2015年10月31日土曜日

播磨の「神の箱」信仰


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:964~975頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 《播磨の「神の箱」信仰》

   播磨国風土記神前郡に

 「的部里、石坐神山、高野山神社」とある。

 的部は「イクハベ」と読むが、

 「イクハ」は YKB でヤコブのことだと述べた。
 
 石坐神山については、それに続いて

 「北の山、石を載く。又豊穂命の神存す。」とある。

 山名は「伊和神の坐す神山」の意味である。

 同山名は現在の山名にはないが、

 日本古典文学大系は神崎郡香寺町の奥須賀院の山とし、

 石蔵山万福寺名を遺跡として紹介している。

 その比定山を何処にするかは重要であるが、

 須加院川を遡及し、

 さらに奥まった今や道らしい道も無しまった333メートルの
 
 棚原山とするのが最も有望である。

 奥須加院には「延喜式」神名帳の神崎郡に載る

 田川神社が鎮座するが、

 同社には石坐神山の山上には神社跡があり、
 
 同社の元宮であったとの伝承がある。

 神名帳は「田川」を「タカハ」と訓じているが、
 
 豊穂命の名称から「田河」で

 「タカ(ハ)」「トホ」であったとみられ、

 ヘブライ語の「祈り」を表わす TFLH(tfile) が祖語と考える。

 須加院は一宮町の伊和神社が鎮座する地名須行名と同祖とみられ、

 これは「天幕、幕屋」をあらわす。

 ヘブライ語のSK(suka) あるいは SKhN(sxina) がその祖語で、
 
 ギリシャ語に σκηνη、

 ラテン語にもscēnī となっている用語で、

 出エジプト記第26章に

 「あなたはまた十枚の幕をもって

  幕屋を造らなければならない」で
 
 始まって詳しくその造成方法を指示規定している
 
 「契約の箱」あるいは「あかしの箱」を安置する天幕である。

 そして第27章では

 これを「会見の幕屋」と言っている。

 イスラエル人と神とが会うための天幕である。

 伊和神社は「会見の幕屋」として建てられたのである。

 豊穂命は宇智賀久牟豊富(うちかくむとほ)命ともみえ、

 香寺町に接する姫路市豊富町の地名に遺るが、

 この神名の本義は「ユダの秘密の祈り」である。

 「宇智」は後に述べる「宇都」と同じであり、

 「賀久牟」はヘブライ語の「秘密の」 GIHYM(geheym)、

 そして TFLH である。
 
 これから類例は増えるが、

 ヘブライ語の LH、TH は無音化する場合が多い。
 
 香寺町の岩部はすでに紹介したが、

 現在大歳神社の摂社となっている岩部神社には

 「洪水の際決壊した堤防を体を以って支えた大蛇に

  村人が神酒を奉げた故事に倣い神酒樽を
 
  二人で担いで同社に奉納し、
 
  平穏無事と豊作を祈る樽舁(たるかき)神事」がある。

 この「樽」は「タル」で

 律法を表わす TORH に依ると考えられる。

 また風土記に載る高野神社は田野に現在も鎮座するが、

 ヘブライ語の旧約聖書を表わす TNKh の音写である。

 香良に鎮座する一原神社は

 gade つまり「ガドの人」を祖語とする。

 土師地区名は「ハゼ」と言うが、

 これは HIRSIR(hersher) が原語で「支配者」を意味する。

  石坐神山の比定山を棚原山と述べたが、

 この山は香寺町恒屋の櫃蔵神社に関係する。

 両社は棚原明神を祀るのに係わりがある。

 「棚原」は「旧約聖書」 TNKh の転訛である。

 神社名は現在「ヒツクラ」と称されているが、

 「櫃」は箱の一種で霊櫃車と言われるように

 「柩」字と同音扱いされており、「キュウ」だが、

 これが「シュ」とも古代には発声されており、
 
 「櫃倉(蔵)」は SAKTL つまり「箱」の意味で、
 
 これらの内容から同社は「旧約聖書の箱」、

 つまり「神の箱」を信奉した名称である。

 夢前町の古知之庄の「コチ」は

 同じく「箱」を表わす KISTL(kestl) の音写で、

 ドイツ語の Kasten である。

 恒屋(つねや)の原語は「ツネオ」で TNKh であろう。

 このように香寺町の周辺はガド族の特徴

 「神の箱」信仰を表わす地名が多く、

 棚原が霊地であったと考えられるのである。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月21日水曜日

旧約聖書のガド族③


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:964~975頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 《旧約聖書のガド族》

