2011年2月28日月曜日

7世紀に活躍した大船団の記録

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:18頁

しかし、

この絵は沖縄に土着した人々の、

ささやかな漁猟生活を写したもので、

列島本土に移住した人々の子孫には、

奇異に映った風俗だったのである。

千年の年月は、それだけの風俗差を作りだしていた。

では本土に移住したギリシャ系海人族ははどうなったか?。

雄略天皇が金波鎮漢紀武と名乗って、

81艘の海軍を率いて允恭天皇を倒したことは先にお話しした。

それ以後に確実な記事があるのは大化改新前後である。

『日本書紀』をみると、

天智天皇元年5月、

大将軍・大錦中の阿曇の比羅夫が、

船師170艘を率いて、

百済の豊璋を百済国まで護送したという記事がある。

この阿曇は従来、

アズミと読んで来たが、

阿はオ、オーでもあるから、

「オーズミ=大隅」であり、

百済をホズミと読んだものの大隅発音でも、

やはりオースミになる。

結局彼は百済人そのものだから、

ポセイドン人=海軍の総指揮官だったのである。

この海軍の総指揮官がもう一人いる。

阿部の比羅夫である。

同じ名乗りをもったこの人物は

斉明天皇4年4月に、船師170艘を率いて蝦夷を討ち、

続いて粛慎(シン)を討つ。

同6年3月には船師200艘を率いて、また粛慎を討つ。

その船がどれ位の大きさだったかは別として、

渡海して兵員を運んで戦えるだけの海軍が、

7世紀まで実在したことは確かだ。

『参考』

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2011年2月27日日曜日

スケッチされていたその風俗

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:17頁

その風俗は沖縄では13世紀まで確実に続き、

その証拠の絵が今も残っている。

その中央にはギリシャ型の冠を被(かぶ)って、

ポセイドンの武器・三叉鉾をもった、

女性の指揮者が描かれている。

沖縄のアテナだ。

男性は「招頭=鉢巻き」して

「上長下短の弓」をもつ

『魏書倭人章』記事そのままのスケッチを、

今でもこの眼で確認できるのである。

「寛元元年(1243)に漂着した商人が描いた

『漂到流球国記』巻末の、著者手書きの写生図」

『図』漂到流球国記巻末絵図の一部 13世紀

『参考』

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2011年2月26日土曜日

ギリシャ風俗そのまま『魏書倭人章』の記事

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:16頁

古代ギリシャ人は船旅に出る前には必ずポセイドンに生贅(いけにえ)を捧げて、

航海の安全を祈ったことが、神話にも、歴史記録にもたくさん出てくる。

それと同じことが『魏書倭人章』にも

「その旅行や渡海の前には、つねに一人の男を生賛にする」と、

「自衰」と呼ぶ苦行者を神に持げて、

事故が起これば殺したことが記録されている。

私たちにはその自衰が捧げられた相手がポセイドンだったことを、

はっきり知り尽くした。

だからそこに書かれた倭人とは、

百済人=ボセイドン人=フェニキヤ人=ギリシャ人だったと

更に再確認できたのである。

すると倭人の男子が結束して着ている

「横幅(おうふく)衣」が、

古代ギリシャから現代インドにまで着られている

トーガだったことも明瞭にわかる。

横幅とは横幅(よこはば)の方が広い布で、

縫ってない布ということだから、

そんなものを衣服として看るのは、全世界でもトーガ以外にない。

それをギリシャ人やインド人は肩から掛け、

身体に巻いて最後を結ぶだけでうまく着る。

『魏書倭人章』もそれを

「縫わないで結束して着る」と細かく明瞭に描写している。

また「婦人は、その中央を切って頭だけ通す

単被(ぴ)(単衣(ひとえ)もの)を着ている」と書いてある。

これも古代ギリシャの壷絵に見る婦人服そのもので、

それを日本列島で引き継いだカリエンの人々が、

古代のまま着続けているのを、

今でもタイやミャンマーで見ることができる。

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2011年2月25日金曜日

イノ国は1世紀に福岡に実在していた

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:16頁

沖縄がギリシャ人の基地だったことは

今さら説明する必要もないから、

春日市を検討してみよう。

春日大社は藤原氏の氏神である。

フジは百済でポセイドンなのだから、

ハルモニアの本家である。

これはカスガと発音する方が後世のもので、

もともとはハルモニアをまつる神社だった可能性さえある。

福岡・春日両市のあたりが、春に当たることは間違いない。

では時代はいっか?。

福岡で最も有名な出土品は志賀(しか)の島の金印である。

そこに彫られた漢・委奴国の委はイ、奴はノだからイノ。

『後漢書』は後漢の光武帝(25年~57年)が授けたと記録しているから、

少なくとも1世紀には、

すでにイノ国が実在していたのである。

夫余は『魏書倭人章』と同じ『東夷』の条にでてくるから3世紀に実在している。

百済王は自ら扶余(フユ)を名乗り、

百済と高句麗は扶余一族だと語るから、

ポセイドン一族であり、

その支配者がギリシャ人の中のフェニキヤ系の人々だったことは疑う余地がない。

そして安芸も先程お話しした通りアゲーノルが語源だから、

この春夏秋冬の名は全て、

ギリシャ人がつけた統一名詞だったとわかる。

決して縄文人が使っていた日本語?なんかではない。

これでハルモニアが当時の我が国でよく知られていただけでなく、

春の語源にまでなった重要人物だった事実が、

充分ご納得いただけたと思う。

『参考』

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2011年2月24日木曜日

ギリシャ語の発音が生んだ新しい日本語

