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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:376~383頁
第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰
牟佐と太秦②
呉国については、
漢大陸の南部孫権が覇権を建てた呉(ご)のこととする
見解や高句麗のこととする見解があるが、
これは双方とも妥当ではない。
それは、『日本書紀』仁徳天皇紀56年条の一節に
で明らかである。
「冬10月に呉国・高麗国が揃って朝貢した」とある。
呉国と高麗(高句麗)とが別国であり、
呉国と高麗(高句麗)とが別国であり、
漢大陸の呉国が高句麗と相談して揃って
(一緒に)渡来するとは余程のことがない限り考えられない。
同雄略天皇紀の20年冬の条に
「高麗の王が、大いに軍兵を発して、百済を攻撃し滅ぼした。
兵糧は、すでに無くなって、深く憂いに泣いた」、
21年春の条に
「百済国は、属党がすでに亡び、倉下に集まって憂えていたが、
実に天皇のお力によって、またその国を造ったと言った」とある。
呉とはこの百済国内にあった倉下のことで
GVLH (離散したヘブライ人の居留地)の漢字音である。
弓月君のいた土地と考える。
さて、日本へ渡来した月氏族を
なぜ「ハタ」氏と呼ぶかであるが、
すでに「月氏とシルクロード」で述べたように
大月氏は絹の専門家集団である。
ハタは大月氏の五翁侯のうちの一つ
肸頓翕侯(きつとんきゅうこう)の
祖語であるサンスクリット語の絹を意味する
patta に由来するものである。
この語は衣を意味するもので織物をも含んでいることになる。
原義が「薄いもの」の意で、板にも適用される。
ヘブライ語の KhVT(khut) は「糸、紐」を表す。
この二語はサンスクリットごの patta を原語とし、
その語も実は、古代の絹産業発生の地、
四川省の和人(倭人)が「蚕」を表す用字として用いた
「八はち」が祖語である。
先に挙げた雄略天皇紀15年条の続きは次のように記す。
「そこで、秦造酒は、それを大変気に病んで、
天皇のお供えしていた。
天皇は、秦造酒は寵愛され、詔して秦の民を集めて、
秦酒公に賜った。
そこで公は180種を率いて、
庸調の絹、縑(かとりきぬ)を奉献して朝廷に充積した。
よって姓を賜って禹豆麻佐というのである。
よって姓を賜って禹豆麻佐というのである。
いずれも充積の貌(かたち)である。
〔中央公論社:日本の名著『日本書紀』に依る〕
秦氏が絹産業の専門家集団である真骨頂である。
ここで検討したいのは禹豆麻佐、京都市左京区の地名
太秦についてであるが、
この『日本書紀』の「充積の貌(かたち)である」とする
地名譚はおもしろいが、そのまま認め難い。
地名譚はおもしろいが、そのまま認め難い。
そこで考えられるのが「北の牟佐」である。
牟佐はこれまで説いてきた大和国の牟佐で、
その本義はヘブライ語の「絹」を表す MHShY(meshe)である。
その本義はヘブライ語の「絹」を表す MHShY(meshe)である。
禹豆(うず)はサンスクリット語の
uttra の転訛で「北の」意味である。
山城国名に出てきた歌荒樔田の歌(宇多)とは同義である。
このように「ウヅマサ」は「北の牟佐」の意味である。
太秦は、
大和国の南の牟佐に対する北の牟佐、北の秦人なのである。
「ハタ」氏がその漢字表記に「秦」が用いられた理由は、
彼等が月神崇拝者であることによる。
アブラム(アブラハム)の一族がカルディアのウル(メソポタミア)で
アブラム(アブラハム)の一族がカルディアのウル(メソポタミア)で
奉じていた月神名がセム語で sin 神であり、
その神名と同音の秦〔qin〕を当てたものと考えられる。
また、太秦と表記された理由は「ウヅマサ」が大和の牟佐から
新しく開墾された土地、「大牟佐」である。
新しく開墾された土地、「大牟佐」である。
「太秦」は「オウシン」と漢音訓ではなり
「オウシ」に別の意義がある。
その説明は後に詳しく触れる。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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