=襲の)倭

八瓜白日子(瓜は爪(ツマ)=ハツマン=八幡=大隅語。シラジッ=白日別=福岡新羅)

大長谷命(オオ=倭、ハセ=種子島の長谷)          [雄略天皇]

橘大郎女(タチバナ=タジマナ=種子島国)           倭

酒見郎女(サカミ=サカメ=坂の女王)サカイ=サカ王  坂井

計9名

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2010年12月26日日曜日

允恭(いんぎょう)天皇が倭の五王に入らない理由

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:16頁

このことは、

允恭天皇の名乗りが「男浅津間君子宿祢」という、

高族の伝統的な名乗りである武内宿祢に代表される

「宿祢(すくね)・足尼(スクネ)」号をもっていることで、

一目瞭然である。

しかし『記・紀』は

万世一系を内外に主張宣伝するのが最大の眼目だったから、

彼を倭王・興=安康天皇より前に置いて、

うやむやにしてしまっている。

その高族=高句麓系政権を、

次代の倭王・武が、

新羅の名医「金波鎮漢紀武」と名乗って、

船81艘を率いて乗り込むというトリックを使って奪回した。

この倭の五王たちの大和入り作戦の総計が、

「河内で敗北挫折して南の紀伊へ大迂回して、

ついに大和を奪取した」という

神武天皇記事の実像なのである。

これで倭の五王に允恭天皇が入らない理由も

明快に理解できたはずだ。

だからもう一人の五瀬の命は、

河内で敗れて命を落とした天皇、

すなわち倭王・興=安康天皇で、

『三国史記』の百済の蓋盧(コウロ)王である、

仁徳応神両天皇陵を始め巨大古墳の建造者だった彼が、

河内で高句麗に敗北したことは事実で、

彼以外に「河内」で重傷を負ったイザナギはいない。

彼が河内で敗れて和歌山で死んだとみるのが最も妥当だとすると、

窯山神社の祭神は珍ではなく興でなければならない。

では珍はどこに祭られているか。

それは彼のチヌの名を郡の名に色濃く止どめている淡路島、

津名郡津名町の「天神=チヌ神」以外にはない。

『参考』

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2010年12月25日土曜日

血沼の語源説話はコジつけでも、語源は倭王・珍

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:15頁

珍が占領して初めてチヌという地名や、

紀伊という国名が生まれたのであって、

それ以前には、そんな地名はなかった。

とすれば

「血を洗ったからチヌの海という名が生まれた」というのは、

地名の由来をムリに説明して見せようという、

見栄から生まれたコジつけだが、

その名が確かに付いているのは事実だから、

命名のきっかけを作った五瀬の命とは、

確かにイザナギの一人である倭王・珍、

すなわち、この木の国・紀伊に本当に攻めこんで、

それを所領に加えた、

固有名に「チヌ・キノ=珍」をもつ

倭の五王の2代目以外にはない。

彼は

仁徳皇弟・菟道稚郎子(ウチヌワカイラッコ)(紀)・

宇遅能若郎子(ウチノワカイラッコ)(記)で、

宇(ウ)=倭(オオ)。

チヌ=茅沼。

ワカ=和歌山。

郎子=皇子という名乗りが、

その地位の実態をよく表現している通りである。

父・応神天皇が彼を溺愛して、

彼に皇位を譲るために皇太子にしたと特記されているから、

名乗りの記録は失われていても、

彼が「御所の陛下=伊弉諾尊」だったことは間違いない。

だが沖縄発音のチヌは南九州発音の「ツナ」、

関西発音の「キノ」で紀伊(キ)の国まで取っているが、

その北の和泉は

「イズミ=倭済」すなわち

倭王・済になってからの領土。

その北の河内はまた、

倭王・興になってからの領土で、

ここでそれらの領土は、

高句麗長寿王=敏達天皇に奪われてしまい。

高句麗系の允恭天皇が君臨したこともわかっている。

『参考』

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2010年12月24日金曜日

5世紀のものと確認させた血沼の地名説話

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:14頁

しかし、念をいれて、

仮に西暦紀元ごろに、彼が死んだと仮定してみよう。

すると血沼の海という名は、

1世紀からあったことになる。

そこに面した土地もまたチヌと呼ばれていても不思議ではない。

そうすると5世紀になって、

占領地に自分の名乗りをっけた倭の五王の時代には、

チヌの名は消えて、

別の地名に変わっていなければならない。

しかし現実には、

倭の五王たちが四国から淡路島経由で渡海して、

『宋書』が記録した名乗り通りの順番に、

サヌキ=讃。

ツナ・チヌ=珍。

イヅミ=倭済。

河内・コオチ=興。

高市・タケシ=武と

進んだ名乗りと地名の、

動かせない一致が現存していることを、

誰でもはっきり確認できる。

だからツナ・チヌとキノは珍が占領して、

初めて付いた地名だとしなければ、

1世紀からチヌと呼ばれていた土地に、

また5世紀に同じ名をもった天皇がやってきて、

改めてチヌと命名したということになる。

これは奇跡としか言いようがない。

5人の天皇が様々な障害と戦いながら

少しずつ国土を広げて行ったのに、

その中の1人が、

きっかり自分の名乗り通りの地名の土地を、

不思議にも次々に占領したということは、

絶対にあり得ないことだ。

逆に5世紀に彼が占領したから

ツナ・チヌ・キノという地名が 

3か所につけられたというのなら、

これは何の不思義もない。

ごく自然な史実だと理解できる。

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2010年12月23日木曜日

五瀬の命は古墳時代人だという証拠

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:13頁

よく注意して読むと、

それらは古代の木簡に書かれていた短い記録の記事を、

寄せ集めて継ぎ合わしたものでできていることが読み取れる。

だから元になった記録は今みる

『古事記』の通りのものではなくて、

バラバラになっていたものを継ぎ合わせたものだったことがわかるので、

この五瀬の命の項は前の槁根津日子の項とも、

それ以前の項とも、

必ずしも一連のものではなかったのだということを、

よく認識しておかないと、

正しい史実は見出だせない。

では、

この五瀬の命の部分は、

どんな史実を記録したものだったのだろうか?。

彼はその傷が悪化して和歌山で死に、

いまも窯(かま)山神社に祭られているが、

『古事記』は彼が海で血を洗ったから

「血沼(チヌ)の海」という名が生まれた、

という地名説話をつけ加えている。

そして紀之国の男の水門(みなと)で死んだので

窯山の陵に葬ったとある。

窯山神社は「陵」なのである。

だからそれは古墳時代の事件であって

3世紀より前ではなく、

ましてや紀元前660年当時の人ではないことが、

明確に記録されていることを見落としてはいけない。

すでに本講でもお話しし、拙著でも各所に、

神武天皇記事は複数の天皇たちの記録が混じり合っていることを、

証拠を挙げて指摘してきたが、

この五瀬の命の項は、

その事実をさらに際立(きわだ)たせて教え、

立証している貴重な部分なのである。

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2010年12月22日水曜日

『記・紀』は立派な歴史書に生まれ変わった!!