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:15頁

誤解はないと思うが、念の為に申し上げておくと、

以上の一致点はその名詞のギリシャ語の「意味の部分」ではない。

ギリシャ語の名前の「発音の部分」が、

日本では日本語として別の意味をもったのである。

これはその名詞が我が国に入ってくる前には無かった言葉が、

その名詞が移住してきて、

別の意味をもつ新らしい名詞にに生まれかわったのである。

この考え方が正しいかどうか検討するには、どうすればいいか?、

それもお話ししてみよう。

ハルとセットになる日本語は夏、秋、冬である。

春がハルモニアが語源だとすると、

他の3つはいつ生まれたのか?。

それは古来、日本列島に土着していた先住民の縄文人が、

すでにもっていた言葉=原日本語だったのであろうか?。

ナツは娜津(なつ)と、

アキは安芸(あき)と、

フユは夫余(フユ)と同じ発音をもっている。

暑い季節は南、

寒いところは北だから、

春秋はその中間になければならない。

  春に当たるのはどこだろう?。

安芸を広島とすると、

娜津は福岡だから同じ緯度にあって夏には合わなくなる。

その辺りには春がなければならないが、

福岡市中央区と北九州市に春吉があり、

福岡市博多区に春町がある。

また読み方はカスガだが文字はハルの春日市は、

福岡の南に隣接する市だ。

すると沖縄の那覇も海に面した都市だから古代には那津(ナツ)で、

朝鮮半島の夫余(フユ)といい対象になる。

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2011年2月23日水曜日

日本語でも意味の通じるカドモスの妻子の名

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:13~14頁

その後、カドモスはテバイを捨ててイリリアの王になり、

死後は夫婦とも大蛇になって、

ゼウスに常春のユリュシオンの野に送られた。

胴から下が蛇の男女が絡みあっている

中国の伏義女堝(フクギジョカ)によく似ている。

だからカドモス自身は我が国までは来ていない。

しかし淡路島の語源であるアプロディテの娘と結婚している。

神話とはいえ、

彼の一族と我が国との関係が非常に濃厚であることは変わらない。

それはその 妻子たちの名にも現われているのである。

「ハルモニア(Harmonia)」

門松を飾る正月を「ハル」という。

名詞語尾のiaは国を意味するから本来の名はハルモンである。

これは「春・門」で、門松を飾る門を意味している。

「アウトノエ(Autonoe)」

アウはオウだから、オオトノ=大殿で王家のこと。

エは兄で、古語では兄と柿を意味する。

彼女は一番上の王女だから、大殿姉なのである。

「セメレ(Semele)」

ゼウスが愛したのでゼウスの妻が憎み、雷に撃たれて若死にする。

だが噂はセメレは人間の男と姦通したのを、ゼウスのせいにしたので、

それをゼウスに「責められて」ゼウスの武器・雷で罰せられたのだ、といった。

日本語の「セメラレ」と彼女の名「セメレ」との関係が、ここに見られる。

セメレは奄美語ではシミジで、そこでは清水をシミジと発音する。

「イノ(Ino)」

イノはボイオチアの王・アタマスの後妻になったが、

大女神・ヘラに憎まれ、

ヘラはアタマスに夢で告げ口をしてアタマスの「頭」を狂わせる。

頭にきたアタマスはイノに生ませた長男を殺し、イノも殺そうとした。

イノは次男を抱いて逃げたが、追い詰められて海に飛び込んだ。

彼女に恩義をもつゼウスは彼女と次男を海の神に変えた。

母子は船乗りたちを嵐から救うとして厚く信仰され、

彼女を白い女神・レウコテア、

次男をバライモンと名付けたが、それは嵐の海の白い波がしらと、

死の悪魔の手を払いのけてくれるからで、

日本の神事の「お祓い」の語源がここにある。

轟々と暴風を吹きつけて船員達を海へ引きづりこもうとする悪魔を、

強く払いのけてくれるハライモンは、

まさに「払い者(もん)」の名にふさわしい海の神様なのである。

だから海人族たちがカドモス一族を日本まで運んできたのである。

そしてイノという名は国名になり、地名、姓氏にもなって現在まで使われている。

猪野、伊野、井野、伊能、飯野など、

これから出た姓は特に南九州と海人族居住地に多い。

「アガウェ(Agaue)」

これは前にもお話ししたが、吾郷、阿江、安川という姓に合い、

アガウェは前記の「エ=兄・姉」がついたもので、

阿賀大兄などと当て字できる。

「ポリドロス(Polydoros)」

ポリドはホリト。

堀戸や彫戸や保利都、ロスへの当て字は郎子。

保利都郎子。

この堀戸は後にホリベと読まれて、

堀部・堀邊などに変化する。

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2011年2月22日火曜日

竜を退治てテバイ王になったカドモス

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:12頁

ではカドモスが我が国までやってきたのであろうか?。

実は彼らはフェニキヤで大事件に巻き込まれて四散してしまうのである。

事件はエウロペが誘拐されて行方不明になったことから始まる。

父はエウロペが見つかるまで帰るなと兄弟たちを探しに出す。

カドモスは母のテレパッサと同行するが、母はトラキヤで死ぬ。

そこで一人で旅を続けてデルポイへ行き、神殿へ参詣して神にたずねる。

するとビューティアの告げた神託は

「牝牛を道案内にして、牝牛が倒れた所に町を造れ」という。

すると本当に彼の前に立って歩く牝牛が現われたので、

それについていくと、

現在のテパイ市で止まって倒れてしまった。

従者をアレスの泉に水を汲みに行かせると、

泉を守っていた竜が従者たちを殺したので、退治た。

すると女神・アテナが現われて、竜の歯を撒けという。

それにしたがって歯を折りとって撒くと、

それが鎧兜で武装した兵士たちになった。

その数が余りに多いのでカドモスは石を投げっけたところ、

兵士たちは怒って同士討ちを始め、

どんどん倒れていき最強の5人が残った。

