2015年9月20日日曜日

牟佐と太秦①


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:376~383頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 牟佐と太秦①

  「延喜式」神名帳大和國高市郡に
 
  「牟佐(むさ)坐神社大」が載る。

 この神社について本居宣長以来

 (現)橿原市見瀬の同名の神社比定してきた。

 「ムサ」の地名は『日本書紀』の

 垂仁天皇紀に身狭桃花鳥坂、雄略天皇紀に牟佐村主(すぐり)、

 欽明天皇紀の大身狭屯倉など、

 これまで身狭、牟狭、武遮、三瀬(江戸期)と表記されてきたが、

 具体的な地名の存在を明らかにするのは

 『日本書紀』の雄略天皇紀の

 「8年春2月身狭村主(むさのすぐり)青、

  檜前民使博徳(ひのくまたみのつかいはいとく)を

  呉国に遣わし」

 と述べるに始まる。

  この遣使たちは14年に帰国する。

 「14年の春正月の丙寅朔戌寅に、
 
  身狭村主青らが、呉国の使者とともに、

  呉の献上した手伎ある、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)

  および、衣縫の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)らを率いて

  住吉津に碇泊した。」

 そして3月に
 
 「呉人を檜隈野に置いた。そこで呉原と名付けた。」とある。
 
 呉原は現在の明日香村栗原のことである。

 漢織は「木綿織物」、呉織は「絹織物」と考えられる。

  呉人とは百済の倉下にいたヘブライ人で移転してきいた

 月氏族がいた所の住民である。

 「呉」である「クレ」の字義は「離散したヘブライ人の居留地」で

 ヘブライ語の(Heb.),גָלַה,GVLH,golah は

 「捕囚(ディアスポラ)、(祖国からの追放)」をも意味する。

 その原語の(Heb.),גָלֶ,GVLH,gole は

 「流浪者、祖国を追われた人」である。

 『日本書紀』の「呉」は韓半島におけるヘブライ人の居留地で

 「倉下」とも表記された。
 
 そして「呉人」とはヘブライ人を表す。

 後に同じく呉国から渡来し檜隈の於美阿志神社に祀られている
 
 阿美使主の一族は倭漢(やまとのあや)氏といわれるように

 漢(あや)氏で呉人ではない。

 栗原には「延喜式」神名帳に記す呉津彦神社が鎮座している。

 この呉津彦神と同じ祭神を祀る神社が

 同じ明日香村越(こし)にある

 許世都比古(こせつひこ)命神社(神名帳記載)で見瀬町の

 すぐ南に当たる。

 越および許世はサンスクリット語の kośa で繭を表す。

 応神天皇の時に百済より渡来した弓月君が最初に置かれた

 掖上の地にある巨瀬(古瀬)も同義である。

  日本書紀の雄略天皇紀には

  ※十五年、秦民、分散臣連等、各隨欲駈使、勿委秦造。

   由是秦造酒、甚以爲憂而仕於天皇。

   天皇愛寵之、詔聚秦民、賜於秦酒公。

   公、仍領率百八十種勝、奉獻庸調絹縑、充積朝庭、

   因賜姓曰禹豆麻佐。

   一云「禹豆母利麻佐」皆盈積之貌也

 「15年に秦の民を臣連らに分散して、

  それぞれ思うままに駆使させ、

  秦造に委ねしめなかった」とあることからすると、

 この時秦の民はこの地域に

 分散して居住させられていたのである。

 その状況が掖上から離れた見瀬町周辺にみられる。

 御所市内にあった西寺田多田の地域も

 その一つと思われるが、  

 掖上内にも東寺田の地があり、

 その北側に現在一(かず)町となっている。

 かっての常門村に稲代坐神社がある。

 この神社も神名帳に載る古社であるが、

 その版本により「稌代坐神社」と表記されていて

 正式な社号は確定されていない。

 しかし、

 当社は大社に列しており優遇された由縁を持つ神社である。
 
 町名は昭和32年の改称によるものであるが、
 
 この地名は「地名の先祖返り」の一例と考える。

 その例を挙げると佐賀県の河上神社のある大和町や

 熊本県の三加和町である。

 「一(かず)」はカドで葛と同音である。

 常門はソロモンの転訛である。

 また一町には三神社が現在あるが

 「三」は見瀬、牟佐に通ずる。

 畝傍山の東方に城殿町がある。

 この地名は江戸期に木殿と改名させられたが、

 それ以前は史料の上では

 平安期から喜殿と表記された荘園名であったりした。

 その訓音についてであるが、

 元初は「ヒデ」ないし「ヒダ」と考える。

 漢大陸から漢字を取り入れた当時

 「喜」は「ヒ」に近い発音であったとみられる。
 
 現在の中国語においても「喜Xi」であり、

 ヒマヤラ山脈名は喜馬拉雅と表記されている。

 また同町の東側に飛弾町があり、

 祖語を同じくするものとみられる。

 その祖語はダビデである。

  畝傍山の北西に寺田町がまたあり、

 その西に雲梯町があるが、百済国の弓月君がいたとみられる

 城内に雲梯県が新羅の時代から現在まで続いてあり、

 その名称に係わる地名である。

 天理市内にも喜殿町があり、そこに八坂神社が鎮座している。

 田原本町の橿原に近いところに秦庄がある。

 以上の状況でも明らかなように
 
 見瀬である牟佐はヘブライに係わる用語である。

 これは、また

 「絹」を意味するヘブライ語
 
 (Heb.),מֶסהֶ,MHShY,meshe の音写である。

 つまり、隣り合う町名「見瀬」と「越」は

 それぞれヘブライ語とサンスクリット語による同義で

 「絹」を表すのである。

 さらに MHShY と百済とは極めて重要な縁があるが後述する。
 
 メッシュは古代ローマにおいてはユダヤ人の代名詞であった。

 御所市、橿原市、明日香村などに

 点在する秦氏の居住地を牟佐と称したのである。

 
 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ
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