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:12頁

だから五瀬の命も磐余彦も本来は同じイザナギだった。

だが、兄も弟も同じイザナギでは、

兄のことか、弟のことか混乱して

わからなくなってしまうから、

兄を五瀬命、弟を磐余彦と書き分けたのだが、

学者がそれを個人名と錯覚したため真相がわからなくなり、

伊弉諾尊というのも、

ただ一人の神の名だと誤解してしまい、

それが『記・紀』を

根底からわけのわからないものにしてしまったのである。

このことに全く無知な者が「現代訳」などと称して、

未だに名乗りを、

誤読のままのカナ書きにしているのは、

彼らの恥だけでは済まない。

だから伊弉諾尊という名詞の、

本当の姿を知ることができたこの発見は、

『記・紀』そのものを立派な歴史書として

復活させた決定的発見だといっていい。

日本の古代史は、

これで初めて完全な史実復元を迎える飛躍的新段階に入ったのである。

これがわかかると、

次は五瀬命とは、

代々の伊弉諾尊のだれに当たるか、

確定する必要がある。

『古事記』は、

天皇兄弟の日向から吉備までの行程と年数を書いたあと、

速吸の門でのエピソードとして

槁(さお)根津日子が東征に加わった状況を詳しく書く。

そして改めて「浪速の渡」を経て、

青雲之白肩(シラカタ)津で

登美能那賀須泥毘古(トミのナカヅネビコ)に迎え撃たれて、

五瀬の命が手に負傷したことから南に転進し、

命が死んだことまで書く別段になっている。

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2010年12月21日火曜日

神武天皇の名乗りの当て字が語る『記・紀』の暗闘

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:11頁

では『古事記』筆者は、

なぜそんな誤りを犯したのか?。

それは伊波札毘古という、

その当て字が説明してくれている。

それは

「伊=倭」

「波札=巴利=原=首都」

「毘古=王」で、

やはり天皇・大王を意味しているが、

『古事記』は『日本書紀』が

「日本」と書くところを、

全て「倭」と書く『反日本・文書』である。

だから磐・石の頭音・イを倭として活かして、

首都の意味で卑弥呼仏教の都・巴利をば、

わざわざ特記したのである。

「イ国の首都ハリ=イハリ」と

読むように伊波札と当て字したのだ。

これは佐賀県の伊万里も同じである。

この対抗意識は『古事記』筆者だけではない。

『日本書紀』筆者も「石余」だったものを、

わざわざ「磐余」と書いている。

「余」は「アマリ」の語尾使用で「リ」なのだが、

それを磐=ハンの頑音使用で「ハ」と読ませ、

「余」をヤユヨ行に読ませて

「ハヤ=隼人」の王にして、

磐の字で、

伊のもつ倭の存在を、

完全に消し去ることに成功しているのである。

だから、『記・紀』双方の筆者は、

どちらも真実をよく知っていたのである。

決して迂闊(うかつ)に誤りを犯したのではない。

大論争をする代わりに、

自分の主張を一字一字の文字使いにまで気を配って、

こちらが正当であり正統なのだと、

読者に訴えようとしたのだ。

このことがわからずに

『記・紀』を双方とも『正史』だとするのは、

余りにも無知丸出しなのである。

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2010年12月20日月曜日

イザナギの真意は「御所の陛下」

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:10頁

しかしまだある。

五瀬はゴセとも読める。

だからゴセと読む奈良県にある御所(ごせ)市も、

御所とは皇居を意味する通称なので、

やはり「イセ・イザ」と同じものだったことがわかるから、

なぜ皇居を御所と呼ぶのかという疑問が解け、

イザナギも伊勢も、

本来は「御所の陛下」を意味する専称であり敬語だったことがわかる。

「長上に対しては直接名を呼ばない」

という今に伝わる特殊な伝習が、

当時からあったこともわかる。

これらの点が揃っていることからみても、

それが国家の最高位を意味するのは当然だった。

だから五瀬の命が最高位で、

神武は皇弟に過ぎなかったが、

兄に代って皇位についたのが史実である。

五瀬の命の死で、

神武が次の御所の陛下になってイザナギと呼ばれたことは、

『記・紀』が

神武を伊波礼毘古・磐余彦と書いていることでもわかる。

磐は石で「イザ」、礼はラ行だが、

半島系の『古事記』筆者・太の安万呂たちは、

現在の盧(ノ)韓国大統領の姓と同じように、

半島発音で「ナ」行に当てている。

彦は王で「ギ」。

だからやはりイザナギヘの当て字なのに、

それを「伊波札」と当て字し、

それをまた「イハレ」と誤読したほうを正しいと教え、

守られてきた過去の国史教育の間違いが確認できる。

このこと1つだけでも

『古事記』が『日本書紀』より後で

書かれたものだったことは明らかで、

それを疑う余地はない。

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2010年12月19日日曜日

天皇を超える最高位名だったイザナギの総括