しかし行為を恥じたカドモスは、贖罪のために8年間、神々に仕えた。

それをめでて、アテネは王国を、

ゼウスはアプロディテの娘・ハルモニアを妻として与えたので、

4人の娘・アウトノエ、イノ、セメレ、アガウェと、男の子・ポリドロスが生まれた。

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2011年2月21日月曜日

虚構の「民族史観」一掃が急務

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:11頁

これでギリシャ人と、

フェニキャ人とを別の国の、別の人種だと思っていたのでは、

絶対に古代史の謎など解けないことがおわかり戴けたと思う。

ヒトラーが宣伝した民族史観などが学問の内に入らず、

無茶苦茶にしてしまうことが、

これでおわかりのはずである。

それは現実に、戦後のドイツ史学の停滞になって現われている。

もっともそれは我が国でも隣国でも似たようなものである。

劣等感を裏返しにしただけの史学?が、

どれだけ多くの愚かな説を生み出してきたか、

蔵書の山を見て悲しくなるのは皆様も同じだとおもう。

はるばるフェニキャからやってきて、

我が国の基礎を築いた父祖の功績を知らずに、

神か悪魔かわからないものを崇拝して何になるか?。

子供達が劣等感をもち、未来に希望を失い、

働く目的も意欲ももてずに、勤労を嫌い、

遊びに明け暮れて、犯罪者に転落するのは当然のことである。

それをさせる大人たちが、

自分の無知や思想の誤りをまるで自覚できず、

他人の責任のように嘆き、怒って見せる。

このままでは我が国の明日の惨状は、今から眼に見えている。

私たちは折角すばらしい先祖をもちながら、

愚かな先学らに毒されて、

奇妙な神国観を吹き込まれ、その尻拭いの戦禍に巻き込まれ、

今なお米軍に占領されたままの国に住んでいる。

今ほど真実の建国史を知って、

劣等感を一掃する必要のある時はないのである。

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2011年2月20日日曜日

カドモスの国・フェニキヤは「船木国」

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:10頁

カドモスが生まれた国の名・フェニキヤも重要な名詞である。

そこは古代ギリシャ中でも最も有力な海軍国で、

スペインなど各地に植民地を造り続けた。

その国名に当て字すれば、船木国になる。

船の木は松。カドモスと門松はここでも結びつくのである。

ただしフェニがフネというのはオカシいという疑問が残る。

これは沖縄語を考えればきれいに晴れる。

沖縄で最も有名な戦跡「マブニの丘」は、

摩文仁と書くが、そこは沖縄本島最南端に近く、

一望、果てしない太平洋を見渡す丘だから、

「船しか見えない丘」で、

それを叙情的に表現した「真船の丘」が、

命名者の意図した本来の名前なのである。

真船がマプニになるのは

本来の沖縄語には母音のエがないからフネがフニになる。

だからフェニもフニで船と同じになるから

船木国で完全に表現されているのである。

いまギリシャや、その植民地遭跡一帯へ行ってみると、

見事な松原や松並木が残っている。

紛れもなく文字通り「船木の国」だったことが実感できる。

日本語の「フネ」の語源がフェニキャだったことは疑問の余地がない。

従来、古墳人は北方騎馬民族だといわれてきた。

古墳に壁画や埴輪の馬があり、

石の馬も九州と出雲で出土したから、

有力な証拠とされていた。

しかし彼らは船や松には縁がない。

それは全て海神・ポセイドンとだけ、

矛盾なく結びつく、動かぬ証拠群だったのである。

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「上井の命」とも書けるアゲノール

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:9頁

では、アゲーノルの残りの「ノル」はどうなるか?。

ノルという日本語の古語は「宣る」で、

上が下に向かって命令することである。

『古事記』は貴人の名や名乗りに「命」をつけている。

これは在来は「ミコト」と読むと決められていたが、

このミコトは御言葉の省略で「御言」すなわち命令であるとされてきた。

するとそれは「ノル=宣る」と同じことである。

そして「命」という文字は、イノチという発音が一般的で、ミコトは、

こんなに説明しなければわからない特殊な使い方なのである。

ところがアゲーノルの方は「アゲー宣る」と理解すると

「上井命」と書いたものと同じになる。

命が御言か宣るかは、まだ断定できないが、この2つが、

どちらでも同じことであるのは間違いない。

アゲーノルが「命」という敬称の語源である可能性は残っている。

ここで是非、付け加えておく必要があるのは、

私たちの最大の利器「名乗り」についてである。

それは慣習に従うほかないから、

使い続けている「名乗り」という言葉の「乗り」も本当は、

この「宣る、宣り」なのだということなのである。

「名を宣る」から「名宣り」が正しいのである。

間違った「名乗り」という用字では、

一般のかたには何のことか分からなくて当然なのだ。

だが我が国には歴史に限らず、

同様の恥を晒している用語が実に多い。

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2011年2月18日金曜日

門松の語源はギリシャ神話のカドモス

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:9頁

では「門松」は、どんな事実を記録しているのであろうか?。

それを門飾りにするのは、ポセイドン族=海人族=百済人の行為で、

それは国民が国旗を掲げるのと同じものであるといえる。

ではそれを日本語で「カドマツ」と呼ぶのはなぜ?だろうか…?。

これもギリシャに語源があるのではないかと、

精密に捜査し検討するのが、本学の原則である。

するとカドマツに転訛する名詞がギリシャ神話中にみつかる。

カドモスである。

この名はギリシャ人が最初に土着した琉球地区では、

