2016年1月31日日曜日

《久伊豆神社とお獅子様》➀


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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1057~1067頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《久伊豆神社とお獅子様》

  久伊豆神社は埼玉県に特有な神社である。

 県の東部江戸川と荒川の間、

 南は草加市、八潮市から北は加須市、行田市まで

 東側の鹿取神社の占める地域と

 西側の大宮市などの氷川神社が占める地域に

 挟まれて83社が散在している。

 特に岩槻市9社越谷市に8社と集中している。

 その祭神は相違うことなく大己貴神を主祭神としている。

  このうち最も確かで古い創起伝承を持っのは

 岩槻市宮町の神社である。

 由緒書によると

 「約1300年前

  欽明天皇(第29代〈539~571〉)の御代

  出雲族土師(はじ)氏が東国移動の際にこの地に

  大国主命を出雲国より勧請し、

  社殿を建立したのが始まり」だとされている。

 よって、

 久伊豆神社は出雲より勧請されたことが明らかとなる。

 その奉祭氏族が「はじ氏」だという。

 同族には地中海東岸の影があると。

 しかも因幡国風土記逸文、『古事記』に登場する

 「白(素)兎」の仲間である。

 なぜならば、

 「ハジ」はヘブライ語の「野兎」を表わす

 HAZ(hoz)の音写であるからである。

  島根県松江市名は実はこの「うさぎ」の意味を

 持っている。

 アイルランド語では日本のことを 

 Seapáine(海松) といい、「松江」と理解できる。

 しかし、

 この呼称はカナンが母国でイベリア半島を経て

 フェニキア語 Sephan(兎)が移入されたものである。

  紀元前200年頃イベリア半島はフェニキア語で

 ispania といわれ、

 ラテン語で Hispania と表記されるようになった。

  現在の スペイン Spain はだから元来「兎」である。

 フェニキア語はカナン語であり、

 ヘブライ語の母体になっている原語であるから

 イスラエル人に依って

 日本に持ってこられたとしてもおかしくはない。

 1999年代初め西欧のある新聞記者が日本の家屋は

 「うさぎ小屋」だと評したが、

 アイルランドの Seapáine(日本)を知っていて

 発想したものであろう。

 たわいない遊びである。

 そのうさぎ小屋(松江)を愛し、長い間滞在していたのが

 アイルランド人を父とし、ギリシア人を母とする

 アルカディア・ハーン(小泉八雲)であるのだから、

 その運命の不思議を感じざるを得ない。

 このような背景によって

 「白兎」が地中海東岸の文化を素地として

 いることが見えてくる。

  さて、「久伊豆」とは何を表わしているのだろうか。

 一般的には「ヒサイズ」と呼ばれているが、

 「クイズ」とする神社もある。

 その本義を知る資料が出雲にある。

 聖地安来の南方伯太町と広瀬町が鳥取県境で接する所

 「櫃」の転訛した「比田」で比田と仁多町との間の峠を

 「久比須」と言った。

 「久伊豆」はこの「久比須」と同じである。

 即ち安来市吉佐に鎮座する名と同じく

 「神の箱」を意味する KPhSH(箱) が祖語である。

 久伊豆神社は

 土師氏(天穂日命の後裔)によって「神の箱」信仰として

 埼玉の地に定着されたもので、「クイズ」が本名と考える。

 因みに支布佐神社の祭神は天穂日命である。

  「延喜式」神名帳武蔵国埼玉郡に

 玉敷神社が記載されている。

 主祭神は大己貴命である。

 江戸期までは久伊豆大明神とも言ったが、

 明治になって現神社名に改称した。

 式内社とすることに疑問を呈する向きもあるが、

 以下の説明により

 この神社に間違いないことが明らかになる。

 一連の系列社の中でこの神社の方が異称を持っている。