  この記述は極めて重要なので少々長いが転載した。

 その要点は、ガド族等は燔祭、素祭など犠牲を献げる。

 つまり祝祭のための祭壇を築いたのではないと言っている。

 祝祭のための祭壇はエルサレムの祭壇を

 ただ一つしか許されるものではなく、

 それをアルター ALTAR という。
 
 これに対し、ガド族等が築いたものは祝祭を行わない祭壇で、

 MZBK(mizbeykhe)という。
 
 そして、その祭壇ではヨシュアに言われたように

 「戒め」 MZB(mizbhe 戒律、祈り) と

 「律法」 TORH(tore 告示)を「慎んで行う」ためのものである。

 そして、

 ルベンの子孫、ガドの子孫及びマナセの半部族との間の

 また、それぞれの子孫の間においてもそれが証拠となるよう

 祭壇の型を同じくしないで証拠としたという。

 この証拠の意味は誓約である。

 このような説明により、

 イスラエルの人々は攻め上がるのを止めることとした。

 第23章の終わりで言う。
  
 「そして、イスラエルの人々は神々を褒めたたえ、

  ルベンの子孫、及びガドの子孫の住んでいる国を

  滅ぼすために攻め上がろうとは、もはや言わなかった。
 
  ルベンの子孫とガドの子孫は、

  その祭壇を「あかし」と名付けて言った。

  「これは、我々の間にあって、主が神にいます」

  というあかしをするものである。」(33、34)