母音のオがないために、カヅムスになる。

これは南九州語に転訛すると、

ヅはドに戻り、ムはマになり、

スはツと区別のつかない「ッ」になるからカドマッになる。

そして門松君はまさにその通り「カドマッ」と呼ばれていた。

彼は気づかぬまま故人になったが、

彼はギリシャ語で「カドモス」と呼ばれていたのである。

この語源がなければ、門松は決してカドマツとは読まれず、

モンマツと発音されていたはずである。

関西語では戸外を「カド」というが、それは門を意味しない。

「カドで遊んで来(き)」というのは広い戸外で遊んでこいという意味なのである。

カドモスとは、どんな人物なのだろう?。

我が国では、

そんなに有名な存在ではないが、

ギリシャ神話では、

大きなページを占める重要人物である。

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カドモスの一族名は鹿児島に濃厚に残る

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:8頁

紀元前1世紀ごろに書かれたとされる、

アポルロドロスの『ギリシャ神話』の第3巻に、

カドモス一族のことが詳しく書かれている。

ポセイドンはリビエと結婚してベロスとアゲーノルが生まれた。

ベロスはエジプトに行って支配者になり、

アゲーノルはフェニキヤに行ってテレパッサと結婚、

長女エウロペと3人の男の子、カドモス、ポイニクス、キリクスたちが生まれた。

ご覧の通りカドモスはポセイドンの孫だから、

百済人には周知の名なのだ。

ここで父・アゲーノルの名を検討してみよう。

アゲーは倭国の倭の発音がウワイだったこと、

切っても切れない関係にある。

ウワイは今も鹿児島独特の上井(うわい)という地名と姓として、残っているが、

上井という当て字はアゲイとも読まれて、

山口県の地名やJRの駅名に残り、

さらに東隣りの県・広島の古名・安芸も、

注意してみればアゲイという発音をもっている。

これはアゲーノルという名が先に鹿児島にあって、

上井と書かれていたからウワイという国名が生まれ、

それにウワイという発音をもった倭の字が当て字されたように見える。

だがその逆も考えられる、

倭のウワイが古くて、

そこがアゲーノルの国になってからアゲイへの当て字として上井が使われたが、

そこは倭だったので、

ウェイであってウワイではない上井の文字を、飛鳥や春日や大和と同じように、

無理にウワイと読むことになったのだと…。

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2011年2月16日水曜日

「亀」という代名詞にもこれだけの史実がある

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:8頁

その海運力をもっていたから、

ギリシャ人は台湾から朝鮮半島まで支配できたのである。

それがまた、

高句麗王・位宮が魏の大軍に敗れて脱出、琉球まで落ち延びるのに役立った。

この話が浦島太郎伝説になって残ったが、

太郎は「助けた亀に連れられて」竜宮城へいく。

彼は兄の高句麗王が死んで王妃に泣き付かれたため、

亀=高句麗海軍を助けに、

高句麗王を引き受けて戦ったのだったから、

「助けた亀に連れられて」なのだが、

その亀の名も単なる海人族の風刺ではない。

位宮は垂仁天皇で、

その后妃は狭穂姫皇后の死後に再婚した比婆須比売皇后柿妹である。

その父は美知能宇斯王で、

これはインドの最高の神・ビシュヌウ神ヘの当て字・

美知能宇斯(ビシヌウシ)ンであることは、

その当て字の一字一字が証明するし、

当時の支配者たちが、

信奉する神の名を名乗っていた実例は、

百済王のポセイドン以外にも多数あるから議論する必要はない。

このビシュヌウ神は、目的に応じて様々なものに姿を変えるが、

そのトップにあげられるのが「亀・クールマ」なのである。

それはインド神話の筆頭にある『乳海攪拌』で、この世界を造る時、

宇宙を満たしていた白濁したモヤのような乳の海を神々が攪きまわすのに、

ビシュヌウ神が巨大な亀に変身して特大の攪拌棒を支える軸受けになるからである。

だから太郎の亀は美知能宇斯なのだ。

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2011年2月15日火曜日

海人族を大発展させた「松」という文化財の実在

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:7頁

末廬(マツラ)という発音が帯方郡使にも聞き取れたことは、

3世紀にはマツラという地名がそこにつけられていたからで、

それは最初は馬津国(マツラ)だったものが、

のちに松浦になったことも疑いない。

ところがその地域には日本最大の磯の松原である

「虹の松原」が現在も残っている。

文字通り松の浦である。

松の木が馬津国(マツラ)を代表する聖木だから、

むやみに伐採し尽くされず、

今に至るまで昔の面影を保っているのだとわかる。

このことで松を日本語でマツと発音するのは、

語源が馬の国である「馬津国」だからだとわかる。

それではその松の木はポセイドンの聖木だから、

それが群生していたから、

そこをマツラと呼んだのであろうか?。

それともそこが馬津国こなったからマツラと呼ばれた後、

そこに松の木を植えたから、

馬津=マツの木という名が生まれ、

それは中国では松=セウと呼ばれる木だから、

その字を使い、発音だけ日本読みしてマツと呼ぶようになったのか?。

これは発音からいっても、

文字からいっても後の方が正しい。

だとすれば松の木は後から植えたもので、

そこに大きな松原があったところに、

偶然、馬津国が移動してきた奇跡的な出来事があったわけではない。

馬津国が発展すれば必然的に造船量も増えるから、

松は単なる聖木としてではなく、

海人族の最大の経済基盤として人工的に増殖されたのだとわかる。

『参考』

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2011年2月14日月曜日

極東に開花した壮大なギリシャ文明の落とし子

