2012年2月29日水曜日

国譲り交渉の経過と、飛んでもない場所への降臨



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録26:4頁

 《国譲り交渉の経過と、飛んでもない場所への降臨
 《国譲り交渉の経過と、飛んでもない場所への降臨

 しかしその大物も、

 直接関係のない地域である兵庫県尼崎市に大物(だいもつ)があるくらいで、

 他にはなく、領地名とは考えられないし、

 葦原醜男にも該当する地名などない。

 醜男は軽蔑詞で、

 これは敗者への呼び名であるとするしかないから、

 アシハラだけが地名だが、

 これも出雲と同じ日本海側ではあるが山陰ではない越前に、

 芦原(あはら)がある位いのもので、

 これは「豊葦原瑞穂の国」という「国家全体の総称」であることは間違いない。

 だとすると、

 大国主は豊葦原瑞穂の国「全体」を譲った前国王だったのである。

 ではその瑞穂の国とは、

 今の日本列島全体ではありえないから、

 その内のどの地域だったのであろうか?。

 国譲りの交渉に当たった武御雷男神(たけみかづちノお神)は、

 出雲の国の伊耶佐の小浜(紀=五十田狭の小汀)に天降って大国主に迫る。

 大国主は息子八重事代主に任せるといい、

 八重事代主は国譲りを承諾するが、

 もう一人の建御名方は抵抗して負けて逃げ、

 科野の国の州羽海に追い詰められて降参、

 国譲りを承諾したので大国主は出雲の多芸志に隠棲する。

 この状況をそのまま受け入れると、

 譲った国は本州だということになるが、

 譲られた天孫・瓊瓊杵(ににぎ)の命は、まるで別世界の、

 日向の高千穂の久士布流多気に降臨する。

 そして笠紗の御前(みさき)で神阿多都比売、

 別名・木花之佐久夜毘売と

 結婚して日子穂穂手見命たちを生む。

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
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2012年2月28日火曜日

『神代巻』最大の謎・大国主は史実か?



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録26:3頁

 《『神代巻』最大の謎・大国主は史実か?
 《『神代巻』最大の謎・大国主は史実か?