  この「あかし」のヘブライ語は IDVT(ed) である。

 英訳本聖書が witness 証人(音が似ている)と訳しているように

 「証拠、あかし」であることに本義は間違いない。

 だが、この用語はドイツ語の Eid 、英語の oath であり、

 「宣誓、誓約」を意味し、特に「神にかける誓い」を表わす。

 「宣誓」とは大きな声で述べること、つまり「叫び」である。

 ガドの出生に当たってその名前がシュメル語の ga-du(叫ぶ)に

 係わる用語であることを説明したのは

  この事件に連なるからである。

 また ed の E は原カナアン絵文字で「叫ぶ人」であるといい、

  hô と訓んだとの説もあり、フェニキア文字、ギリシャ文字を経て

 現在の字形 E になったものである。

 「叫ぶ人」は単に大きな声を出している人のことではなく、

 シュメル語から継承された「神を讃える」 ār に係わると考える。

 ガド族の祭壇は IDVT(ed) と呼ばれる

 「宣誓、誓い」、「あかし」である。

  IDVT は民数記第9章15にも

 「あかしの幕屋」 AHL-HIDVH として用いられており、

 神とイスラエル人との間の「契約」を表わす用語でもある。

 IDVT は IDYVT(idiut) とも表記される。

 創世記第21章31の

 「彼らがそこで誓いをしたからである」とある。

 「誓い」をアメリカ聖書協会の古い版では oath としている。

  祝祭を行わないガド族の祭壇には、

 律法・トーラー・TORH を納める「神の契約の箱」のみが

 安置されることとなったのである。

 この箱は旧約聖書において

 「神の箱」「契約の箱」「あかしの箱」などと呼ばれる。

 1948年に死海の北西部のクムランから

 旧約聖書のヘブライ語版が発見され、

 死海文書(写本)として知られている。

 学問的にその発見地の名称からワディ・クムラン文書という。

 これは羊皮紙に書写されたもので巻物となっていた。

 これらの巻物の年代は

 紀元前3世紀の中葉から紀元前2世紀末以降、

 幅広くみて紀元前後2世紀に属するとされている。

 ガド族がアッシリアのシャルマネセル5世により

 メディアの周辺へ捕囚されたのは

 紀元前7世紀のことであったから、

 その間に4、5百年の隔たりがあるので確定的な推測はできないが、

 ガド族の祭壇に納められていたのは死海文書と同様

 羊皮紙に書かれた巻物の「律法」であったと思われる。

 あるいは

 クムラン文書中にもある銅版に印刻したものだったのだろうか。

  捕囚以前にはモーセ五書といわれる

 創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記や

 その他の『記・紀』も成立していたので、

 祭壇の「神の箱」には、

 これらの聖書も納められていたと推測される。

 またヨシュアが「戒めと律法」と言っているので、

 「十戒」を刻んだ石板(神がモーセに授与した石板の複製)も

 納められた可能性がある。

 旧約聖書を総称してヘブライ語では TNKh という。

 また、

 箱を意味するヘブライ語は

 KFSH、SAKTL、KISTL、ARNがある。

 祭壇を安置する所は寺院ないし神社であるが、

 ユダヤ教の場合、神との会見の場で会堂あるいは公会堂、
 
 また、教会という。

 これを BYD-KNSD と言う。

 これまで「神社」と祖語を同じくすると述べてきた

 シナゴーグはギリシャ語名である。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月20日火曜日

旧約聖書のガド族②


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:964~975頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 《旧約聖書のガド族》

 第22章は言う。

 「ヨシュアは、ルベン人(びと)、ガド人(びと)、

  及びマナセの部族の半ばを呼び集めて、言った。

  『それで、貴方がたは身を返して、

   主の僕(しもべ)モーセが貴方がたに与えた

   ヨルダンの向こう側の所有の地に行き、
 
   自分達の天幕に帰りなさい。
 
   ただ、主の僕(しもべ)モーセが貴方がたに命じた

   戒めと律法とを慎んで行い、貴方がたの神、主を愛し、

   その全ての道に歩み、その命令を守って、

   主に付き従い、心を尽くし、精神を尽くして

   主に仕えなさい。』」(4、5)

  そして、彼等はその所有地への帰途

 ヨルダン川に至って一つの祭壇を築く。
 
 これに対し残りのイスラエルの部族はその行為に疑念を持ち、
 
 同所を攻めようとする。

 第22章はイスラエルの各部族から出た10名の使いが彼らに言う。
 
 その全会衆はこう言います。

 『貴方がたがイスラエルの神に向かって、

  咎を犯し、今日、翻って主に従うことを止め、
 
  自分のために一つの祭壇を築いて、

  今日、主に背こうとするのは何事か。』(16)

 これに対し、ガドの子孫らは次のように述べる。

  「我々が祭壇を築いたことが、

   もし主に従うことを止めるためであり、

   またその上に、燔祭、素祭を献げるためであり、

   あるいはまたその上に、

   酬恩祭の犠牲を献げるためであったならば、

   主自ら、その罪を問いただして下さい。

   しかし、我々は次のことを考えてしたのです。

   すなわち、後の日になって、
 
   貴方がたの子孫が我々の子孫に向かって

   言うことがあるかもしれません。

   『貴方がたはイスラエルの神、主と、
 
    何の関係があるのですか。

    ルベンの子孫、ガドの子孫よ、

    主は貴方がたと我々の間に、ヨルダンを境とされました。
  
    貴方がたは主の民の特権がありません。』

  こう言って、貴方がたの子孫が、我々の子孫に、

  主を拝むことを止めさせるかもしれないので、

  我々は言いました。

  『さあ、我々は一つの祭壇を築こう。
   
   燔祭のためではなく、また犠牲のためではなく、

   ただ貴方がたと我々の間、及び酬恩祭をもって、

   主の前で主に司(つとめ)をするためである。』

  こうすれば、後の日になって、貴方の子孫が我々の子孫に、
  
  『貴方がたは主の民の特権がありません』

  と言わないであろう。

  また我々は言いました。

  「後の日に、我々、また我々の子孫が

   もしそのようなことを言われるならば、

   その時、我々は言おう。

   『我々の先祖の造った祭壇の型をご覧なさい。

    これは燔祭のためでもなく、

    貴方がたと我々との間の証拠である。』

  主に背き、翻って今日、主に従うことを止めて、

  我々の神、主の幕屋の前にある祭壇の他に、

  燔祭、素祭、また犠牲を献げるための祭壇を築くようなことは

  決していたしません。」(23-29)

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月17日土曜日

旧約聖書のガド族①


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:964~975頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 《旧約聖書のガド族》