 「玉敷」とは何かであるが、

 これは「雌獅子」を表わしている。

 サンスクリット語の 

 dome-Ginga(雌-獅子)を転訛させたもので、

 ガド族の重要な形容である。

 「安来:十戒神社と祈り」に紹介した、

 モーセが死ぬ前に述べたいう申命記33章の

 「ガドは雌獅子のように待ち伏せ、

  獲物の腕や頭を引き裂く」

 とある詩句に対応しているのである。

 獅子はライオンで狩りをするのは

 雌ライオンだけという事実は

 よく知られているところで、

 その勇猛さをガドの勇壮さに例えて

 祝福の詩としたものである。

 騎西町を中心とする周辺の久伊豆神社の祭礼には

 玉敷神社から「お獅子様」を借りようとして

 氏子の家々に縁側先から

 「アリャリャーイ」とか「アリリ」など

 掛け声をあげながら家の中に入って

 悪魔払いのお祓いを行って玄関から退出するという。

 現在お獅子様が崩れてしまったので櫃、

 つまり箱に入れたものを担いで行くようになっており、

 「クイズ」の本義が行われているともいえる。

 また、多くの社では獅子舞が奉納されており、

 お獅子様が祭礼の中心に置かれている。

 上記の掛け声は

 ヘブライ語の ARYH-ARA が原語でライオンを、

  ARYH-ARA-H(アリャリャーイ)は雌獅子を意味する。

 「雌獅子様だあ」と言っていることになる。

 鎮座地名「騎西」は

 安来市の「吉佐」を遷したものとみられ、

 「箱」の字義である。

 同社の創立時期は不明だが、

 岩槻市宮町の神社同様かなり古いものとみられる。

  ここで、

 その申命記が「モーセ五書」に

 入っている伝書であることから

 『旧約聖書』が日本へ渡っていたということが推測される。

 申命記に載る詩句によって

 祭司が行われていることは明らかに事実である。

 それも「虎の巻」で考えたように巻物である。

 「モーセ五書」はまた KhMSh(khumesh)とも称されるが、

 玉敷神社境内の摂社宮目神社はその音写名である。

 因みにお獅子様、神様の「さま」あるいは「さん」は

 ヘブライ語の「名前、名称」を表わす SM(sem)と考える。

  越谷市の久伊豆神社は平安末期の創建と伝えられている。

 越谷郷は関東の武士団千葉氏系図に現れる地名である。

 平安時代の終わり

 武蔵七党いわれた

 武士団私市党や野与党に同社は支えられた。

 そのうちの武将に「古志賀谷太郎」の名があり、

 平安時代から「コシガヤ」があったことが解る。

 同社は現在当事者さえその意味を理解していない。

 「さんじんさん」の呼称で親しまれてきたという。

 「コシガヤ」と「サンジン」を検討すると、

 前者が「絹、絹の衣服」、

 後者が「蚕神」であることが解る。

 つまり、サンスクリット語の

  kauseya(絹、絹の衣服)、 

 kausika(絹、絹の布帛・衣服)がその祖語である。

 特にkausikaは漢語への音写翻訳で「哥尸迦衣」

 と表記されていることからして明らかである。

 養蚕業が廃れてしまった同地では、

 現在「蚕神さん」が忘れ去られるのも無理はない。

 越谷は養蚕が行われていた地域であったのである。

 同社の鎮座する東方に花田地区があるが、

 これは「カハタ」で「桑畑」が原義であっただろう。

 サンスクリット語による「コシガヤ」の定着は

 平安時代であったかもしれないが、

 養蚕はそれよりも古くから行われていただろう。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
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2016年1月28日木曜日

《福島:伊達と安達》

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 牛角と祝祭・その民族系譜:1051~1056頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《福島:伊達と安達》

