2015年4月10日金曜日

諏訪大社の「御頭」②

 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ※Matのジオログ

 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:877~879頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 諏訪大社の「御頭」②

 諏訪神社の神職は「風の祝」と宣伝されたように祝の官として

 よく知られた。

 「ハフリ」ないし「ホフリ」は

 メソポタミアを起源とする祭官であった。

 その旧石器時代のムレイビト遺跡や新石器時代のケルメで、

 デレ遺跡、ネムリク遺跡に牛頭(牡牛の角)を掲げた

 痕跡が残っており、アナトリアのチャタル・フユク遺跡からは

 大量の牛頭の像型が発見された。

 それらを基盤として牛頭(牛角)が

 シュメルなどのメソポタミアのペルシャ湾岸に近い文明

 (エリドゥなど)に影響を与えたばかりでなく、

 ヨーロッパへも波及し、クレタ、ケルト、ゲルマンの祖語

 (シュメル語で galam-am:野牡牛の階段<角>)であるとの

 考察を本書は展開した。

 「ハフリ」はメソポタミアから東方へも伝授され、

 インドのバラモン教の祝祭に重要な役割を負ってり、

 ヴァーダ(教典)の初期の支配的最高神インドラ神は「牡牛」である。

 そして日本においても、

 古代に牛祝祭が盛んに行われていた事実あり、

 保食神や登由宇気神の「ウケ」はサンスクリット語の転訛による

 牡牛がその語源で

 「神饌」にその意味が転換されていることを紹介した。

  奈良時代末から平安時代のかけ牛馬を屠殺する祝祭は

 時の政府により禁止された様子も紹介したが、

 諏訪大社は牛を鹿に換えてその祝祭(御射山祭)の

 伝統を守っていたのである。

 洩矢神を祖神として奉祭する守矢氏の家紋は

 「丸に十字㊉」でシュメルでは羊にその初源を持つが
 
 「牧者」を意味する象形で文字で、楔形文字としても使われ、

 メソポタミアからの伝統を継承したものと考えられる。

 同社には後に述べるように「ミナ」に絡む

 メソポタミアの影がある。
 
 洩矢神の表徴であるミシャクジ神は、御社宮司などと表記されるが、

 その祖語はサンスクリット語のシャクティ śakti で

 シヴァ神の女性的側面を表わす用語である。

 その表れが神妃デーヴィである。

 ミシャクジ神は立石と立木で祀られている事例が多いが、

 これは『古事記』に語られる大山津見神(シヴァ神)の姫神である

 磐之比売命と木花咲耶比売命との対に相応し、

 リンガ(陽石)とシャクティを表わしているのである。

 シャクティ神信仰は信濃まで伊勢など

 南方太平洋側から入って来たものである。

 社宮司などその信仰の分布が

 長野県南部から東海地方に集中していることがその理由となる。

 シヴァ神の美称の一つにパシュパティ paśupati があり、

 「家畜の主」の意味である。

 実際は人間を家畜とみて人を導く神の意義ではあるが、

 獣類の王としての象徴でもある。

 なぜならば、シヴァ神の祖像をインダス文明の印章にみられる

 牛頭の神に習合させた見方があるからで、

 シヴァ像とは牛角がその額に刻まれていることが多い。

 いずれにしても「牧者」である。

 シヴァ神はヴェーダ時代のインドラ神(牡牛)に

 遅れてヒンドゥ教の最高神の一に上がった支配的神であった。

 「モリヤ」は「森の獣」を表わし信濃の南から入ってきた。

 これに対し、

 諏訪大社の現在の主祭神建御名方神は信濃の北方かr

 入って来た神である。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年4月9日木曜日

諏訪大社の「御頭」①

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ※Matのジオログ

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:875・876頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 諏訪大社の「御頭」①