 イザナギ・イザナミと三貴子の「名乗り」が、

 現存する地名と明瞭に一致しているので、

 その「名乗り」と地名が、

 歴代の史実を記録していたことが確認できたが、

 これによって、

 これまで『神話』だと信じられてきた『神代』巻が、

 本当は神話ではなく史実の断片だった事実を、

 よくご納得戴けたと信じる。

 この国生みと三貴子生みに続く、

 もう一つの大神話群(しんわぐん)いわゆる『出雲神話』は、

 国譲りの主神の名が「大国主尊」で、

 名乗りというには余りにも漠然とした大国の王という代名詞に見え、

 とてもイザナギのように多数の比定地が見つかりそうにもない。

 これは『神代』巻が史実かどうかという問題の中でも最大の謎である。

 徹底的に検討してみる必要がある。

 『日本書紀』本文では、

 素戔鳴(スサノオ)の尊が八岐の大虵を退治たあと、

 出雲の清地(すが)で奇稲田(くしいなだ)姫と結婚して大己貴神を生んだと

 書いてあるだけである。

 これを武田祐吉博士は

 「大は美称で。己はアナと読み、汝。貴はムチと読み尊称だ。約してオホナムチという」

 と校註している。

 しかしこの「ナ」は国称のナだから国、貴はキで王=大国王で大国主と同じものでしかない。

 その大国主や大物主・葦原醜男といった別名は全部、『一書』にしか書いてないから、

 本来の『原・日本書紀』にはなかった別名なのだということも重要である。

 『参考』
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2012年2月27日月曜日

太安萬侶と多人長をめぐる謎と答



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録25:32頁

 《太安萬侶と多人長をめぐる謎と答
 《太安萬侶と多人長をめぐる謎と答

 会員から大学院講義録24の「太安萬侶の布屠」を、

 も少し詳しくというお問い合わせがあったので、ここで追加申し上げる。

 安萬侶をあれほど宣伝して彼の子孫であることを誇りとした多人長らが

 何故?名誉ある「太」姓を捨てて多に変えたのか?という疑問に、答が完備している。

 「姓・かばね」は「八種(やくさ)の姓」制定で御存知の通り自称ではなく官製である。

 以後官位に付随して認定されたもので、

 地位偽称の恐れがあるところから、

 自称も改姓もできなかった。

 だから人長らが許可されたのには、それ相応の理由が必要だったのである。

 太と多を比較してみると、漢音は双方<タ>。

 和訓も双方<オオ>。

 異なる点はただ一つ「太」が「フト」と読めることだけだ。

 だから人長らが嫌ったのは、その<フト>だったと解るのである。

 その<フト>が意味するものは布屠だけで、それは僧侶のことだから、

 官製の「太」は、その<フト>に対して与えられたもので、

 安萬侶の本来の地位を表わしている。

 しかし大化大戦敗北により、仏教徒は排斥されて東北に逃げ、

 あるいは関東に追いやられて去り、

 僅かに残っていた者が天武天皇によって救済されたのである。

 ごく下級の太安萬侶が登用されたことは、僧は漢文の経典を学んでいる。

 その才能を修史に利用するため以外は考えられない、

 これが安萬侶と人長らに山積する謎を一挙に全部解く、

 唯一の明瞭な理由で証拠なのである。

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2012年2月26日日曜日

『記・紀』は倭国と日本の2国の『正史』



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録25:31頁

 《『記・紀』は倭国と日本の2国の『正史』
 《『記・紀』は倭国と日本の2国の『正史』

 百済は、天智天皇=金春秋が半島百済を滅ぼしたあと、

 本国の大阪百済まで滅ぼしたから、新羅とは仇敵中の仇敵である。

 かつては魚をトーテムにするイオニヤ人だった人たちの中で、

 最も大きかったグループ、

 それが百済だったから、

 鯨が最大の魚として扱われていたことは想像にかたくない。

 <クダラ>と<クジラ>が共通だったことは、

 百済の尺度が「鯨尺」と呼ばれている事実でも納得がいく。

 その百済の当て字が<モズミ>と読まれて、百舌鳥耳と当て字された土地に、

 仁徳・履中2天皇陵が現存している。

 『原・日本書紀』が嫌い、憎んだのが何だったかを、これも明瞭に物語っている。

 百済倭国は鯨なみに超大国化していたのである。

 新羅は<シラギ>で南九州語では<ヒラキッ>。

 開聞とか枚聞と当て字して薩摩に首都跡が実在している。

 その鹿児島県全域が『旧唐書』の記録した

 「もと小国の日本」の記載に全国でただ1か所だけ合う。

 その王家もまた福岡の白日国、半島の新羅という壹與以来の領地をもち、

 倭国の地方ではないが、倭国連邦の一員として、

 倭国に人質を送り、政治に参画していた。

 その政情は江戸時代まで続いた封建制度と、ほとんど変わらない。

 大化改新に登場する中ノ大兄ノ皇子とは、

 福岡の古名「那珂」を領地にもつ「日本国の大兄皇子」という意味である。

