『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:11頁
では『古事記』筆者は、
なぜそんな誤りを犯したのか?。
それは伊波札毘古という、
その当て字が説明してくれている。
それは
「伊=倭」
「波札=巴利=原=首都」
「毘古=王」で、
やはり天皇・大王を意味しているが、
『古事記』は『日本書紀』が
「日本」と書くところを、
全て「倭」と書く『反日本・文書』である。
だから磐・石の頭音・イを倭として活かして、
首都の意味で卑弥呼仏教の都・巴利をば、
わざわざ特記したのである。
「イ国の首都ハリ=イハリ」と
読むように伊波札と当て字したのだ。
これは佐賀県の伊万里も同じである。
この対抗意識は『古事記』筆者だけではない。
『日本書紀』筆者も「石余」だったものを、
わざわざ「磐余」と書いている。
「余」は「アマリ」の語尾使用で「リ」なのだが、
それを磐=ハンの頑音使用で「ハ」と読ませ、
「余」をヤユヨ行に読ませて
「ハヤ=隼人」の王にして、
磐の字で、
伊のもつ倭の存在を、
完全に消し去ることに成功しているのである。
だから、『記・紀』双方の筆者は、
どちらも真実をよく知っていたのである。
決して迂闊(うかつ)に誤りを犯したのではない。
大論争をする代わりに、
自分の主張を一字一字の文字使いにまで気を配って、
こちらが正当であり正統なのだと、
読者に訴えようとしたのだ。
このことがわからずに
『記・紀』を双方とも『正史』だとするのは、
余りにも無知丸出しなのである。
『参考』
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