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:9頁

こうして伊弉諾尊・伊弉冉尊の実態がわかると、

史実が見えてくるだけではない。

それが過去の名詞の読み誤りを、

はっきり指摘し、正しく真実のものに訂正させる。

例えば戦前、

日本史で一番重視されていた

「神武東征」の冒頭に出てきて、

しかも天皇が東へ向かって攻めるのを諦めて、

南へ大迂回することになった、

兄・五瀬の命の名も、

過去は「イツセ」と発音するのが定説とされてきたが、

それが間違いで、

五瀬ノ王は「イセナギ」が正しかったと、

次のような多くの発見の累積で明確にわかっているのである。

それは彼の個人名とされてきたものが、

① 石から伊勢に至る一連の発音と、当て字変化の中の名乗りだったこと。

② それは伊弊諾尊・伊邪那岐命という当て字でよく知られた名乗りであること。

③ それは世襲の名乗りであること。

④ それは本来はイスケンダルや伊勢の王、

すなわち伊勢の大神に当たる最高位の称号であったこと。

⑤ それはまた後世に、順位が入れ換わって

「天皇」と書かれるようになった政権トップの称号だったこと。

⑥ その入れ換わりが仁徳天皇のときに見られること。

⑦ だから最も有名な岐・美2神の、

「天の御柱巡り」の、

どちらが先に声をかけるかという

男女の尊卑入れ換わりの説話は、

仁徳夫妻の話であって、

⑧ 語源はバーリ語の

「リシ=神仙・最長老」の大隅訛り

「イシ」であることなどなど。

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2010年12月18日土曜日

陰帝国から陽の式場を拝む

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:8頁

殷墟が左端に稲敷が

右端に2200km天測以外測定できない。

イン帝国の王宮から太陽の昇る

故郷・稲敷を毎日礼拝した皇帝と国民たち。

そこが古代の

「日発(ヒた)ちの国」、

殷人たちが出発したところ。

「図」陰帝国から陽の式場を拝む

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2010年12月17日金曜日

岩屋から伊勢の皇大神宮まで165kmの霊ライン

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:7頁

文字だけでは印象がうすい、地図でご覧いただこう。

淡路島北端の岩屋から

44kmのところに仁徳陵。

次11kmに応神陵。

次22kmに崇神陵。


次88kmに元伊勢(最初の皇大神宮の鎮座地)。

この地図はその11kmを1cmに描いてあるから、

ご自分で試してみていただきたい。

それにしても伊勢神宮への出発点が「岩屋」とは、

天の岩屋まで完備していて、

古代人の深遠さには頭がさがる。

淡路島の地名は、

国宝的文化財だという証拠である。

「図」岩屋から伊勢の皇大神宮まで165kmの霊ライン

『参考』

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2010年12月16日木曜日

研究すれば細部まで続み解ける『魏書倭人章』

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:6頁

古墳時代にメートル法と同じ尺度で、

世界最大の古墳をつくり、

それを110kmもの距離に、

直線上に配置することができたのが私たちの先祖なのである。

しかもその測量は

3000年前の中国・殷(イン)の開国時に

すでに正確に北緯36度線を測定して、

その線上に出発点の茨城県稲敷(イナシキ)郡を置き、

そこから真西に2200kmきっかりの

地点=中国華北平原の中央・安陽(アンヤン)(殷墟)に

都を築いている。

『日本神話』が幼稚だと笑う欧米の人たちに、

私たちの先祖がもっていた文明がどんなに高いものだったか、

真実の歴史を教えたいと思うのは間違いだろうか?。

本題にもどって、

仁徳天皇の皇后・磐之日売は石之女=イサナミ。

だから

仁徳はオー=倭、サザ=石、キ=王が本名。

やはり「壹與と伊声耆」同様。

女王と天皇。

女王=梵天(プラフマ)、天皇=クシャトリアで、

これは

卑弥呼と男弟の彦五十狭芹(イッサのキン)彦=戦さの君(いっさんきん)とも

完全に同じだ。

こうみると壹與の発音イェッジョーは、

伊勢津女王でもあったこともわかる。

伊勢=石、津=ナ、女=ミだから、

伊声耆はイザナギで夫だということになる。

邪馬壹国の最高首脳が、

やはり代々、

伊弉諾・伊弉冉という「名乗り」をもっていたことは、

これで疑いなくなる。

すると最高官の伊支馬も個人名でなく、

沖縄発音の「石」に国称の「マ=国」=石国(イナマ)王で、

肩書きだけを、

地位職務を意味する官名として、

区別して報告したものだったこともわかる。

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2010年12月15日水曜日

仁徳天皇の偉大さを記録した霊ラインの実在

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:5頁