  第12章では「三輪氏」をなぜ「神氏」と表記するのか

 触れなかったが、その理由が本章で明らかになる。

 また大国主命の別称にある八千矛神あるいは葦原志許男神に

 ついての解釈をここで行う。

 さらにメソポタミアを起源とする祭官「祝」と祝祭に欠かせない
 
 牡牛が鹿になっている。

 その経緯を推察し、諏訪神の性格と出雲との関係を明らかにする。

  諏訪大社上社の祭事のうち、最も重要な行事は

 例年4月15日に行われる御頭祭である。

 同祭は上社前宮の吹き通しの建物十間廊で開催されるが、

 その最大の特徴は鹿頭が神饌と共に供えられることである。

 江戸時代の紀行家菅江真澄の「すわのうみ」には、

 75の鹿頭がそこには供犠されていたと書かれている。

 それらを俎上に載せて供えるのが古式であったという。

 同社の祖神である漏矢神社第12でも触れたが「鹿」を表わす。

 サンスクリット語の mṛja がその祖語で、

 「森を歩き回る」を意味し、その同類語 mṛga は「森の獣」で

 特に「鹿」を表わす。

 長野県」の諏訪郡に接する伊那郡名は ena(enea) の音写で

 同じく「鹿」の意味である。

 日本武尊の東征の際、神奈川県の足柄辺りや信濃で白鹿を

 退治したとの物語が語られているが、

 これらは東国の古代にあった鹿に対する信仰者の集団の象徴で、

 洩矢神の影響があった人々と考えることができる。

  御頭祭には「諏訪大明神画詞」が

 「禽獣ノ高モリ魚類ノ調味、美ヲ尽ス」と述べて「おり、

 鹿頭のほか、江戸時代の史料によれば、

 猪頭のほか、鶴・雁の頭、鯉などの水産物が供えられたが、

 特に鹿肉も大量に供犠された。

 同社には「鹿食免」御幣や「鹿食箸」があり鹿との係わりが深い。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年4月5日日曜日

男王卑弥弓呼と孝霊天皇④

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 《参考:年表・資料》

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:872・873・874頁

 第十三章 「倭人伝」 
 
 男王卑弥弓呼と孝霊天皇④

  倭人伝には

 「倭の女王卑弥呼は

  もとから狗奴国の男王卑弥弓呼と不和であったので、

  倭の戴斯烏越らを遣わして〔帯方〕郡に行かせ、

  戦っている様子を報告した」とあり、

 卑弥呼と戦争状態のあったことを示す。

 『古事記』の孝霊天皇の条には

 「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、

  二柱相副ひて針間の氷河の前に忌瓮を居えて、

  針間を道の口と爲て吉備を言向け和したまひき」

 とあるように配下を西方へ派遣し

 勢力を拡大している様子がみられ、

 これは卑弥呼との戦争を内容とする記録と考えられる。

 第12章「大国主神の奉祭氏族(1)磯城氏」でみた様に

 前者は「吉備上つ道臣の祖」で、

 後者は「吉備下つ道臣、笠臣の祖」となった。

 このほか日子寝間命が「針間の牛鹿臣の祖」、

 日子刺肩別命が

 「高志の利波臣、豊国の国前臣、五百原君、角鹿の海直の祖」とあり、

 豊国の国前臣と九州へもその勢力が及んだ様子を窺わせており、

 九州を勢力圏とする卑弥呼の邪馬臺国と対峙する状況が

 見え隠れする。
 
 大吉備津日子命の別称を

 比古伊勢理毘古命(『日本書紀』五十狭芹彦命)という。

 「伊佐」は isa で「支配者」、

 「勢理」は saila で、

 須勢理毘売命と同じく「繭」をいう。

 伊佐勢理 isa-saila は「繭の支配者」となる。

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

      「絹と地名分布」で

 吉備を kṛni の指摘するが、事実吉備国が

 絹糸の産地であると共に鉄の生産地でもあり、

 「長船」のような刀鍛冶の地でもあった。

 大吉備津日子命の二つの名称はそれを表わしている。

 kvath, kṛni はその訓音が近似しており、

 双方が融合して「キビ」 となったと考えられる。

  孝霊天皇の御陵は「片岡の馬坂の上」とあり、

 現在の北葛城郡王子町本町にある。

 同天皇の活動の本拠が

 大和盆地の北西地域でにあったことを示す。

 卑弥弓呼、孝霊天皇の時代は倭人伝の記すとおり、

 5世紀中葉(正始8年、247年)であり、

 まだ大古墳が造られ以前である。

 第9代開化天皇の御陵まで各天皇の御陵に記されている墳丘は

 いずれも前方後円墳ではない。

 箸塚を卑弥呼の大塚とするのは不自然なことである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
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