   福島県の東北部に伊達郡がある。

 「伊達」は現在「ダテ」と呼称されるが、

 「イタテ」とも言われた。

 初見は和名類聚抄信夫郡の〔注〕に

 「国分為伊達郡」とあり、

 平安期に信夫郡から分かれて

 伊達郡が成立した様子が解る。

 信夫郡に所属していた

 伊達郷がその中心であった。

 それからすると、

 伊達の地名は平安期の前期以前に

 すでに存在していたものとみられる。

  福島県は古来養蚕が盛んであった。

 特に伊達郡に著しい。

 「信伊二郡村誌」の明治9年の記録に物産として

 生糸、平絹を挙げ、

 「男は皆農桑を業とす、

  女は養蚕、製糸、繊絹を業とす」

 と述べられている。

 伊達郡川俣町館には機織神社が鎮座する。

 会津若松市蚕養町に

 「延喜式」神名帳陸奥国会津郡に

 同名で載る蚕養国神社が鎮座する。

 また神名帳に

 「志太郡、敷玉早御玉神社」が

 記載されていことから、

 秦氏系の絹業者が入っていたと解り、

 イスラエル人の居住が推測される。

 「イタテ」はガド族の「誓い、証し」の

 字義である IDVT(idut) あるいは

 IDYVT(idiut)であることが確かになってくる。

 以下はこの伊達郡及び安達郡が

 イスラエル人の地であったとことを明らかにする。

  伊達郡伊達町に志和田地区がある。

 「シワタ」は

 諏訪野、千供田と祖語を同じくするもので、

 ヘブライ語の SPhR(sefir) に依る。

 現代においては「本、書籍」であるが、

 古代においては「巻物」で、

 SPhR-TORH は「律法の巻物」で旧約聖書を表わした。

 「伊達巻」という用語がある。

 今は料理名あるいは

 着物の帯の巻き方の名称となっているが、

 本来はこの「聖書の巻物」が元祖と考えられる。

 志和田には鎮守として神明宮があるが、

 これは「カンメイ」で、

 KhMVSh(khmesh) の「モーセ五書」の

 転写と考えられ、旧約聖書の信奉社と考えられる。

 伊達町の東方は保原町となるが、

 「保」 HI(hei) はヤハゥエ神と呼ぶことを除けた

 同神の表記であり、これを表現する場合は

 ADNY(adnai) あるいは HShM(hashem) と言う。

 この ADNY が同町大泉内の「大田」及び「ニ井田」に

 別れて地名となっている。

 また柱田は HShM が転訛したものであろう。

 保原町の東の霊山町の中心は掛田である。

 かっては懸田と表記されたが、

 これはガドの音写であり、

 室町時代の懸田氏は

 ガド族に連なる者であったであろう。

 掛田の南は小同だが、

 これは本来「虎国」であっただろう。

 「トラ」は律法でである。

 それに連なる川俣町の小神は虎神で律法神、

 小島も虎島で、安来市の聖地砥神嶋名に依る。

 戦国時代の小嶋之郷で「伊達世臣家譜」に依ると

 小島丹波は懸田氏の一族であったと伝えられ、

 ガド族の一族であったと推測される。

 羽田は「ハネタ」と呼ばれているが、

 「ハタ」に通じる。

  伊達郡の南は安達郡となるが、

 和名類聚抄はこれを「安多知」と訓む。

 「アタチ」はヘブライ語の IDTY(iedaty) で、

 現代では「ユダヤ人の共同体」の字義で、

 古代ではいて、
 
 「イスラエルの支族の集団」を表わしていて、

 ここにイスラエル人が居住したことを

 示した地名と考える。

 本宮町館の安達太良神社がその中心で、

 安達太良山に奥宮があったと考えられている。

 「太良」は、川俣町に太郎坊山があることに対応する

 TORA の転訛と考えられる。

 また安達太良山の祭神のうちの一神、

 甑大明神はサンスクリット語の kauśika の音写で

 「絹、絹帛、絹の衣服」を表わし、

 蚕神として祀ったものである。

 本宮町内には青田の地名があるが、

 元は太田と表記されていた。

 その南に仁井田の地名があり、

 川俣町と同様 ADNY を分化して

 地名としたものとみられる。

  この地方には「飯」の付く地名が多い。

 伊達郡飯野町、相馬郡飯館村、川俣町飯坂、

 福島市の温泉のある飯坂などである。

 これらは一般に「イイ」と呼称されているが、

 桑折町の半田がかって

 飯田(はんだ)郷と表記されていたことからすると

 「ハン」であったと推測される。

 安来市の木戸川、吉田川河口地域に飯島町があり、

 これを「ハシマ」と訓み、

 そこに羽島神社が鎮座するので

 「ハネシマ」あるいは「ハンシマ」である。

 「ハン島」は

 同社が鎮座する権現山が

 元は島であったことに依るが、

 聖地砥神嶋の別称とも言える。

 その字義は

 ヘブライ語の HVN(han) で「富、財産」を表わす。

 静岡市の建穂神社の祭神は「馬鳴神」という

 「富、財産」神で「富」を祈願していたが、

 伊達郡においても養蚕業、絹加工業による「富」、

 「豊かさ」を希求したものと考える。」

  砥神島は「宝島」であり、「富島」である。

 「福」とは「とみ」である。

 「釈名、釈言語」に「福、富也」とある。

 「福島」とは「富島」で「飯島」である。

 福島県名は

 安来市の砥神島に由来する地名とすることができる。

 福嶋は戦国期からみえる郷名ではあるが、

 信夫郡内の古くからの地名だったと考えられる。

 「福」にはまた「天のたすけ」の字義があり、

 ヤハウェ神の天の恵福を与えたり、
 
 支援し続ける神格にも合致する。
 
 川俣町の小神(虎神)に隣りする

 羽田が「ハネタ」と称されているのも

 そこに理由がある。

  最後に「イタテ」が「ダテ」と変わっているが、

 「ダテ」はヘブライ語の DTY(date) の音写で

 「律法を遵守する人、信迎者」を意味する。

 伊達郡、安達郡はイスラエル人の信仰を基礎に

 絹産業に依る繁栄を願い続けている地方である。

2016年1月26日火曜日

《前橋と利根》

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 牛角と祝祭・その民族系譜:1049~1050頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《前橋と利根》