これは仁徳天皇と宇遅能和気郎子(ウチヌワキイラッコ)など、

他の天皇にも見られ、

長子は祭祀王になり、

次子が天皇になる原則があったことが見えてくる。

これはインドのバラモン教徒が最高位を祭祀王・梵天とし、

次位をクシャトリヤ=軍事王=皇帝とするカーストと同じだった。

これがわかると、

仁徳と宇遅能和気の皇位継承騒動の真相が、

正しく読めるようになる。

するとさらに、

大雀という当て字によって仁徳天皇の本来の地位がわかる。

雀はジャク、石もジャク、

オオは倭であり阿波であり淡だから、

そこの「石の王(イサナキ)」であり、

彼の皇后は「磐之姫=石津姫=イシズ女=イザナミ」なのだ。

堺には石津川がある。

これがわかると淡路島の伊弉諾神宮の祭神は、

世界最大の墓の持ち主=仁徳天皇の神社でなければならなくなる。

彼は一代で四国を平定して、

息子たちを淡路島へ送りこんだ英雄であり、

対岸の堺に巨大な陵をもつ偉大な存在だからである。

しかもその仁徳陵からはさらに

私の発見した霊ライン上に、

父の応神陵を経て、

大和を最初に占領した

倭王・武=雄略天皇陵(武烈陵とするのは誤り)、

御肇国=初国知らしし崇神天皇陵から、

はるか伊勢の皇大神宮まで

一度に拝める設計になっていて、

その霊域の間隔が

仁徳…11km…応神…22km…崇神…77km…元伊勢。

計110kmきっかりに築造してあり、

その起点は淡路島北端の岩鼻にある。

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2010年12月14日火曜日

『記・紀』の実体は史実、政治用作文ではない

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:4頁

伊弉諾尊(イザナギノミコト)といった

『記・紀』の当て字に、

埋没してしまっていた真実の歴史が、

こうして方法さえ正しければ、

次々に発掘されて古代の真相が姿を現わし、

真の史実が復元できるということが、

これだけでも、よくご確認いただけたはずである。

そして『記・紀』の実体は、

従来、唯物史観学者が唱えて来たような、

単なる政治的作文ではなく、

真実の歴史そのものだったことを、

『記・紀』以外の文献、

ことに『記・紀』を作ったとされる天智天皇や天武天皇とは

何の利害関係もない、

3世紀中国の晋(シン)で編集された

『魏書倭人章』が、

非常に明瞭、

かつ正確に記録していた事実も改めてわかる。

そこに書かれた「伊声耆(イサンギ)」はまぎれもなく

イザナギの名乗りの証明で、

『古事記』の印色(イシキ)入日子。

『日本書紀』の五十瓊敷(イニシキ)入彦の命だとわかり、

載斯烏越(たいしオジウォ)は太子忍代で、

景行天皇の太子時代の呼び名であり、

掖邪狗(ヤジャカウ)は八坂入彦=ヤザカオウへの当て字だと、

完全に立証された。

『記・紀』は

この兄弟を氷羽洲(ヒハス)比売=日葉酢媛が、

印色入日子=五十瓊敷入彦。

大帯日子麻斯呂(オシロ)和気=大足彦天皇、

大中津日子=大中姫の順に生んだと書いているが、

3番目は性語尾が

「日子と姫」と、

『記』と『紀』で違っていて、

男か女かわからない。

だが明瞭にわかるのは、

長男のイザナギは天皇でなく、

次男が天皇だということである。

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2010年12月13日月曜日

生き返った『記・紀』と『魏書倭人章』

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:3頁

これで本来の「伊勢の大神」とは、

アレクサンドロスを指していたことが、

はっきりおわかりになったと思う。

彼もまた武神として、

ギリシャ系の天皇家に世襲名を残していたのだ。

天皇家が台湾・与那国を起点にした

ギリシャ文明の運び手だったことが、

これでさらに確実になった。

しかし実は、

そのイスケンダルの称号の前に、もう一つの神名がある。

それが前にもお話しした

古代エジプトの女神・イシスである。

彼女がエジプトのギリシャ人王朝で主神の位置にあり、

その最高祭祀者が

あのクレオバトラだったことはよく知られた史実だが、

『古事記』は「国生み」の後、

3番目に生まれた神として石巣(イシス)比売神を挙げている。

いま京都の松尾大社や東寺、奈良の薬師寺などに残る

女神(めがみ)像は私の研究で

卑弥呼像であることが明らかになったが、

それは現存するイシス像と全く同じ多くの様式を完備している。

(拙著『黄金の女王卑弥呼』p253の写真参照)。

外観はモデルが欧米人と日本人という差があるが、

偶然の相似ではないことは、

その各部分の様式がもつ、一致点の多さで明らかで、

古代日本に

ギリシャ彫刻のイシス像が来ていたことは確かだ。

このイシスとイスケンダルの関係は

インドの梵天とクシャトリア、

日本の卑弥呼女王と男弟、

推古天皇と聖徳太子、

斉明天皇と中大兄皇子=天智天皇の関係とも、

また多くの見事な一致点をもっているのである。

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2010年12月12日日曜日

伊弉諾尊の語源は、なんと[歴山大王(イスケンダル)]