 『古事記』と『日本書紀』の原本は、もともとこの2国の『正史』だったのである。

 『参考』
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2012年2月25日土曜日

徹底してイザナキを嫌った天智天皇の『日本書紀』



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録25:30頁

 《徹底してイザナキを嫌った天智天皇の『日本書紀』
 《徹底してイザナキを嫌った天智天皇の『日本書紀』

 『原・日本書紀』は、倭の五王系の国生みを否定していたのである。

 それは代々のイザナキの当て字にも明瞭に現われている。

 履中天皇の名乗りをみると

 『古事記』の伊邪木和気ではすぐイザナキだとわかるので、

 『日本書紀』は、わざわざ難しく去来穂別と書く。

 垂仁天皇皇子のイザナキも、

 『古事記』は印色入日子だから印色はイシキと読めるのに、

 『日本書紀』は五十瓊敷入彦で、これがイザナキとはとても思えない。

 ところが鹿児島市の伊敷神社は祭神を印色入日子と書くから、

 イシ=石=イサ、助詞のナ、キと、すぐイサナキに復元できる。

 すると崇神天皇の五十瓊殖も、殖はシキだから五十瓊は印=イ、

 やはりイシキが本当の名乗りで、崇神天皇もイザナキだったことがわかる。

 この事実は、『日本書紀』が、イザナキが世襲の名乗りであることを、

 できるだけ隠して、できれば抹殺しようとしたことを、僅かな例をとらえても、

 こんなに揃った証拠があがって、完全に暴露してしまったということなのである。

 では、何故?天智天皇はそんなにイザナキを嫌ったのか?、

 それを探ってみよう。

 イサナはシバの名が語源だったが、

 我が国の古語では勇魚と当て字して「鯨」の別名として使っている。

 イサナ=鯨なのである。

 それなら百済もクジラを意味するから、答が見える。

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2012年2月24日金曜日

皇祖の差=『紀』は壹與女王、『記』は履中天皇



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録25:29頁

 《皇祖の差=『紀』は壹與女王、『記』は履中天皇
 《皇祖の差=『紀』は壹與女王、『記』は履中天皇

 光華明彩の金髪の大日霊の貴を、

 国民の祖神として押し付ける『日本書紀』は、

 明らかに卑弥呼と壹與の系列であり、ギリシャ系の正史である。

 その理由は狭穂姫が生んだ垂仁天皇の皇子を連れて船で隼人町にきた壹與は、

 『正八幡縁起』では大比留女(おおひるめ)と名乗っているし、

 壹與は新羅始祖王の赫居世であり、

 天智天皇は新羅王・金春秋だから『日本書紀』は天智天皇が企画者で、

 金髪の壹與を祖神としていることになる。

 それには<卑弥呼>がダブっているが、

 それは<卑爾呼>の<爾>がの音の<ラ行音>で<ヒルコ>とも読めるからで、

 追放された<水蛭子>は<卑弥呼政権>を指しているのであり、

 <ヒルコ>と<ヒルメ>はその同じ王名の名乗りの男女の両形である。

 <大ヒルメ>は<倭(おお)のヒルメ>、<卑弥呼>か<壹與>を指す名なのである。

 これを否定して、3貴子とは、<イザナミ>と争って別れた<イザナギ>が、

 自分で勝手に生んだ、

 目鼻から生まれたような天皇たちだと主張するのが『古事記』である。

 こちらの方が本当の<天照大御神>で、<伊勢神宮の御神体>でもある。

 それは誰をさしているか?。

 <天の御柱>は帝柱=磤馭盧島であり、<柱>=<ツナ>で<津名>。

 津名は今も淡路島の中央に現存するから、

 それをめぐった淡路島時代の<イザナキ>は<履中天皇>しかいない。

 『古事記』は天照大御神以下の3貴子は彼の子だというのである。

 『日本書紀』と『古事記』の違いは、実にはっきりしている。

 『参考』
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2012年2月23日木曜日

この講座の本務は解読技法の研鑽



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録25:28頁

 《この講座の本務は解読技法の研鑽
 《この講座の本務は解読技法の研鑽

 では『記・紀』は、それぞれ何を主張しているのか?。

 それを確認すれば、

 『記・紀』がどんな目的で書かれたかを最終的に定義できる。

 なぜなら、どんな主張でも冒頭に強く意志が漲っていて、

 最後の部分で総括して結論するものだが、

 この『国生み・3貴子生み』は、その冒頭であって、

 しかも後から加上された「結論」部分でもあるからである。

 ただ比較する前に注意がいるのは、

 『日本書紀』には本文のほかに『一書』が多数編集されているが、

 その中に『古事記』に酷似したものが入っている。

 だからそれを『日本書紀』として扱うと、

 双方同じ内容ということになり、

 比較しても何にもならない。

 この『一書』混入は持統天皇の妥協の産物で、

 その時『日本書紀』の性格も変わってしまったのだから、