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:6頁

ギリシャの海神・ポセイドンは馬を作り出したから馬は彼の聖獣で。

またギリシャでは船を造る木として最高だった松の木を、

そのポセイドンの聖木として崇敬していた。

百済というのは、

そのポセイドンに当てた漢字で、

ポセイドン=百済殿(ポセイドン)である。

すると福岡県若宮町の竹原古墳などが代表する

北部九州の古墳壁画が船と馬をテーマにし、

『魏書倭人章』には「馬無し」と書いてあるのに、

各地で立派な馬の埴輪が出てくる理由が完全に解かる。

また宮崎県西都原(さいとのばる)の飯盛塚古墳出土の船の埴輪は、

艪(ろ)を支える突起が14あるから乗員数で規模がわかる。

こうして本学によって発掘考古学の手探り時代は終わったのである。

それだけでなく、帯方郡使の眼の届かなかった沖縄地方で、

いま久高島のノロたちが頭にギリシャの月桂冠そっくりのものを被るのは何故か?

といったことまで、明確にわかる。

今年はギリシャでオリンピックが開かれる。

日常、なんの気なく使われる「栄冠」という言葉が、

ギリシャ起源の月桂冠のことだったと改めて気付かされる思いがするが、

ギリシャから私たちが受け継いだ『四神』の名と色彩の名と、

それを府県名のような行政区名化した五彩圏国家の実在に及ぶ、

極東に於ける壮大なギリシャ文明の開花が、

奇しくもいま明確に白日のもとに姿を現わした。

この壮挙を1日も速く、世界の人々に知ってもらいたい。

『参考』

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2011年2月13日日曜日

『魏書倭人章』解続と国史解明への新しい手掛かり

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:5頁

ここまでわかると、

その「馬津」国の聖木が、マツと呼ばれる理由がわかる。

それは国名そのものが、

その聖木の代名詞になって「馬津」の木と呼ばれただけである。

だから古代の我が国にポセイドン神話がなければ、

マツという名詞は絶対に生まれなかったのである。

このことで『魏書倭人章』の解読に、

決定的な大きな根拠が生まれたことも、

見落してはいけない。

帯方郡使が当てた当て字「末廬国」は、

間違いなく「マツ」という名詞を写しており、

それは馬津という

土地と、馬という動物と、松という植物と、マツという発音の植物名とが、

すでに倭国こ実在していた事実を記録しているからである。

その上さらに当時すでにこれらの漢字が

当て字として我が国で使われていた事実も立証している。

それがなければこうした百済殿から

松に至る名詞群を生んだ文化展開は、

絶対に起こらないからである。

また帯方郡使が「馬…無し」と書き、

「其の木」の中に松がないのも、

彼の接触した倭人の教養度の低さによるもので、

その記事が絶対だと思い込むのは間違いであることも、

この発見が明確に教えてくれる。

このことはさらに国史解明充実の新しい手掛かりとして大きな役割を果たす。

それは門松から北海道の松前に至るまで我が国の地名や姓についている松が、

全て、ポセイドン=百済に関係しており、

その一族の消長を記録しているからである。

『参考』

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2011年2月12日土曜日

ポセイドンだけが完全証明できる「馬の国」名詞群

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:4頁

ポセイドンは豊穣の女神・デメテルに一目惚れして、

彼女を喜ばせようと河馬やキリンやロバなど様々な動物を造ったが

皆、女神の気にいらなかった。

しかし諦めずに試作品を造り続けた結果、

ついにデメテルが、

うっとりする美の極致の動物が出来上がった。

馬である。

古代日本人はこの話をよく知っていたのである。

なぜなら百済はポセイドンへの当て字である。

それがクダラという発音ももっている。

クダはマレー語の「馬」だから、クダラとは「馬の国」だ。

これは古文では「馬津国」と書き、マツラと読む。

これは『魏書倭人章』に末廬国と書かれた国と発音が一致し、

今の佐賀県と長崎県にまたがる松浦地方であることも、

帯方郡使がやってきたコースの記録で、

完全に証明されていて疑う余地がない。

そのコースを北へ逆行すると朝鮮半島南西部に着くが、

そこは当時、

馬韓国だったことが『魏書・東夷・韓章』に記録されている。

馬韓国は「マガラ」と日本語読みすると、

初めて正確な意味がわかる。

「馬ガ国」すなわち馬の国で、

後世、植民地百済になったことも疑問の余地はない。

百済も末廬国も松浦も馬韓も、

全て同じ馬の国だったのである。

百済がなぜ?馬の国だったか、それはこの、

ポセイドンと馬との切っても切れない関係を教えたギリシャ神話が、

当時の我が国で周知のものだったからに、ほかならず、

そうでなければ絶対に生まれるはずのない複数の地名・国名群と、

その相互関係だったのである。

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2011年2月11日金曜日

新年に飾る[門松]の意義とルーツは?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:3頁

正月を迎えると我が国では門松を立てる。

最近は少なくなったが、戦前は長屋住まいの人でも、

根のついた松苗にノシを掛けたものを、

玄関の左右に打ちつけて、松の内を祝った。

ところが戦争が長引いて、

航空燃料に松根油を供出するという断未魔状態になると、

政府が

「松は重要資源だから門松は国策に反する、絵で代用するように」と命令したので、

以後は門松の絵を印刷したものを貼るようになった。

敗戦後「そんな縁起でもないことをしたから敗けたんだ」といった人がいたが、

戦後はデパートなどが賑々しく大きな松竹梅を飾るくらいで、

全国的に廃れて、クリスマス・ツリーのはうが目立つようになった。

しかしなぜ門松を立てるのか?