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録13:32頁

「国生み」の伊弉諾尊からは想像もつかないこの石動イザナギは、

どういう史実をもっているのだろうか?。

能登は輪島という代表的地名をもっている。

ワジマは7世紀以後なら、

唐音で「倭之国=ワジマ」。

その地域は大化大戦で東遷した倭国人の亡命先にふさわしい。

石動イザナギは、

伊弉諾の世襲が末期に迎えた歴史の産物だということになる。

だとすればイシナギは、

こうした小型化した伊弉諾につけられた皮肉を込めた魚名だったのである。

視点を石の発音変化に置いてみると、

イシナギやイスルギが見つかった。

しかし「石」は当て字にすぎない。

動字石が語源というのはコジっけである。

本当の語源を探してみよう。

サ行変化を考えるとイスだけがまだない。

沖縄語ならイソやイセが無くてイスになるから、

これらの発音変化は沖縄語のイスを、

それぞれの地域語に換えたものとみると納得がいく。

沖縄の「伊勢神=イスカン」は大隅では「イスケン」、

これは何なのか?。

前にお話した欠史天皇の、孝霊、孝元、開化の3帝は

「根子」の名乗りをもっている。

これは「タラシ」への当て字だとご説明した。

また阿爾鉏高日子根は、

「アレクサンダル」への当て字だともご説明した。

根は足とともに「タル、ダル」と

読めば意味が通じる。

これをイスケンに加えると「イスケンダル」。

アレクサンダー大王の有名な称号になる。

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2010年12月11日土曜日

サ行変化の視点からみた伊弉諾のいろいろ

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録13:31頁

この魚名には、もう一つ「イシナギ」というのもある。

「石ナ王」だからイザナギだとすぐわかる。

この魚はハタ科の深海魚で同じ科のスズキに似て口が大きく燐が細かい。

一般には余り見かけない魚だから、

珍しい高級魚という意味で、

貴族の名がつけられたのである。

体長約1mになるから大きい方だが、

鯨に比べるとはるかに小さい。

その色が黒いので、鯨の子供、

または没落後の王といった意味で、

つけられた名前だったとわかる。

これでイサナギ、イシナギ、イゼナ、イソノカミと、

サ行変化の跡がわかった。

イソナギはないが伊勢神宮の内宮を「イソのミヤ=磯の宮」という。

「磯邊さん」は単に海岸に住む人というだけの姓ではなかったのである。

しかし「イス」はないのだろうか?。

「石動」と書いてイスルギと読む神名と姓と地名が能登にある。

平群はへグニをへグリと発音し、

鹿児島には新納と書いてニイロと発音する姓がある。

ナ行のニ・ノがラ行のり・ロになる。

これだとイスルギは「イスヌギ」。

石ヌ王は、やはり伊弉諾だったとわかる。

これは石川県確登半島の七尾と羽咋(はくい)の中間にある

石動山頂にある式内杜・伊頚流伎比古神社の祭神・イスルギヒコの命で、

能登一の宮の気多大社の縁起には、

この命は天から降った動字石から生まれたが

大己貴命に政権を譲った。

それが気多大社の起こりだとある。

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2010年12月10日金曜日

古代の多国籍信仰が凝縮した証拠群

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録13:30頁

これが説話化したものが、

天照大神とスサノオの『誓約=うけい』であり、

八俣大蛇退治なのである。

それらは古来の竜退治神話と混じり合って、お伽話化しているが、

史実は現代とも共通する生々しい宗教政治の悲劇だったのである。

それはまた、

彼らがバビロンのギルガメシュや、インドのクリシュナや、

ギリシャのアポロンやペルセウスの竜や蛇や怪物退治の伝説を

知っていた人々だったことも、

併せて私たちに教えてくれる。

だから神道は世界の

「八百(やほ)・萬(よろず)の神々=多種類の宗教」を含んでいる。

決して絶海の孤島に孤立していた蛮人が、

幼稚な空想を逞しくして、

でっち上げた宗教なんかではなかったのである。

魚の名といえば、伊弉諾にあたるイサナがある。

これは「勇魚」と当て字するが鯨のことである。

古代人はそれが哺乳類であることを知らなかったから、

最大の魚類、魚の帝王だと思っていた。

インドではそれをマカーラと呼ぶ。

馬韓という国名はマカラと読める当て字だ。

鯨はまたインド語でガジャミナという。

ガジャは象、ミナは水・海で、

「海の象」という意味だ。

薩南のトカラ列島にある

「臥蛇(ガジャ)島」は

象の頭そっくりの岸頭をもち、

鯨を思わせる姿をしていて、

そこの住民がインド系だったことを今もなお証言し続けている。

それはさらにシバ神の別名が、

イス、イサ、イサナだということにも固く、結びついている。