  弓月君の系譜の秦氏はガド族と考えられると述べたが、

 そのガド族とはどのような氏族だろうか。
 
 ガド:Gad はヤコブの7番目の息子の名前に始まる。

 ヤコブは妻レアとの間に

 ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリの

 息子6人を儲ける。
 
 そして次にヤコブの子として生まれるのがガドである。

 創世記第30章は次のように記述する。

 「さて、レアは自分が子を産むことを病んだのを見るとき、

  仕え目のジルバを取り、妻としてヤコブに子を生んだ。

  そこでレアは、

  「幸運が来た」と言って名をガドと名付けた。」

 ジルバはガドの弟アセルも生んだ。

 その後ヤコブにはイッサカル、セブルン、デナ、ヨセフができ、

 これら12人の息子が支族を形成することになる。

  ガドが生まれた時に

 この日本語訳では「幸運が来た」とされている。

 その原語はが gad なのである。

 その本義について「幸運」としたのは

 ヘブライ語の GDLH(gdule) に依ったと考えたからである。

 「幸運」あるいは「偉大」を表わす用語である。
 
  また英語版には guard と考え「軍隊」とした解釈もある。

 英語本、日本語本が、「幸運が来た」と「言った」と

 表記している部分は「叫んだ」と考慮しておく必要がある。

 「叫ぶ」は「大きな声で言う」ことを意味する。

 シュメル語の「叫ぶ」に gu-de があり、gad に似ている。

の契約の箱を12の支族から一人ずつ選ばれた12人の祭司達が

 担ぐのを先頭にヨルダン川を渡りカナンの約束の地に入ることとなった。

 この時もモーセの出エジプト時と同じように

  時代は下ってモーセの後継者ヨシュアの時代、

 エジプトを脱出したイスラエルの人々は死海の東岸地方にいたが、

 神の契約の箱を12の支族から一人ずつ選ばれた12人の祭司達が

 担ぐのを先頭にヨルダン川を渡りカナンの約束の地に入ることとなった。

 この時もモーセの出エジプト時と同じように

 ヤハウェ神はヨルダン川の水を止め陸としイスラエルの人々を渡した。

 ヨシュア記第3章は述べる。

 「上から流れ下る水は留まって、

  遥か遠くのザレタンの傍らに在る町アダム辺りで、

  うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方に

  流れ下る水は全くせき止められたので、
  
  民はエリコに向かって渡った。

  全てのイスラエルが乾いた地を渡って行く間、
  
  主の契約の箱をかく祭司達は
  
  ヨルダンの中の乾いた地に立っていた。

  そして終に民は皆ヨルダン川を渡り終わった。」

 この時ガド族は「神の箱」を守って進軍した。

 第4章は記述する。

 「ルベンの子孫とガドの子孫及びマナセの部族半ばは、
  
  モーセが彼らに命じていたように武装して、
  
  イスラエルの人々に先立ち渡り、

  戦いのために武装したおおよそ4万の者が戦うため、

  主の前に渡って、エリコの平野に着いた。」

 ガドの出生の際にその名前を「軍隊」と判断したのは、

 この勇壮さを考慮したためであろう。

 多くのイスラエルの人々はヨルダン川を渡った。

 そこで国土に部族毎に分かれて住むこととなったが、

 ガド族はヨルダン川東岸以東が与えられていた。

 ヨシュア記第13章は

 「マナセの他の半部族と共に、ルベン人と、ガド人とは、

  ヨルダンの向う側、東の方で、

  その嗣業をモーセから受けた」(8)

 「モーセはまたガドの部族、ガドの子孫にも、

  その家族に従って、嗣業を与えたが、

  その領域はヤゼル、ギレアデの全ての町々、
  
  アンモン人の地の半ばで、ラバの東アロエルまでの地。

  ヘシボンからラマテ・ミツバまでの地。

  谷の中ではベテハラム、ベテニムラ、スコラ、

  及びザポンなど、ヘンボンの王シホンの国の残りの部分、

  ヨルダンを境として、ヨルダンの東側、

  キンネレテの湖の端までの地。

  これはガド人が、その家族に従って獲た嗣業であって、

  その町々と村々とを含む。」(24-28)