在来の手法なら何でもかでも

「中国から来た文化だ」で済まされてきたが、

中国には松を特別視する宗教や習慣はない。

それがあるのは只1カ所、ギリシャだけである。

古代ギリシャでは船を造るのに松が欠かせない適材だったから、

今も「ポセイドンの聖木」として神聖祝されている。

この門松(カドマツ)という姓が鹿児島にある。

私の古い友人にも門松君がいたが、

背のスラリとした欧米型の美男子だった。

すると初めて松の木が、なぜ「マツ」という発音をもっているのか?が、わかる。

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2011年2月10日木曜日

歴山大王の八紘一宇と始皇帝の万世一系思想の結実

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:32頁

この五彩圏式国名は歴史上どんな意味をもつものだろう?。

それは実に重大な発見だったのである。

なぜなら新羅・高句麗・馬韓という名は、

外国ではなかったことの動かない証拠だからである。

今その方位への配置と、その語源とを見比べてわかった、

その名の真意は、別々の独立した外国の国名ではなく、

高い文化の持ち主が統一した国土を分割した各地域を、

深い意味のある神名を使って統一した名称で呼んだものだ、

と確認できるからである。

だからこれまでそれらを、

「連邦」と呼んできたのも間違いで、

それらは1つの国の中の

行政区画=いまの府県名に当たるものだったことも確認できる。

当然それらの行政区画の長には皇族が選ばれた。

天皇も不死ではないから直系が絶える。

すると傍系の府県知事だった皇族がその跡を継ぐ。

もちろん内紛も起こるし政権交替もある。

しかし皇統は絶えない。

これは革命の度(たび)に

為政者ばかりでなく国民まで虐殺略奪されて

疲弊、野蛮な国に逆行する弊害を防ごうとして

成功した法律の存在が見え、

覇権主義国家群との文化の差を示している。

それを南宋の太宋皇帝は

「天皇家は64代も続いている」と羨望したが、

それはアレクサンドロスが夢見て大王制をしき

「八紘一宇・四海同胞」を

実行しようとしたギリシャ哲学と

秦の始皇帝が夢見た万世一系制が合成、

熟成しなければ生まれなかったものだったのである。

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2011年2月9日水曜日

史実だという証明が完全に揃っている証拠群

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:31頁

五彩圏と同じ発想の「方位を示す国名」が、

日本語発音でついていた。

それは

東に倭国、

西に新羅、

南に明(アケ)の宮=鹿児島、

北に高麗という配置にピッタリ合致していた。

それだけでなく、

その語源はギリシャ神話に登場する神名だったのである。

ウラノスは神々の先祖で、

クロノスの父、

クロノスは「時の神」でゼウスたちの父。

アケロオスは河川や湖沼を支配する「水神」で、

南をミナミというのは

「皆水・皆海」に合うから鹿児島産の言葉だと解る。

シレノスは牧神パンの子で、下半身は馬。

馬津羅(マツラ)(松浦)や馬韓の支配者にふさわしい。

さらにその配置によって、

これが何時の時代のものかすぐわかる。

それは応神天皇の軽の明の宮=鹿児島神宮時代のものである。

この時、

確かに朝鮮半島北端以北に高句麓があり、

この南北線の東に倭国=四国があり、

西の筑紫すなわち北部九州に、

新羅の前身・白日の国と馬津浦=松浦があった。

それは今の地図を熟知している私たちの眼から見れば

歪(いびつ)に見えるが、

古代の観念的な東西南北には、

完全に合っているのである。

このことだけでも、

これまで私がお話ししてきたことが、

真実だったことが証明されて、

不足なところがない。

ことに応神の都は南と鹿児島という2つの限定詞がついていて、

そのどれにも合わない奈良県の軽は、

応神天皇の皇居としてはニセ物だと断定できるのである。

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2011年2月7日月曜日

もう1つギリシャの神名を使った東西南北の国名

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:30頁

ここまでくると、

その五彩圏と大国主の関係を熟考しなくてはならない。

五彩圏の国名はギリシャ語がそのまま日本語になっていたが、

その「東が青、西が白、南が赤、北が黒」の配列は、

現存する古代ギリシャ地名がもとになっていた。

ところが、もう1つ、

ギリシャの神名が基礎になったものがある。

それがわからないと、

応神天皇の全てがわかったとは言えないのである。

大国主の語源はウラノスだということはお話しした。

この「ウ=大」は別の日本語では

「大=オオ=アウ=青」で、

青木をオオギと発音する。

オオはまた倭でもある。

青は東、

すると西は?。

西はシレノスである。

「白い」を南九州語で「シレ」というからシレノスは「白主」である。

これは沖縄語に訳すと「シラヌシ=新羅主」になる。

南は赤だが南九州語では「赤い」を「アケ」という、

天武朝の年号「朱鳥」をアケミトリと読んだのは

天皇家が南九州人だった証拠である。

この名はアケロオスに合う。

これは沖縄発音ではアカルウシで

「明る大人」とも「赤ヌ御主」とも書ける。

これは応神天皇の皇居が「明宮」なのは南国を意味し、

その当て字の「阿鹿児と軽」はまた、

赤子と「鹿児=カグ=赫=輝やく」で

「輝やく国=赫之国(シマ)=鹿児島」を意味していたのである。

これに対する北国は黒の国=高麗・句麗でクレ。

標準語ならクロだから

語源はクロノス=黒主だったのだ。

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『邪馬台国大和説』を消滅させた「橘は…」の歌

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:29頁

だから允恭と雄略は仇敵だったが、

系譜上は親子になる。

しかし本当の血縁の上からいっても、

允恭天皇らの高句麗系も、

応神・雄略天皇らの倭国系も、

同じ台湾~与那国~沖縄~種子島と進んできた

ギリシャ系五彩圏連邦の天皇家の一員であることは、

孝昭、孝安・孝霊・孝元4天皇のところでお話しした。

それがさらに時とともに様々な人種の渡来人を血縁に加え、

互いに勢力争いをしながらも、

結局は互いに支えあってきたのである。

7世紀の世人は、

それを

「橘(種子島系人)は己が枝々実れども

(平素は好き勝手なことをしているが)