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2010年12月9日木曜日

神道の実態と卑弥呼政権崩壊

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録13:29頁


神道は守護神崇拝で、

祭神は功績のあった故人、

原則として神像を作らない。

これは繹迦本来の仏教の教えが強く加味されている証拠。

古墳は神社と同じ。

当人を葬った墓もあれば、

神社として崇拝するために建設したものもある。

だから全国の八幡社などは古墳に代わるもの。

私たちは今もなお古墳時代の延長線上にあるのである。

仏教は殺生を嫌う。

だから漁業に従事する海人たちは仏教徒にはなれなかった。

ところが魚の名に自分たちの名をつけるイオ(魚)ニヤ人で、

ゼウスの巫女だった海人族の卑弥呼は、

ソナカ=蘇那曷叱智=仲哀天皇に迫られて、

その仏教の尼寺主(アマテラス)女王になった。

しかし漁業はともかく戦争は、国を守る基本である。

魏の侵略に敗れた位宮は、

倭国外の拘奴国王として立ちながら、

それでも同族として倭国連邦に武装を勧めた。

卑弥呼は仏教に忠実であろうとして、

魏との親善で侵略を防ごうとして親魏倭王の地位を得たから、

老いの一徹で位宮案をはねつけた。

だが高句麗滅亡と三国争覇の現実を見てきた武将・位宮は同志を募って

卑弥呼政権打倒の狼火(のろし)を挙げた。

これが卑弥呼が死ぬ直前の大乱だったのである。

鬼道=仏教の尼女王・卑弥呼の、

こうした立場がわからなければ、

卑弥呼政権がなぜ崩壊したのか、

史実『魏書倭人章』記録の、

最大の核心さえ理解することはできない。

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2010年12月8日水曜日

八幡徒=ヤマトの分布が教える邪馬台説の惨敗

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録13:28頁

八幡は応神天皇の別名だから、

我が国で八幡信仰が盛んになって、

八幡徒=ヤマトと呼ばれる人々が現われたのは、

4世紀以後のことである。

さらにそれが大隅、宇佐と移動して、

奈良にまで広がったのは、

奈良朝が成立した後のことである。

それでも聖武天皇の大仏造営時には、

宇佐八幡からやってきて手伝っている。

奈良はもちろん畿内には、

それ以後も八幡の大社はなく、

隣接した京都府綴喜郡の八幡(ヤワタ)町に

石清水八幡宮(いわしみず)が建立されたのは、

清和天皇の貞観元年(859年)である。

応神天皇出現以前の卑弥呼時代に、

我が国に八幡徒=ヤマトが居たり、

ヤマトという国があったりするはずがないのである。

それを無理にあったとしても、

応神の都、「軽=鹿児」の「明=阿鹿児」の宮、

すなわち鹿児島神宮から、

余りにも遠隔の奈良にまで、

その信徒が分布して、

それを国号にしていたはずがない。

それなのに「邪馬壹」を無理やり「邪馬臺」に変え、

それを3世紀にはなかった7~8世紀の唐代発音でヤマトと読んで、

6世紀以後やっとヤマトと呼ばれた奈良に、

ヤマト国の女王・卑弥呼がいたと主張する連中がいた。

ところが邪馬壹国の主は壹與であって、卑弥呼ではない。

どこからどこまで出鱈目な説だったか、呆れるほかない。

過去に見られた邪馬台国論争は、

とても学問の分野には入らないお粗末きわまる

水掛け論争だったのである。


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2010年12月7日火曜日

会津にまでイザナミの命は遠征したか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録13:27頁

これにまだ疑問のある方のため、もう一例あげておこう。

それは福島県大沼郡会津高田町にある伊佐須美神社で旧国幣中社である。

祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊とあるが。

その神社名がイサズミだから、

「石津女」でイザナミの尊の社である。

だがこんなところまで何代目かのイザナミの尊が

移動して来たのであろうか?。

社記によると崇神天皇のとき、

四道将軍に選ばれた大毘古の命が遠征して来て、

もう一人の四道将軍。

彼の王子の建沼河別の命とここで出会った。

だから地名を「相津」というのだという

『古事記』だけにある記事をひいて、

相津=会津で、ここがその地であり。

二人の命はその時、

伊弉諾・伊弉冉2尊を周囲の山々に祭ったが、

欽明天皇のとき現在地に移したのだという。

だから伊弉諾・伊弉冉尊がやって来たわけではない。

石の上神宮もイザナギなのだからといっても、

だから必ず伊弉諾の尊がやってきたとは限らない。

むしろ神霊を迎えて祭るのが、

全国の多数の八幡社で現実に実行されてきている。

だれが考えても3万も4万もの応神天皇が、

世襲して実在していたとは考えられない。

それらの八幡社は応神系の支配が次第に及んだ土地に、

鎮守として増築されてきたもので、