  その上毛野君のいた所は現在の前橋と考えられる。

 前橋はかって厩橋(うまやばし)と呼ばれた。

 この呼称は、ここに馬厩舎があったからではない。

 「ウマヤ」は「馬屋」の表記になるが、

 広島県の芦品郡新市町戸手に多くの方がいる

 馬屋原姓と関連する。

 備後国風土記逸文の

 蘇民将来の舞台になった所である。

 「ウマヤ」はヘブライ語の「白い」である

 VVYYS(vays) の転訛である「まゆ・繭」を表わす

 HIRSIR(hersher) とすれば、

 ここに絹を纏めて支配する頭領がいたとなり、

 イスラエル人の系列にある者であったと推測され、

 その一人が小熊であったのである。

 現在の前橋市の中心部に

 伊和神の転訛である岩神町、

 ied(あかし)を祖語とする大友町、大渡町、

 播磨国風土記神前郡に載る

 石坐神山と同じ石倉町がある。

 これらを囲むように西側を

 総社の地名が広がっている。

 同名は総蛇の転訛で

 「蚕」を表わしていることは何回も述べた。

 ここに養蚕業の荘園が形成されたのである。

 前橋市の南の玉村町がある。

 「繭玉村」の意味で、そこでも

 ヤハゥエ神信仰が行われていたに違いない。

 後箇は隠岐島の五箇村名と同じくヘブライ語の

 GLK(galekh) の音写で祭司を表わす。

 GLK を呼称する神社が

 群馬県佐波郡境町で淵名に鎮座する大国神社である。

 「延喜式」神名帳佐位郡に同名で記載されている。

 大国はガド国の意味である。

 祭神は大国主神としている。

 同社の地元で親しまれている呼称が

 「五護宮」である。

  群馬県玉村町下之宮に火雷神社、

 群馬県邑楽郡板倉町に雷電神社が鎮座するなど

 群馬県には雷に纏わる信仰が広がっている。

 それらをここでは追及しないが、

 「利根」は

 その「雷」を表わしている名称なのである。

 ヘブライ語の OYNIR(duner) がその原語である。


 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
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2016年1月25日月曜日

多摩の「律法箱」と武蔵

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 牛角と祝祭・その民族系譜:1043~1048頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《多摩の「律法箱」と武蔵》
 