(ひとたび事が起こると)

同じ緒(お)に貫く(1つに増結して血統を守る)」

という戯れ歌にして歌ったと、

『日本書紀』が記録している。

これは天皇家を批判した不利な記事なのに隠さずに

わざわざ載せているのは、

それが天皇たちに必要な教訓だからだ。

これも

『記・紀』は『帝訓=教科書』の役目を果たし、

『憲法』でもあったという証拠である。

しかしこの歌は、さらに重要な証拠になる。

それは7世紀の奈良人が自分たちと天皇たちとを、

はっきり区別している事実だ。

仮に『邪馬台国大和説』がいうように、

卑弥呼たちが奈良県に居たのなら、

神武即位後700年もの間には同化していて、

天皇家を「橘」などと、

異人種視することはない。

邪馬台国大和説は、

これ1つでも完全に消滅するのである。

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2011年2月6日日曜日

橿原の宮での神武天皇即位の真相

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:28頁

これで、倭国誕生から終末までの輪郭が確認できた。

その推移はこれまでの結論と少しも食い違わない。

だから安心して今度は主題の

「倭王・武の細部」に戻って、

私たち日本人にとって特に気がかりな

「神武天皇即位」の真相を、

もっと掘り下げて検討してみよう。

その神武天皇の即位地と記録されているのは、

雄略天皇の武の名を冠した高市ではなくて、

その北隣りの橿原だった。

この地名は

「愛・カシー、巴利・ハリ=仏都」を

意味することは講義録(院)13でお話しした。

そこに君臨するのは卑弥呼と同じ

「優婆畏・ウワイ=倭=女性仏教徒」の

女王だという意味をもっている。

だから橿原即位とは、

女王の都の支配権を手に入れたということにほかならない。

ではその女王とは誰だったか?。

彼が結婚したのは

『日本書紀』では「橘姫皇女」で誰の子とは書いてない。

しかし彼の前の支配者だった允恭天皇には、

『古事記』が「橘大娘女」と書く皇女がいる。

系譜上の允恭天皇と雄略天皇の親子関係は、

実子ではなく

養子関係であることはすでにご納得ずみだから、

その結婚相手は系譜では「妹」の橋大娘女だ。

だから妻を「妹」と書く古文の真意が、

ここでよく解る。

「日本人は実妹と結婚する野蛮人だった」と

軽蔑されることはない。

雄略天皇は允恭天皇系の女王を皇后にして、

始めて「天下を治める」ことになったのである。

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2011年2月5日土曜日

方言化の原則と文化が証言する支配勢力の巨大さ

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:27頁

以上でよくわかったことは、

同じ一族が

アミ族、

沖縄人、

日本人、

アイヌ族と

分かれているだけであって、

アイヌ族も決して異民族ではないという動かない事実である。

彼らは不幸、

大化大戦に敗れて、

東北方へ大移住を余儀なくされたが、

もともと

台湾から

沖縄、

九州、

朝鮮半島、

四国、

中国地方、

近畿と

大移動してきた人たちだったからである。

では何故?各地の彼らは同じ言葉を話さず、

別々の言葉を使っているのであろうか?。

この疑問は、

正しい言語学を知らない人の考えなのである。

人の集団が大きい場合は、

その人たちの言語は内部的変化はしても、

原型を永く止どめている。

ところが移住者が少ないと、

移住先での交易交際には、

どうしても多数派の原住民の言葉を覚えて使う以外、

生きて行く方法がない。

だから次の世代になると完全に原住民語を話すようになり、

子孫は先祖の言語を忘れる。

だから移住者は前から住んでいた人々の言語に変わってしまう。

これが「方言化の原則」なのである。

アミ語もアイヌ語も皆、

そこに先にいた原住民の言語なのである。

するともう1つ大きな問題が片付く。

ギリシャ文化が日本文化中に占める量の巨大さは、

日本列島にやってきた

その人々の数の巨大さと、集中と、権力の把握を立証している。

少数派の先住民は、

その天皇家中心の集団と混血して、

吸収されてしまったのである。

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2011年2月4日金曜日

台湾から青森まで、倭国の足跡を記録している陸奥

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:26頁

この「日本語読み」の問題に視点を絞ると、

さらに大きな証言が出現する。

それは台湾の古名が「小琉球」で、

沖縄が「大琉球」と呼ばれていた事実である。

これは誰がみても現実とは逆になっている。

沖縄は小さく、

台湾が大きい。

しかし、

この大小を日本語読みすると、

コ琉球とオオ琉球である。

これは古(こ)琉球と倭(おお)琉球だったとわかるから何の不合理もない。

この琉球の名はリクウという大隅語のまま

「陸奥(リクアウ)・リクウ」という

当て字になって現在も残っている。

もう1つの琉球への当て字・六合(りくあう)も、

六をムツという日本語で読んだ

「陸奥(ムツ)」という読み方として残っていて、

東北地方の北端まで琉球人が移住した事実を立証している。

だからこれで私たちには、

琉球は単に沖縄県だけでなく、

台湾からスタートして青森県まで到達したことが読みとれる。

それは今の主題

「ギリシャ系倭国天皇家が台湾で生まれた」、

そして5世紀に大和朝廷を造り、

7世紀に大化改新で近畿の倭国政権が負けて、

日本政権に変わったあとも東国では勢力をもち続けており、

最後に東北に移動して、

この陸奥の地名を現在まで止どめているのだ、

と明確に理解できる。

するとその追撃戦の記録もよくわかる。