 現在のヨルダン国の死海とゲネザレ湖の間の

 ヨルダン川の東に広く居住したのであった。

 しかし、アンモン市の周辺は含んでいなかった。

 このうち死海の北端辺りから北はソロモンの時

 ギレアド Gelied と呼ばれ、その南方をガドと呼んだ。


 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月14日水曜日

伊和神③


創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:964~975頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 絹と地名分布③

  それらの町の南は赤穂郡上郡町となる。

 同町八保に八保神社が鎮座するが、

 同神社名もヘブライ語の「月」表わすを YRKh(yarh) の音写である。

 町名の元となっている高嶺神社が山野里に二社鎮座する。

 この町名、神社名の「コウリ」はヘブライ語の「波、洪水」を意味する

 KVVALAYE(khavalye) に依拠し、「コウレイ」「カワラ」でもある。

 ヤハウェ神は水の神で堤防を築く神である。

 神崎郡に香寺町があるが、香呂村と中寺村が合併した町で、

 香呂が同じ祖語を持つ。

 香呂では洪水に悩まされた記録がある。

 町内の岩部は風土記に的部(いくはべ)里があり、

 その遺称地と考えられている。

 「イクハ」は YIKB であっただろう。
 
 江戸期の「いゆわべ」の道標も残されており、

 伊和神名であることをうかがわせている。
 
 さらに北上した氷上町には香良地区があり、

 加和良神社が鎮座している。

 この「カワラ」は「瓦」とも表記され、
 
 すでに述べた尼崎市の伊佐具神社の鎮座する

 上坂部の東北側の瓦宮の名称となっている。

 藻川の管理に苦心した所であろう。

 上郡町には大避神社(上郡など三か所)、大酒神社(大枝新)が鎮座し、
 
 また「族長」を表わす MSYA(musi) 名の野桑神社(野桑)が鎮座する。

  一宮町の伊和神社の神職は阿保氏といった。

 この「アボ」を「牛頭」と解釈するのが最適と考える。
 
 つまりアラム語の「牛頭」を表わす alp で、

 ウガリッド語、ギリシャ語、ラテン語になって

  "A" となった文字の呼称でもある。

 ヘブライ語では「父」を表わす AB(aba) もあるが、
 
 「父」はヤハウェ神自身を指し、

 氏族名とするにはやはりおこがましいであろう。

 父 AB は新約聖書になるとより鮮明となる。

 例えば「マルコによる福音書」第14章36では
 
 「父よ」といって呼びかけるが、これが abba! と表記されている。

 この阿保氏と同じ名称を持つのが風土記飾磨郡に

 「阿保里」と載る姫路市阿保である。

 阿保氏とは弓月君のクルジャ(牛角)と同義で秦氏の別称である。

  風土記に同じく載る英賀里はサンスクリット語の

 agha/agua で「水」名である。

 姫路市飾磨区の英賀がその地で英賀神社も鎮座する。

 「伊和大神の御子、阿賀比古、阿賀比売二柱の神」

 は秦氏の一族の名であろう。

 赤穂市坂越の大避神社の地方から、

 鎌倉時代になって寺田氏、飽間氏が現れるが、
 
 寺田は ZYYD で「絹」名であり、

 「アクマ」は

  ギリシャ語で akve 、

  ドイツ語で Aguā 、

  セム語(アラム語)で aquba

 となる「水」に由来する。
 
 エジプトのシナイ半島とアラビアとの間のアカバ湾名となっている。

 また前述したサンスクリット語の aqha/aqua も同祖語である。

 赤穂市名はこれらの「水」名に由来する。

 上郡町の赤松を本拠とした赤松氏も

 これらの「水」に係わる氏族名であろう。