  東京都府中市宮町に鎮座する大国魂神社は、

 主祭神を大国魂神といい、

 出雲の大国主神の事として奉祭されている。

 「顕国玉神と大国主神」で考察したように、

 大国魂(玉)神は大己貴神に習合した

 ヤハウェ神のことである。

 同社は20世紀の初めまで六所神社と称されていた。

 「六所」は「ムツショ」で、「牟佐」に通じ、

 橿原市見瀬や静岡県見瀬と同じで、

 MShY(meshe) である「絹」を表わしている。

 武蔵国の古い表記「无邪志」に関係する。

 MShY-SYV(絹-糸) が

 「ムシャシ」にして「ムサシ」である。

 武蔵国は「絹糸国」の意義であり、

 SYV(糸、繊維)は

 「大国魂」の「魂 dama」(糸サンスクリット語)に

 対応する。

 多摩川を挟んだ稲城市名は「イナカ」で

 秦氏名を祖語とし、

 その西隣りの多摩市は川名と同様で、

 万葉集に「多麻」、

 「延喜式」に「多磨、多麻」と表記され、

 また川名は玉川とも表記されてきた。

 これらはすべて「玉」の字義に依るもので

 「繭玉」を表わしている。

 「タマ」はサンスクリット語の

 「糸、繊維」を表わす dāma を祖語としている。

 岡山県の苫田郡名や大月氏の五詡候の一つ

 「都蜜」ともなった用語である。

 この地方で

 秦氏による養蚕の開発が行われてたのである。

 それを示しているのが多摩川の上流、

 (現)あきるの市小川、

 和名類聚抄に多摩郡小川郷、

 訓「乎加波」と載る地域であるが、

 そこに鎮座する二宮神社は

 「小河大明神」と称されたように、

 相生市の小河、焼津市の小川同様

 ヘブライ語の KVGL(kogl)、

 「玉」を原語とする地名である。

 「あきる」は新編武蔵風土記に秋留郷、また

 「延喜式」神名帳の武蔵国多摩郡に

 阿伎留神社が載ることから阿伎留郷とも表記された。

 因みに同社は二宮神社のことである。

 「あきる」の出所は顕国玉神の「顕」にある。

 「あきら、あきらか」の訓みに依拠した呼称である。

 「延喜式」は武蔵国を「大国」と呼んでいるが、

 ガド族名と近い音訓の GDVL(gadol) に依るもので、

 大国玉神の名称になっていることは既に述べた。

 大国魂神社の近くの片町名がガド族に依ることが

 これで判明する。

 あきるの市の増戸(massda)、

 平井(Hebra-eヘブライ人) 、

 日の出町の羽生、福生市名(hersher支配者)、

 羽村市(HVN/han富、宝) 