それと比例して八幡徒=ヤマトと呼ばれ自称する人々が殖えて、

拡散してきたのである。

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2010年12月6日月曜日

ギリシャ系まで立証する石の上神官

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録13:24頁

次は視点を「石の王」のバリエーションに移そう。

王は「カミ」とも読まれてきた文字である。

だから石の王は「イシのカミ」でもある。

これに当て字すると「石の上」。

奈良県の天理市にある有名な神宮名と同じになる。

ここではさらに発音が変ってイソのカミになっているので、

イザナギと同じだとは気付きにくいが、

その祭神は布都御魂(フツノミタマ)大神、

神武天皇東征にまっわる神剣だとされている。

しかし実在の確かな配祠者は、

さきの印色入日子・五十瓊敷入彦の命だから、

こうして順序を追って検討していくと疑問の余地はない。

では、この神宮はどのイザナギを祭っているのであろう?。

ヒントは丹波市(いち)というそこの旧地名にある。

兵庫県北部から来たという地名になっている。

でも、

地名は祭神たちと何の関係もない先住民以来のものか知れない。

しかしこの旧官幣大社には神宝がある。

「出石(イズシ)の神宝」など

『記・紀』の天の日矛の記録にあるものが、

今も保存されている。

天の日矛が卑弥呼の夫・ソナカであることは、

すでによくご存じである。

彼は多遅摩=但馬にその神宝と子孫を残した。

それがあるのだから兵庫県北部から釆たことは、

2重の証明をもっている。

すると神剣・布都御魂(フツノミタマ)を

神武天皇に献上した高倉下(タカクラジ)とは

コウクリ家への当て字で、

その真南に明石があって、

北の黒と南の赤が、

彼らがギリシャ系だということまで立証している。

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2010年12月5日日曜日

動かない事実、卑弥呼系政権の大移動とその遺跡群

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録13:23頁

これで明石とは「赤の石」だと明瞭にわかる。

赤は南のこと、石は伊勢だから、

明石とは「南の伊勢」という名なのである。

石にはまた磁石・磐石などの「シャク、ジャク」という発音がある。

だから赤を「朱」と書き、

ジャクを「雀」と書いて「南」を現わしたものが、

我が国で「四神」と呼ばれてきた中にある。

それもこのように明石・赤石と、全く同じ意味なのである。

それは「南の伊勢」を意味しているのだ。

さらについでにお話しすると、

明石の西にある義士で有名な赤穂も、穂は「スイ」だから、

「アカスイ=アカシ」で、もとは同じ地名。

それが移動して別の2つの地名になったもの。

伊勢の大神は天照大御神。

卑弥呼である。

すると播磨の首都・姫路の名も、

卑弥呼と無関係ではないことが読み取れる。

卑弥呼はその鬼道=観世音信仰で

「姫溝様(ヒメコサア)」の名を、

現在まで大隅に残し、

「姫木」の地名と山名を残したが、

これも「ヒメコ」と発音するのが正しい。

だから巴利国(ハリマ)の名をそのまま残す

播磨の首都・姫路は、本来は「姫児」で、

ヒメコだったものが、

いっかヒメジと読み替えられてしまったとわかる。

姫路は大隅の姫木から移動してきた人々が、

新天地に名付けた卑弥呼の名を、

今に伝えている遺跡なのである。

同市の小川亮一正会員のご研究によれば、

同市周辺には神功皇后関連の伝承と遺跡が充満している。

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2010年12月4日土曜日

ギリシャと日本の五彩圏比較

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録13:22頁


ここで、も少し細部まで考えてみよう。

それはこの移動勢力が、

卑弥呼の後裔かどうかという疑問点である。

五色塚古墳は播磨の最南端にあり、

淡路島と最短距離にある。

その少し西は明石である。

これは何を物語っているのだろうか?。

明石は赤石と書かれたこともある。

赤を南とするのは、

もうよくご存じのギリシャ文化であった。

それとの比較をご覧いただこう。


ギリシャの五彩圏            倭国の五彩圏
高麗(高句麗)
クロアチア             クレ
黒                  黒
シラキウス ギリシャ アイオリヤ   
白     黄    藍        白日別       畿     倭
                     オーマーン     (福岡)     (大阪)(飛鳥)
                     青             シラジッ      キ    オー
白      黄   青
アカイヤ              明石
赤                 赤