 私が今お話ししている本来の性格の差は、

 『一書』追加前の『原・日本書紀』(本文)だけを『古事記』と比較したものである。

 これを見るとこれまでみた舎人親王の編集と加上との実態が、

 さらに精細に理解できる。

 こうして精密に分析して初めて『記・紀』は批評でき、判定できるのである。

 それなしで批判するのは形だけで実体がない。無意味というはかない。

 この講座は『記・紀』解読を教材として使ってはいるが、

 謎解きが本務ではなく、

 解読技法をご一緒に研鑽するのが目的である。

 ここで改めて申し添えておく。

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2012年2月22日水曜日

既刊『記・紀解説書』の情けない実態



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録25:27頁

 《既刊『記・紀解説書』の情けない実態
 《既刊『記・紀解説書』の情けない実態

 当然その兄弟の月神もスサノオも別人であることはいうまでもない。

 在来は同一の神々だとしてきた3貴子が、

 『記』と『紀』では2組の全く別人だったことが明瞭に見分けられる。

 いや見分ける必要がある。

 何故ならそれは鋭く精密な頭の持ち主には、

 『記・紀』』自身が、共に相手を強く意識して、

 それを特記し、激しく自己主張しているのだからである。

 それに気づかなければ、『記・紀』を読んでも何にもならない。

 両者が何を訴えたいのか、よく理解して始めて史実が浮かび上がる。

 『記・紀』を同一の歴史の記録だと思い込んで、

 その決定的な「対立」にさえ気づかぬようでは、

 とても史学者の中には入れられない。

 彼等の著書は、『記・紀』の、

 それもこの巻頭第一の主題である『3貴子生み・国生み』の部分で、

 逃げ隠れできない見落としとミスを重ねた、醜態を露呈したものばかりである。

 本来なら激論すべき部分を、

 何の不審も抱かずに解説している既刊書の著者らがどの程度の人物か、

 判定するのに手間ひまはかからない。

 解説は饒舌であればいいのではない。

 量でなく質である。肩書きの維持に汲々としていたサラリーマン教育者の、

 小遣い銭稼ぎの著作だとみるしかない。

 能力の限界を自覚できない者の高望みが、不相応な肩書き詐称と雑本を生んだのである。

 お暇があれば鋭い御眼力で、ご蔵書をご再検いただきたい。

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2012年2月21日火曜日

『記・紀』の3皇子生みの徹底的な相違点



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録25:26頁

 《『記・紀』の3皇子生みの徹底的な相違点
 《『記・紀』の3皇子生みの徹底的な相違点

 『古事記』の嶋名は淡道で、

 『日本書紀』が淡路島と明記しているのに対し、

 どこの島を指しているのか不明である。

 これも重視しなければいけない。

 『日本書紀』はそれに続けて、

 大日本豊秋津洲を生み、

 次に伊橡二名洲、筑紫洲、

 次に隠岐洲と佐渡洲を雙生児として生む、

 というふうに可なり『古事記』と違っている。

 が、さらに違っているのは、

 この後に、引き続いて海を生み、山川草木を生んだあと、

 「天下の主を生まなくては…」と話し合った上で、

 日の神・大日霊の貴(おおひるめのむち)を生んだが、

 その子は「光華明彩・六合のうちに照徹」した。

 次に月の神を生み、

 次いで蛭児(ヒルコ)を生んだが足が立たないので船に乗せて捨て、

 その次に素戔鳴(スサノオ)の尊を生んだと書いている。

 『古事記』はこの3貴子は、

 イザナミが死んだあと、

 イザナギが禊(みそぎ)をした際に目鼻を洗ったとき生まれたとする。

 イザナミが生んだ子供ではないと、はっきり断わっているのである。

 特にその名に注意がいる。

 『古事記』の3貴子は、

 天照大御神・月読命・建速須佐之男命である。

 『日本書紀』のそれと見比べてみていただきたい。

 これは『古事記』と『日本書紀』の3貴子が、

 別人であるという動かぬ証拠なのである。

 最高の崇拝対象だった天照大神でさえ、

 天照大御神と大日霊の貴という2人の「別人」なのである。

 『古事記』 :淡道・淡道之穂之狭別嶋・伊豫之二名嶋・筑紫嶋・伊岐嶋

 『日本書紀』:淡路島・大日本豊秋津洲・伊橡二名洲・筑紫洲・隠岐洲・佐渡洲

 『古事記』 :3貴子(天照大御神・月読命・建速須佐之男命)

 『日本書紀』:3貴子(大日霊の貴・月の神・素戔鳴の尊)

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2012年2月20日月曜日

奇妙な二重構造になっている3貴子生み



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録25:25頁

 《奇妙な二重構造になっている3貴子生み
 《奇妙な二重構造になっている3貴子生み
「国生み」
 伊耶那岐・伊耶那美2神の事跡は、何といっても<「国生み」/a>である。