 瑞穂町名(MZB祈り)と

 ガド族に係わる地名が集中している。

 羽村市には「五の神」があり、

 「モーセ五書」を表わしている。

 福生市、瑞穂町に広がる

 現米軍基地名「横田」であるが、

 初出が江戸期の寛文年間の史料からで

 そう古い地名ではない。

 この「ヨコタ」及び「横須賀」を

 米軍の極東放送 AFN は

 「イコタ」「イコスカ」と呼び慣らわしている。

 時代も状況も大変違う状況であるが、

 Isherh(+)が

 ヤスキ(安来)になっていてもおかしくはない。

  多摩川を遡ると青梅市となるが、

 その根ヶ布地区に虎栢神社が鎮座する。

 「延喜式」神名帳多摩郡に同名で載る。

 訓を「トラカシワ」としている。

 だが、この呼称の解釈は「トラのハク」で

 「律法‐箱」である。

 虎はヘブライ語の TORA である。

 さらに鎮座地名根ヶ布は「ネブ」で

 ガド族の故地

 ギリアドの死海に近いネボ山名を移したものだろう。

 モーセはこの山に埋葬された。

 律法を「虎」としたことから、

 それをみれば

 解らないことも解明できるとの意味で使われている

 「虎の巻」の起源は

 『旧約聖書』にあったとみられる。

 死海の西海岸近くのクムラン涸谷で発見された

 『死海文書(旧約聖書)』は巻物であった。

 その「巻物」を地名、神社名としているのが

 根ヶ布の南方にある西分町及び西分神社である。

 これは「セイフン」と訓め、

 ヘブライ語の SPhR の音写である。

 『モーセ五書』の正確な呼称は

 セーフィル・トーラー SPhR-TORA(律法の巻物)という。

 これによっても「虎栢」が

 「律法箱」であることが立証される。

  和名類聚抄多摩郡に「小島郷」がある。

 現在の調布市布田に隣りする小島が

 その遺称とみられているが、

 この小島も砥神嶋によるものと考える。

 虎栢神社とよく似た「延喜式」神名帳にも載る

 虎狛神社が同市佐須町に鎮座する。

 調布は、そこにこれも神名帳に記載されている

 布田の元になっている布多天神社が鎮座するように、
 
 この地域でインド系の人々が綿花の栽培を行い、

 木綿を紡いでいた所である。

 「布田」は「秦(はた)」と同祖語の

 サンスクリット語 paṭṭa で

 「板のように薄いもの」の意味で、

 ここでは「木綿布」で「調布」の字義に相応する。

 そこに鎮座する虎狛神社も

 「律法箱」名である可能性がある。

 史料には、

 ここが狛江氏の本拠であったとこともあり、

 混同されて使用されているが、

 町内に祇園寺があり、

 武蔵三国図絵には当寺を「虎栢山」と称したとある。

 現在は真言宗の寺院になっているが、

 「祇園」は京都市東山区の同名地と同じく

 「ギオン」でヘブライ語の GPN に係わり、

 これは、「綿、木綿」の本義ながら綿布を表わす。

 京都の祇園に鎮座する八坂神社の

 奉祭氏子の中心的な人々は絹商人たちであった。

 そこからわずかに離れた所に

 「虎ヶ島」の高塚があることを

 「図絵」は記載している。

  「虎ヶ島」は安来市の砥神嶋のことであり、

 「トラ島」は「律法島」で、

 現在の十神山を指している。

 小島郷はその「虎島(小島)」に対応する呼称である。

  『日本書紀』の安閑天皇の時に武蔵国造の地位を

 笠原直使主と争ったという小杵(おぎ)は

 この多摩郡地域の首領であっただろう。

 小杵が「コギ」で kogl「玉」を意味するからである。

 結局のところ敗北し殺されるのだが、

 彼は上毛野君小熊に援助を求めた。

 そこ(群馬県)に同族に連なる者たちがいたのである。

2016年1月24日日曜日

白山比咩と加賀


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 《参考:年表・資料》
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
 執筆時期:1999~2000年
 牛角と祝祭・その民族系譜:1042頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《白山比咩と加賀》

  ガド族の聖地安来市(イスラエル)の黒井田には

 菊理神社が鎮座することを紹介した。

 「キリ」は、ガド族が西アジアにいた時の

 故地 Gilied に由来する。

 「菊理」の名称は

 石川県石川郡鶴来町三宮町に鎮座する白山比咩神社の

 祭神菊理姫神の名称となっている。

 同社は加賀一宮ではあるが、

 鎮座地を「三宮」というのは、

 「サン宮」が「蚕宮」であるからである。

 「白山」名は「絹と地名分布」でみたように

 サンスクリット語の sīla,saīla(石)を祖語とした

 繭の比喩名である。

 さらに「まゆ」がヘブライ語の「白い」を

 原語としていることも明らかにした。

 白山比咩神は「繭姫」である。

 「菊理」名は絹産業の技術集団が祖地名を用いて
 
 付けた繭に対する比喩名である。

 町名「鶴来」は「カク」で

 ヘブライ語の「玉」を表わす

  KVGL(kogl)の音写であり、

 郡名、市名となっている「加賀」の祖語である。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
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2016年1月22日金曜日

志摩のダイダラボーシと天白社③


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 執筆時期:1999~2000年
 牛角と祝祭・その民族系譜:1034~1041頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《志摩のダイダラボーシと天白社》