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2010年12月3日金曜日

島根県の石見(いわみ)にあった冥界「根の国」

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録13:21頁

では、彼が訪れたという愛妻・イザナミの命の墓はどこにあるのか?。

それもこれで完全にわかる。

五色は「イシキ=石王」で男王。

女王なら「石女=イシメ・イシミ」である。

これはわかり易い。

イシミ=石見だから島根県の石見(イワミ)。

するとその県名に冥界を意味する

「根」の字がついている理由までわかる。

スサノオの命は死んだ母の居る冥界

「根の国」へ行きたいと泣きわめいたと

『記・紀』に書いてある。

そして命は同じ県の出雲神話の主人公である。

それが荒唐無稽な神話ではなく現実の歴史だったことが、

これで見事に立証できた。

そればかりか、

これまで四国経由だけしかわからなかった、

倭の五王の移動コースには、

山陰経由コースもあったことが新たに見えてきた。

すると履中天皇が、讃・珍・済・興・武に合わず、

はみ出している理由もわかった。

また珍も、

皇位につかなかったと書かれている

宇遅能和紀郎子(ウチヌワキイラッコ)にしか合わないのに、

『記・紀』の記述とは食い違って、

珍の獲得した領土の大きさは、

淡路島の津名から血沼の海をこえて紀伊に及び、

以後の天皇政権の、

奈良への北上を可能にした。

だから倭の五王の記事と、

『記・紀』の天皇系譜とに大きな不一致点を残していた

この宇遅能和紀郎子と履中天皇の問題は、

今、こうして山陰コースが実在したという動かぬ証拠が揃ったことで、

一挙に疑問が吹き飛んで、大きく前進したのである。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト

2010年12月2日木曜日

伊弉諾(イザナギ)「石の王」、履中天皇の都と墓みつかる

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録13:20頁

これを見ると、

語根はイシだったことがわかる。

このイシは石の字を当てはめてみると、

石の小さいのを古語で「イサゴ」という。

これは漢字で書くと石子だから、石はイサである。

また南九州方言は母音のア=aをエ=eと訛るから、

イサはイセになる。

伊勢という名詞は南九州で生まれたことがわかる。

南九州では海岸の断崖を、

その方向によって異なった名でよぶが、

その中に「イセ」がある。

これも石壁という意味を根底にもった名詞である。

また沖縄にはシをチと発音する地域がある。

その人たちはイシキをイチキと発音するし、

南九州人はイチキをイチッと発音するから、

これらもイザナギと同じ地名である。

これまで無関係だと考えられていた市木島比売や、

その訛りである厳島の名もまた、

やはりイザナキと同じ語源から出ているから、

イザナミの命に当ることがわかったのである。

また、もっと具体的にわかるものがある。

このリストをみると淡路島に五色町があり、

他にイザナギに該当する地名が見当たらないから、

これはもとイシキへの当て字だったものが、

ゴシキと発音を変えたものだとわかる。

すると淡路島北端のすぐ対岸に、

同じ文字の五色塚古墳があり、

そのすぐ近くに一の谷という有名な地名があることも、

淡路島を拠点にしていた履中天皇の、

本領と墳墓とすれば、

イザナギ天皇の実在は、

さらに確実になる。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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ウワイト

2010年12月1日水曜日

イザナギの名乗りを生んだ地名の分布

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録13:19頁

国名  分布地名 発音    語根変化 助詞のノ 王称 文献文字

琉球  石垣島  イシガキ  イシ   ガ    チ  信覚島

琉球  伊是名島 イジナ   イジ   ナ    チ

薩摩  伊佐   イサンギ  イサ   ン    ギ  伊声耆

薩摩  伊敷   イシ キ  イシ        キ  印色入日子

薩摩  市来   イチ キ  イチ   ッ       市来島比売

伊予  石槌山  イシヅチ  イシ   ヅ    チ

播磨  一の谷  イチノ   イチ   ノ       一之谷

播磨  五色塚  ゴシキ   イシ        キ  五色塚古墳

淡路島 五色町  ゴシキ   イシ        キ

伊勢  伊勢   イセ    イセ           伊勢。五瀬

伊勢  一志郡  イッシ   イシ

三河  一色   イッシキ  イシ        キ

上野  伊勢崎  イセ    イセ   ザ    キ  伊勢佐木

『参考』

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