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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:1043~1048頁
第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰
《多摩の「律法箱」と武蔵》
東京都府中市宮町に鎮座する大国魂神社は、
主祭神を大国魂神といい、
出雲の大国主神の事として奉祭されている。
「顕国玉神と大国主神」で考察したように、
大国魂(玉)神は大己貴神に習合した
ヤハウェ神のことである。
同社は20世紀の初めまで六所神社と称されていた。
「六所」は「ムツショ」で、「牟佐」に通じ、
橿原市見瀬や静岡県見瀬と同じで、
MShY(meshe) である「絹」を表わしている。
武蔵国の古い表記「无邪志」に関係する。
MShY-SYV(絹-糸) が
「ムシャシ」にして「ムサシ」である。
武蔵国は「絹糸国」の意義であり、
SYV(糸、繊維)は
「大国魂」の「魂 dama」(糸サンスクリット語)に
対応する。
多摩川を挟んだ稲城市名は「イナカ」で
秦氏名を祖語とし、
その西隣りの多摩市は川名と同様で、
万葉集に「多麻」、
「延喜式」に「多磨、多麻」と表記され、
また川名は玉川とも表記されてきた。
これらはすべて「玉」の字義に依るもので
「繭玉」を表わしている。
「タマ」はサンスクリット語の
「糸、繊維」を表わす dāma を祖語としている。
岡山県の苫田郡名や大月氏の五詡候の一つ
「都蜜」ともなった用語である。
この地方で
秦氏による養蚕の開発が行われてたのである。
それを示しているのが多摩川の上流、
(現)あきるの市小川、
和名類聚抄に多摩郡小川郷、
訓「乎加波」と載る地域であるが、
そこに鎮座する二宮神社は
「小河大明神」と称されたように、
相生市の小河、焼津市の小川同様
ヘブライ語の KVGL(kogl)、
「玉」を原語とする地名である。
「あきる」は新編武蔵風土記に秋留郷、また
「延喜式」神名帳の武蔵国多摩郡に
阿伎留神社が載ることから阿伎留郷とも表記された。
因みに同社は二宮神社のことである。
「あきる」の出所は顕国玉神の「顕」にある。
「あきら、あきらか」の訓みに依拠した呼称である。
「延喜式」は武蔵国を「大国」と呼んでいるが、
ガド族名と近い音訓の GDVL(gadol) に依るもので、
大国玉神の名称になっていることは既に述べた。
大国魂神社の近くの片町名がガド族に依ることが
これで判明する。
あきるの市の増戸(massda)、
平井(Hebra-eヘブライ人) 、
日の出町の羽生、福生市名(hersher支配者)、
羽村市(HVN/han富、宝)
瑞穂町名(MZB祈り)と
ガド族に係わる地名が集中している。
羽村市には「五の神」があり、
「モーセ五書」を表わしている。
福生市、瑞穂町に広がる
現米軍基地名「横田」であるが、
初出が江戸期の寛文年間の史料からで
そう古い地名ではない。
この「ヨコタ」及び「横須賀」を
米軍の極東放送 AFN は
「イコタ」「イコスカ」と呼び慣らわしている。
時代も状況も大変違う状況であるが、
Isherh(+)が
ヤスキ(安来)になっていてもおかしくはない。
多摩川を遡ると青梅市となるが、
その根ヶ布地区に虎栢神社が鎮座する。
「延喜式」神名帳多摩郡に同名で載る。
訓を「トラカシワ」としている。
だが、この呼称の解釈は「トラのハク」で
「律法‐箱」である。
虎はヘブライ語の TORA である。
さらに鎮座地名根ヶ布は「ネブ」で
ガド族の故地
ギリアドの死海に近いネボ山名を移したものだろう。
モーセはこの山に埋葬された。
律法を「虎」としたことから、
それをみれば
解らないことも解明できるとの意味で使われている
「虎の巻」の起源は
『旧約聖書』にあったとみられる。
死海の西海岸近くのクムラン涸谷で発見された
『死海文書(旧約聖書)』は巻物であった。
その「巻物」を地名、神社名としているのが
根ヶ布の南方にある西分町及び西分神社である。
これは「セイフン」と訓め、
ヘブライ語の SPhR の音写である。
『モーセ五書』の正確な呼称は
セーフィル・トーラー SPhR-TORA(律法の巻物)という。
これによっても「虎栢」が
「律法箱」であることが立証される。
和名類聚抄多摩郡に「小島郷」がある。
現在の調布市布田に隣りする小島が
その遺称とみられているが、
この小島も砥神嶋によるものと考える。
虎栢神社とよく似た「延喜式」神名帳にも載る
虎狛神社が同市佐須町に鎮座する。
調布は、そこにこれも神名帳に記載されている
布田の元になっている布多天神社が鎮座するように、
この地域でインド系の人々が綿花の栽培を行い、
木綿を紡いでいた所である。
「布田」は「秦(はた)」と同祖語の
サンスクリット語 paṭṭa で
「板のように薄いもの」の意味で、
ここでは「木綿布」で「調布」の字義に相応する。
そこに鎮座する虎狛神社も
「律法箱」名である可能性がある。
史料には、
ここが狛江氏の本拠であったとこともあり、
混同されて使用されているが、
町内に祇園寺があり、
武蔵三国図絵には当寺を「虎栢山」と称したとある。
現在は真言宗の寺院になっているが、
「祇園」は京都市東山区の同名地と同じく
「ギオン」でヘブライ語の GPN に係わり、
これは、「綿、木綿」の本義ながら綿布を表わす。
京都の祇園に鎮座する八坂神社の
奉祭氏子の中心的な人々は絹商人たちであった。
そこからわずかに離れた所に
「虎ヶ島」の高塚があることを
「図絵」は記載している。
「虎ヶ島」は安来市の砥神嶋のことであり、
「トラ島」は「律法島」で、
現在の十神山を指している。
小島郷はその「虎島(小島)」に対応する呼称である。
『日本書紀』の安閑天皇の時に武蔵国造の地位を
笠原直使主と争ったという小杵(おぎ)は
この多摩郡地域の首領であっただろう。
小杵が「コギ」で kogl「玉」を意味するからである。
結局のところ敗北し殺されるのだが、
彼は上毛野君小熊に援助を求めた。
そこ(群馬県)に同族に連なる者たちがいたのである。
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