  「天白」は「天魄」にして

 「(口+天)(口+鬼)」である。

 前掲の「日本の神社」によると、

 鳥羽市堅神町、菅島町、答志町、磯部町下之郷、

 迫間、築地、檜山、阿児町安乗、大王町天白などに

 その社詞が現在も有ったり既に無くなったが、

 記録にあるという。

  宇気比神社が鎮座する阿児町の「立神」は

 ヤハウェ神を表わす。

 「タチ」は明石市の「太地」に同じく

 「誓い、証し」を表わすヘブライ語

  (Heb.),ִֶדֻת,IDVT,iedut に係わる。

 また、同町甲賀に鎮座する阿夫賀神社名は、

 「聖都エルサレム」を表わす。

 (Heb.),ִיהֻת,IYHK,iyhut の音写に依る。

 その傍証は、甲賀に接する字名志島・畔名が

 エルサレムの代名詞でもある 

  シオン(ツィヴォン) TsYVN を構成する

  TsY(志)島-VN畔名であるからである。

 このような例は既に

 埼玉(前玉)が

 佐谷田 sakt-持田mat になっていることを

 第11章の「埼玉・鹿島:剣持神の国」

 などで紹介した。

 さらに郡名「志摩」は

 この TsYN の転訛であると考えられる。

 その理由に後述

 「千葉:坂戸神社の人身御供神事」の

 「千葉」の由来が参考になる。

  播磨国風土記揖保郡に

 「伊和大神の御子、伊勢都比古命、伊勢都比売命」の

 神名が載っている。

 また伊勢国風土記逸文の

 「伊勢国号」に伊勢津彦が登場する。

 それには

 「国は宜しく国神の名を取りて、伊勢と號けよ」

 とし、地方名「伊勢」が伊勢津彦に負っていると

 この伝承は言っている。

 伊和神が伊勢津彦の祖神であるから、

 この氏族はイスラエル人であることになる。

 そこで参照すべきは、ガド族の聖地安来市今津町に

 鎮座する伊勢神社である。

 鎮座地は井越で、ヘブライ語の

  (Heb.),יִסהֶו,YYShVA,yishev 居住地 に依る用語である。

  その理由は

 「伊雑宮」のある「磯部町」名が双方とも 

  YYShVA に依って訓める呼称であるからである。

 町内坂崎には宇気比神社もあり、

 その「居住」が明らかである。

 ただし、「イセ」の当初の称名は伊勢市にあり、

 その地主神、宇治蒲田に鎮座する

 猿田彦神社の祭神インドラ神を称した

 īsā,īsāna(支配者)に依るものと考える。

  志摩郡の南方に尾鷲市がある。

 ここにもイスラエルの波及がみられる。
 
 加田湾のある加田はガド名に依る。

 古川の水源の山ゲジョ山(927.2m) は

 GShM(geshem)の音写で「雨山」である。

 市名は北浦町に鎮座する尾鷲神社名に依るが、

 「オワセ」はどうも尾鷲節伊勢音頭とも関係する

 旧約聖書民数記第10章にある

 「契約の箱の進むときモーセは言った」

 という詞謡に由来する。

 契約の箱

 10:33 

 人々は主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。

 主の契約の箱はこの三日の道のりを

 彼らの先頭に進み、彼らの休む場所を探した。

 10:34 

 彼らが宿営を旅立つとき、

 昼は主の雲が彼らの上にあった。

 10:35 

 主の箱が出発するとき、モーセはこう言った。

 「主よ、立ち上がってください。

  あなたの敵は散らされ/あなたを憎む者は

  御前から逃げ去りますように。」

 10:36 

 その箱がとどまるときには、こう言った。

 「主よ、帰って来てください/イスラエルの

  幾千幾万の民のもとに。」

  この「主よ、立ち上がってください。」が、

 ヘブライ語 AYFShTYYN(oyfshteyen)で、

 「オワセ」に転訛したものとみられる。

 尾鷲神社の祭礼では

 この詞謡が献上されていたのではないかと

 推測される。

 近郊倉ノ谷町に鎮座する天下大水神社名は

 ヤハゥエ神をいうにふさわしい尊称である。

 また野地町は尾鷲神社の祭礼の親方、詰座など

 多くが住む氏子の町と知られているが、

 「ノジ」は NSYA(nosi) で「総統、統領」である。

 尾鷲湾を出た同市の離れ地須賀利町は SAKTL で

 「箱」を表わす。

 その鎮守社護神社名も祖語を同じくし

 「神の箱」でモーセの詞がその進む時唱誦された
 
 故事に相応する。

  なお、前掲「日本神々」に鳥羽市千賀町は
 
 「星ノ宮」が「三国地誌」に「星詞」

 と記されてあったと述べているが、

 同町の隣り賢子町名はヘブライ語の星を表わす

 KKhB(kakoba) の転訛とみられる。

 「星ノ宮」も静岡県焼津市小川遺跡出土の木簡にある

 「天形星皇(王)」に関係する。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 第16章  ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《志摩のダイダラボーシと天白社》