先ず天智天皇の阿部の比良夫、

次が坂上田村麻呂、

そして八幡太郎義家で、

八幡平(たい)などの地名もその遺物だと非常によくわかる。

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2011年2月3日木曜日

在来の渡来人説の欠陥を教える2つのキリュウ

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:25頁

この地名の移動が、

他の地名の移動と異なっている点は、

それが倭国の発生と終末に見事に一致している点である。

ナゴヤは3世紀の伊都国の北にあり、

朝鮮半島との往来の玄関口として知られた位置にあり、

16世紀末の悪業=豊臣秀吉の朝鮮侵略の基地にもなった。

次いで5世紀初めの

仁徳天皇の都・難波=愛媛県長浜市に移り、

5世紀後半には今の大阪に移り、

後世の大都市化のいとぐちを開いたが、

7世紀末の大化大戦で倭国そのものが瓦解、

その一部が移動した先に那波の地名が生まれて、

10世紀の『倭名類衆妙』に

上野国(こうづけ)の郡名として記録されたが、

現在の群馬県にはもう片鱗も残っていない。

しかし同じ群馬の桐生市はキリュウ=基隆で、

台湾北部の大港湾都市として、

名護屋や名古屋や大阪と同一条件をもつ。

桐生は港湾がない。

その点は合わないが、

絹取り引きでは有名な都市であった。

渡良瀬(わたらせ)川の舟運は

古代には貿易港として役立ったから、

やはり移動地名だったことは間違いない。

このキリュウを、

発音の一致だけで説明しようとすると、

基隆の華僑(かきょう)が

桐生に渡来したのであるという在来型の渡来説にしかならない。

だがそれだと基隆(キールン)がなぜ?、

キリュウという日本式の読みに合うのか不明だ。

地名は歴史の断片なのだから、

単独でなく関連地名と総合して研究して、

始めて本講のように明快に復元できる。

その差をよくご認識いただきたい。

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2011年2月2日水曜日

沖縄⇒佐賀⇒愛媛⇒大阪⇒群馬=倭国の足跡

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:24頁

しかし朝倉の宮という地名も気になる。

朝倉は7世紀に斉明天皇が亡くなった筑前の地名、

福岡県朝倉郡だとされるが、

『倭名類聚鈔』の筑前の部にはない。

『倭名類聚砂』には全国でただ1か所、

今の群馬県前橋市朝倉町が、

那波(ナハ)の郡の筆頭にあるだけである。

だから大和には高市の郡にもない。

城上(きのかみ)郡に長谷が

波都勢・ハツセと振り仮名してあるだけだ。

またその高市の郡には御所(ごせ)の名はなくて、

「巨勢・こせ」がある。

これは雄略王朝が衰亡した後世に、

ここを領有したのが巨勢氏だった証拠で、

語源は五瀬や伊勢や石や御所(ゴセ)と同じだが、

当て字をみると濁りは消えてコセである。

イサナギの名はここまでくると原形をとどめなくなる。

臣下の巨勢の住まいを御所とは呼ばないから、

付近に葛城一族の居住痕跡が濃く、

葛城という山があっても、

だからと葛城王朝を妄想しては学者とは言えない。

那波(ナハ)の地名が出てきたチャンスに、

ナハという地名がどれほど重要なものかも

お話ししておこう。

沖縄の首都・那覇は、

これまでまるで外国の地名のように見られ思われてきたが、

那覇は間に助詞を挟むと

那ヌ覇=ナヌハ=難波・浪速になる。

この助詞をガにすると那ガ覇=ナガハ+国(マ)=長浜。

ハを八と書くとナガヤ=長屋(王)。

この発音変化ナグヤ=名護屋、名護。

ナゴヤ=名護屋・名古屋。

だから難波や浪速の渡りも転々と移動しているのである。

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2011年2月1日火曜日

重要な、名乗り地名の所在確認

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:23頁

私たちは、

そのチヌがウチナ=大天から

姐奴国、津奈木、津名、茅沼⇒キノ・木の、紀伊と

移動したことをよく知っている。

奈良の纏向(まきむく)は最後の到達点だから、

マキムクなどという、

まるで違った発音に変わってしまって、

その語源が沖縄(ウテナ)として残っていることなど、

まるでわからなくなっている。

これは地名の「年代差」で、

発掘品の土器の様式や、

恐竜化石の骨や歯がもっ変化の示す年代差と、

全く同じものなのである。

このようにすれば、

その貴重な年代差が正確に発見でき、

誰にでも理解できるようになる。

それは無数の地名が移動して実証しているのに、

それを知らず、考えもせずに、

記録された纏向を皆「マキムク」と読み、

全部、奈良県の纏向(まきむく)だと思い込む知能指数では、

日本の古代史復元を試みることは無理である。

過去の解説者が全滅した理由の1つがここにもある。

それだけでなく景行天皇が活躍した筑前には

京都(みやこ)の郡があり、

隣りの豊前の大野の郡には

三重の采女(うねめ)の出身地とみていい三重町がある。

淡海の三船がつけた景行という諡号は

「日の京へ行った天皇」をうまくモジった作品で、

その日はホ、沖縄語のフで、豊はその当て字。

豊前は沖縄読みプーミで、

『魏書倭人章』の伊都国の東の

不弥国(プーミャ)に完全に一致する。

だからこの三重の采女(うねめ)の歌は、

景行天皇の記事が雄略天皇の記事に

紛れこんだものと解るのである。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史学講座『創世』
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ウワイト
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