 風土記の飾磨郡に因達里が載る。

 息長帯比売命の「韓国を平(ことむ)けむ」とする伝承と共に

 「伊太代(いだて)」の訓を風土記は記している。

 和名類聚抄にも「伊達郷」を「以太知」の訓で載せている。

 ここの「インダ」はヘブライ語の AYND(ind) の音写で

 「波、洪水」を表わす用語に依るものと考えられる。
 
 ただし、

 「インダツ」「イダテ」となっている理由は他にあり後述する。

  次に揖保郡名について考える。

 揖保川は一宮町の北辺から流れ出し、

 伊和神社の西側を流れ、
 
 御津町東境を瀬戸内海へ入る。

 御津町の碇岩にも

 神名帳の伊和都比売神社に比定される

 伊和神社が鎮座しているが、

 そこが河口である。

 「揖保」の訓について日本古典文学大系は

 「いひぼ」と読ませている。

 和名類聚抄の郡名には「伊比保」、
 
 また「伊比奉」とする版本もある。

 「揖」は大漢和辞典によると「イフ」であり、

 「イフボ」あるいは「イフボウ」となり、

 これは明らか YHWH の表音に類似する。」
 
 実際はヘブライ語の「言う、述べる」の

 IVH の三人称現在形変化の YHVH の音写で

 「そは言明する」
 
 伊和神はヤハウェ神にして、

 播磨はイスラエル人の里郷である。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ
 

 

2015年10月13日火曜日

伊和神②


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 ≪伊和神②≫

  「延喜式」神名帳に載る伊和坐大名持御魂神社は

 現在に宍粟郡一宮町須行名に鎮座する伊和神社に該当する。

 「宍粟郡」は風土記の「宍禾郡」から転移したものである。

 この郡名の由来について風土記は

 「宍禾と號くる所以は、伊和の大神、

  国作り堅め了へまして後、山川谷尾を堺ひに、

  巡り行でましし時、大きな鹿、己が舌を出して、

  矢田の村に遇へりき。

  爾に、刺(の)りたまひしく、

  『矢は彼の舌にのりたまひき。』、

  故、宍禾の郡と號け、村の名を矢田の村と號く」

 との挿話を記している。

 しかし、その理由は別に隠されている。

 ただ、ここで確認できることは「絹と地名分布」で

 京都市亀岡市の「矢田」を「シタ」であると述べたが、

 ここの矢田が「舌(した)」であることを示しており参考となる。

 郡名について考察すると、
 
 「宍」は本来「肉」の意味で「シシ」と読まれるが、

 島根県宍道湖の例のように
 
 「シン」ないし「シニ」とも読まれている。

 「禾」は「茎にまだある穀類」を

 「粟」は「殻にまだある穀類」をいう。

 「宍禾」は「シネカ」、

 「宍粟」は「シシアワ」から「シサワ」となる。

 「シネカ」は第11章の「稲荷:黄金山信仰」で

 解釈したように「イネカ・稲荷あるいは稲架」であり、

 風土記の宍禾郡に載る伊奈加川の名称となる。

 その川名の説明では「いななく馬」があったからとしているが、

 これは「秦」を表わしたものである。

 「伊奈加」をもっと短絡的に考えると

 ヘブライ語の「巨大、大人、巨人」を表わす。

 INK の音写ともみられる。

 「大」はガド族名に係わる。

 また「志摩のダンダラボーシと天白社」で詳説するように

 「大人」伝説に結びつく。

 播磨国風土記の

 託賀(たか)郡の地名由来に登場する「大人」である。
 
 つまり宍粟と秦を崩した名称と考える。

 ここは秦氏の勢力が固めた地方なのである。

 秦氏との関係では

 すでに赤穂市坂越町にある大避神社を紹介したが、

 播磨国のこの地域に現在30社からなる同名社が鎮座している。

 同社の由緒について

 「播磨鑑」による伝承では皇極2年(643年)