  志摩においてはダンダラボーシの説話が

 いろいろと語られている。

 地方によっては

 「デーダラボーチ」「ダイダラボーシ」ともいい、

 関東方面では大太法師と表記される。

 その根元は何処にあるのであろうか。

 「大太」は「ダイダ」で「智恵」を表わす
 
 ヘブライ語 DID(daid) がその祖語である。

 また、その背景には日本語(漢字)に「大人」と

 音写されたダビデ DYD から始まったと推測される。

 播磨国風土記託賀郡に

 「大人ありて、常に勾り行きき。

  南の海より北の海に到り、

  東より巡り行きし時、

  北の土に到りて、

  云ひしく、

  『他土に卑ければ、

   常に勾り伏して行きき、

   此の土に高ければ、

   申びて行く。

   高きかも』といひき。
   
  故、託賀の郡といふ」

 と巨人伝説を紹介している。

 播磨国は秦王国、秦氏の強盛な地方であった。

 これが志摩へ伝わって

 ダンダラボーシとなったと考える。

 「ダイダラ」は「大人」で、

 「ボーシ」はサンスクリット語の

 badhi(開悟) を祖語とし、

 仏教では菩提、日本で沐師となっている用語である。

 志摩には大王町波切初め、

 船越、和具、阿児町甲賀、安乗、鵜方、

 また鳥羽市畔蛸とその伝説がある。

 大王町名はそのダンダラボーシ名によるものである。

 だが、この巨人、波切では

 沖合の大王島に住んでいることにもなっていて、

 時々悪さをする。

 波切の村里にやって来ては娘をさらっていく、

 そこで

 「智恵のある法師(坊主)が、

  畳一枚もある大きな草鞋を作ったり、

  一間もある魚入れの籠を作ったり、

  二間途りの股引形餅入れ袋を作ったりして、

  浜辺で大王島の巨人に見せることにした。

  そうすれば
  
  巨人は自分より大きな奴がいるのだろうと思って

  波切の村里へは

  やって来なくなるだろうとの名案である。

  やってみると、

  巨人は蒼くなって逃げて行ったと伝えられている。

  地元では大王島に住んでいた巨人を

  ダンダラボーシと伝えている」が、

 実際は「智恵のある法師」が祈願した巨人こそが

 ダンダラボーシである。

 「智恵のある法師」はまさに「(口+急)々如律令」である。

 また静岡県焼津市小川遺跡から出土した木簡に記されていた

 「咄(口+天)(口+是)(口+鬼)七鬼神」は、

 このダンダラボーシを漢字で表示したものである。

 「咄」は「咄嗟」とあるように漢字の仲間であるが、

 「(口+天)(口+是)(口+鬼)」は

 大漢和辞典にも無い字体である。

 これは

 咄(ダ/デ)-(口+天)(テ)-(口+是)(ラ)-(口+鬼)(パク)

 -七(シ/チ)-鬼神と理解される。

 それが蘇民将来の子孫に関係する神なのであった。

 さらに同名から誕れたのが

 志摩に幅広く信仰されていた

 天白大明神である。

2016年1月19日火曜日

志摩のダイダラボーシと天白社➀

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 第16章  ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《志摩のダイダラボーシと天白社》

  三重県志摩郡に波切神社が鎮座し、

 そこを波切、その町を大王町という。

 この神社名はそう古くはなく江戸時代からである。

 しかし、その形容はヤハゥエ神の出エジプト記や

 ヨシュア記のヨルダン川を渡る時にみせた

 奇跡そのものを表わしている。

 阿児町立神、浜島町浜島、磯部町坂崎に

 宇気比神社が鎮座しているが、

 この神社名は「誓い」でガド族の信仰を表わしている。

 志摩地方へのイスラエルの影響を探ってみると、
 
 「日本の神々―神社と聖地」の志摩編にみられる。

 「呪字板」が決定的にそれを教示してくれる。

 それによると、

 「志摩の海女たちは海中で鮫をはじめ

  いろいろな怪異に会うため、魔除けとして、

  必ず磯手拭(てぬぐい)の眉間に当たる所に、
 
  縦に一筋紺系で印をつけ、

  その左右にドーマン・セーマン

  呪字を縫いつける」とある。

 ドーマンとは星型正多角形(五芒星)で

 焼津市の小川遺跡から出土した

 木簡にあったものと同じでる。

 セーマン

 左右・上下に四本ずつの線を交差させたものである。

 この双方を共通に絵文字として持っていたのは

 シュメル語である。

  前者は方位の意味だが、

 北極星が古代においても

 方向を読むのに重要であったので

 その描写から始まったのではないかと思われる。

 後者は「草、牧草」を表わす絵文字である。

 志摩においては個々にどのような意向、願いが

 込められていたのか明らかでない。

 但し、「呪字」として書かれている

 「(口+急)々如律令」は理解できる。

 「(口+急)」字は大漢和辞典にもない

 志摩で発想された文字である。

 その理由からこれを「急」音と解釈し

 「キュウキュウジョリツリョウ」と読む。

 語尾の「律令」は明白であるが、

 語頭の三字の理解が重要である。

 「(口+急)々」はヘブライ語の KhKhM の
 
 音写と考える。

 その意味は「智恵」である。

 サンスクリット語の gagana (天空、空、空虚)に

 対応する用語である。

 「如」字も

 波切と同じく絶妙というより妙高な用語法である。

 「如」は「ごとし」「あるがまま」であるが、

 この一字によりヤハゥエ神を表徴させているのである。

 出エジプト記の第3章でいう、」
 
 モーセに対してシナイの山頂で神がいう

 「わたしは有って有る者」また

 「わたしは有る」いった。

 その後者は「如」と考察できるからである。

 前者は「如如」と表現されることになる。

 依って呪字の字義は「智恵者の律法」で、

 ヤハウェ神の律法の威力を願ったものと考えられる。

 ヤハウェ神は水の神であるから、

 水難を受けないための呪いである。

  同書は、志摩には三棚神(ミタラサン)信仰があり、

 祝詞を著した「三棚経」は

 蘇民将来の故事などを纏めたものだという。