 秦河勝が蘇我入鹿の難を避けるため難波を船出して逃れ

 生島に辿り着いたので、

 坂越浦の里人は新殿を建てて奉仕したという。

 秦河勝は京都府太秦の大酒神社(広隆寺)の建造などに

 活躍した聖徳太子の寵臣であった。

 その時代は7世紀の中頃である。

 弓月君が百済から渡来したのが応神天皇の時、

 秦造酒が太秦に秦氏の一族を結集し、

 また養蚕業の振興に乗り出すこととなったのは

 雄略天皇の時である。

 それらの歴史を考慮すると、

 秦河勝が坂越に逃れて来たのは

 ここにすでに同族の勢力が

 確固とした地盤を築いていたからと考えられる。

  伊奈加川は一宮町の南山崎町の菅理川に比定されている。

 この川は西方から流れ揖保川に合流するが、

 同様に北西から流れてくる川に伊沢川がある。

 これは風土記の都太川で、

 「トブト」でダビデ DVD の訛ったものらしい。

 というのも、

 その川の北には伊加麻川が風土記に載っているが、

 これはヤコブ YIKB の訛である。

 それらの北に位置するのが

 伊和神社の鎮座する石作里であった。

 この里名はイサク YTsHK の音写である。

 石作里について風土記は「本の名は伊和なり」と記している。

 風土記が同郡にあるという伊和村は

 この伊作里内の村とされている。

 風土記飾磨郡のうちにある伊和里は

 風土記に前記のごとく述べており、

 この一宮町の石作里からその族が移ったと言っている。

 現在の姫路市の西南部に当たり、
 
 和名類聚抄には「伊和郷」、

 近世まで岩郷と表記されていた。

 貽和里名も「伊和」である。

  『出エジプト記』で
 
 モーセがヤハウェ神から授かった律法、

 いわゆる「十戒」のうちには、その第三に

 「あなたは、あなたの神、

  主の名をみだりに唱えてはならない」との掟がある。

 そのため、ヤハウェ神の別称として作られ、

 一般に通称されている YH(yeh) が「伊和」の祖語である。
 
 ここは明らかにイスラエル人の里郷なのである。

 宍粟郡の南は現在揖保郡である。

 そこに新宮町があるが、

 この「新宮」は「三日月神の宮」の意味がある。

 町内に市野保があるが、これは「シン」に同じで、

 秦の祖語アブラ(ハ)ムが

 メソポタミアのカルディアのウルで信仰していた

 アッカド語の三日月神 SIN を表わした町名である。

 町内の能地はヘブライ語の「統領あるいは総裁」、

 多分族長を表わす NSYA(nosi) を、

 芝田(こげた)の「コゲ」は「玉」の KHGL(kvgl) に依るもので、

 実際は秦氏の養蚕に係わる繭玉の意である。

 新宮町の北東の宍粟郡安富町は

 安師村と富栖村が合併した町名だが、安師里は風土記にも載り、

 和名類聚抄に「安志郷」、訓を「アナシ」としている。

 またの呼称は「アンジ」である。

 この表音はアッカド語に由来し、同じく「三日月神」を表わす。

 Sin はアッカード語において en-zi(神-月)から

 en-si、si-en と変化したもので、

 en-zi(アンジ)、en-si(アンシ)の音写となっているのである。

 播磨にも神崎郡香寺町に

 矢田部や吉備津神社(中寺)などがあるように

 ヤーダヴァ族の影響があったことは間違いなく、

 メソポタミアを祖地とする氏族が考えられ、

 アッカド語の存在は不思議ではない。

 新宮町の西側は佐用郡三日月町である。

 新宮町の西側には風土記に載る栗栖里があった。

 和名類聚抄に栗栖郷とあり、訓を「久流須」としている。

 現在そこに栗町、また角亀、角の鼻があることから

 この祖語が kulja であることが解る。

 角ではあるが、三日月を表わす用語である。

 その西方には上月町もあり、

 ここが月神信仰の地であることを示している。
 
 「新」は「秦」にして Sin である。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月11日日曜日

伊和神①


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:964~964頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 ≪伊和神≫

   「延喜式」神名帳の播磨国宍粟郡に

 「伊和坐大名持御魂神社名神大」が記載されている。

 また明石郡及び赤穂郡に伊和都比売神社が載る。

 この「伊和」は播磨国特有な神社名である。

 また播磨国風土記には伊和大神が数多く登場し、
 
 その広がりが顕著である。

  伊和とは何を示しているのか。

 神名帳の神社名からすると

 大己貴神をいっているようである。

 だが、第12章大国主神と大物主神などで追及した

 同神には伊和神の影はうかがえなかった。

 伊和大神とはユダヤ教の父神ヤハウェ神である。

 本節から伊和神がヤハウェ神であることを実証する。

 まず、播磨国風土記にみられる伊和大神及び

 伊和名の様子を纏めてみる。

 〇飾磨郡

  (1)英賀里 伊和大神の御子、阿賀比古・阿賀比売二柱の神

  (2)伊和里 右、伊和部と號くるは、

       積幡(しさわ)郡の伊和君等が族、

       到来たりて此に居りき。
     
             故、伊和部と號く。

  (3)貽和(いわ)里

 〇揖保郡

  (1)香山里 伊和大神

  (2)阿豆村 伊和大神

  (3)(伊勢野) 伊和大神の御子、

         伊勢都比古命・伊勢都比売命

  (4)美奈志川 伊和大神の御子、

         伊龍比古と妹と伊龍比売命の二柱の神

 〇宍禾(しさわ)郡

  (1)宍禾と號くる所以は、伊和大神(略)。

  (2)安師里 伊和大神

  (3)石作里 本の名は伊和なり

  (4)阿和賀山 伊和大神の妹、阿和加比売命

  (5)波加村 伊和大神

  (6)伊和村 本の名は神酒(みき)なり

 〇神前(かむさき)郡

  (1)神前とする所以は伊和大神の御子、建敷命、
   
    神前山に存す

  (2)糠岡(ぬかおか) 伊和大神
 
 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月9日金曜日

絹と地名分布③


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:386~394頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 絹と地名分布③

  神名帳但馬国の気多郡に「気多神社」があり、

 現在の京都府城崎郡日高町上郷同名社である。

 「日高」は「気高」の訛で、

 橿原市城殿の旧名「喜」が「ヒ」であったことに対応する。

 上郷の「上」も蚕を表わす。

 城崎郡には神名帳に「気比神社」が載り

 豊岡市気比宮代の同名社であろうが、

 同地には現在「絹巻神社」もあり、

 絹産業との縁(ゆか)りをみせている。

  八神は、敦賀市の気比神宮の解説で述べたが、

 「八上」も「八神」と同義である。

 『古事記』の大国主命の妻請い物語の登場する

 八上比売命(やかみひめのみこと)の名になっており、

 やはり「絹虫・蚕」である。

 八上比売命は

 現在鳥取県八頭郡河原町曳田の

 八上比売命沼神社に祀られている。

 旧八上村の地である。
 
 「曳」は「匹ひき」のことで、

 布帛など反物二反を一として数える単位名である。

 同社は神名帳の因幡国八上郡に売沼(ヒメヌ)神社として載る。

 現在の郡名八頭は「八上」と「智頭」の合併したものであるが、

 「ハットウ」で大月氏の翕侯名昑頭と対応し、
 
 これも地名の先祖帰りである。

 売沼神社の呼称「ヒメヌ」は「ヒメヌノ」の意味で

 「売布(ひめふ)」の転訛と考えられる。

  売布神社名の神社が、

 神名帳丹波国熊野郡、竹野郡、但馬国気多郡に載る。

 熊野郡の場合は久美町女布権現山もある。
 
 竹野郡の場合は網野町大津女布谷の「売布神社」である。

 気高郡の「売布神社」は(現)城崎郡日高町国保に鎮座する。

 この「ヒメ」とは絹のことで木密の転訛である。

 「売布ひめふ」は「絹布」のことで、帛(はた)を意味する。

  神名帳摂津国河辺郡にも「売布神社」「高売布神社」と載る。

 前社は兵庫県宝塚市売布山手町にあり、

 池田市綾羽の伊居太神社の西方に位置する。

 後社は三田市酒井に鎮座する。

 そして摂津国東生郡に載る「比売居曽神社名神大」は
 
 〔蚕-繭〕を意味する

 kośa の音写「古佐」の地名を持つのが篠山市である。

 市内には畑宮、奥畑、畑井、畑市、幡路と「ハタ」名が多い。

 畑宮の北隣りには瀬利がある。

 これは瀬理と同じで「石」である繭を表わす。
 
 また「八上」は八上毘売命、八神と同じく「蚕」を表わす。

 同地は京都府の亀岡市へ天引峠を越えて通じ、

 秦氏の関係した養蚕地とみられる。

 最後に姫路市であるが、

 播磨国風土記の飾磨郡「伊和里」に

 「蠶子落ちし處は、即ち日女道丘と號く」とあり、

 「日女道(ひめじ)」が「蠶子(ひめじ)」に

 依るものであると語っている。

 その丘はは現在姫路城天守閣のある姫山であるという。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
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