 ところがこの国生みが奇妙な二重構造になっている。

 『古事記』は伊耶那岐が天沼矛を使って淤能碁呂(オノゴロ)嶋を得、

 伊耶那美と共に天降って、

 そこを天之御柱と八尋殿に見立てて子供を生むが、

 その水蛭子(ヒルコ)は葦船に乗せて流し捨て、

 淡嶋という子供も子の内に入れなかった。

 そこで柱巡りをもう1度、男性主体に変えてやり直すと、

 今度はうまく行って、

 淡道之穂之狭別嶋、伊豫之二名嶋、筑紫嶋、伊岐嶋といった順に国々が生まれる。

 これが淡道をアワジと読んで淡路島のこととし、だから淤能碁呂嶋も淡路島か、

 その付近の島だとして、淡路島に伊弊諾神宮がある理由にしている
 
「大阪湾国生み」であることは、すでにこの講座で細部まで検討ずみなので、

 後は省略するが、

 私たちは、このイザナキが履中天皇だったことを突き止めて、

 史実を細部まで熟知することができたのだった。

 ところが『日本書紀』は、天瓊矛で磤馭盧(インギーラ)島を得、

 そこに天降ってその島を国の中心柱として左右から回って声をかけると、

 イザナキは不愉快で、方法を逆にして淡路洲を胞にしてみたが、

 やはり不快だったので「吾恥(あは)じ」=淡路(あはじ)というのだと、

 淡路に対する反感を露わにしていて、同じ淡のつく淡島を追放したというのと、

 共通していることに注意がいる。

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2012年2月19日日曜日

「不殺生戒」論争だった「天の御柱めぐり」



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録25:24頁

 《「不殺生戒」論争だった「天の御柱めぐり」
 《「不殺生戒」論争だった「天の御柱めぐり」

 この極端に対立する人類の理想と現実は、

 21世紀を迎えても原始時代そのままに、

 宿命的に困難な大問題中の大問題として、

 未だに未解決のままである。

 仏教立国の履中天皇時代には、

 天皇と女王との間に当然横たわる、

 深刻な対立問題だったと断定して間違いない。

 なぜなら不殺生が至上命令の仏教徒だった履中天皇が、

 同じ倭王だった武の上表文を見ると、

 「祖禰(そでい)(父祖。だから履中天皇もその1人)は、

  身に甲冑をまとって寧処(休む所)にいる暇もなく戦い続け」と明記している。

 不殺生戒(ふせっしょうかい)の理想を実現するために、

 戦って相手を殺す、

 という矛盾が問題にならなければ。

 2神の男尊女卑問題は発生しなかったのである。

 それは在来の学者が解説してきたような、

 男性上位か女性上位かといった野蛮な駆け引きではない。

 仏教を広め新しい統一国家を建設するためには、

 「教義を超えて武力を行使することも、やむをえないlという履中天皇と、

 「いや不殺生・慈悲の、み教えに背く戦争は絶対に許されない」

 という皇后との深刻きわまりない政治哲学論争だったのを、

 そのまま理解できない人々のために、

 万人がわかる比喩、庶民が興味をもって耳を傾ける寓話、

 性的なお伽話として脚色してしまったのである。

 これを「日本神話は幼稚だ」と海外の定評にしてしまった責任者は誰か?、

 ご追及戴きたい。

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2012年2月18日土曜日

男女で異なっていたイサナの真意



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録25:23頁

 《男女で異なっていたイサナの真意
 《男女で異なっていたイサナの真意

 履中天皇の場合も、イザナキは語源とは異なった意味に使用されている。

 彼は応神大皇の孫であり後継者なのだから、

 仏教徒の天皇だったことは動かない。

 国民からイザナキと呼ばれても、自分をシバの化身だなどと思うはずがない。

 それが事実だったことを証明する証拠が、

 彼の巨大古墳のある堺市に、地名として残っている。

 応神天皇が2人の神功皇后=卑弥呼か壹與か、どちらの子孫であっても、

 金髪のギリシャ系の血を引いていたことは動かない。

 今も京都の松尾神社や東寺などの神宝の女神像として残っている彼女らの木像は、

 御存知のようにイシス像を聖なる規範として造られている。

 イサ・イザは石の別名だったのだから、このイシスが役に立ったのである。

 彼等は女王をイシズと呼び、それに石津と当て字した。

 その遺跡が堺市の石津町である。

 石=イサ、津=ナである。

 ここまでわかると岐・美2神の「男尊女卑」説話が、何を意味していたか?
 
 という大学院講義録24号でお話しした結論が、

 どんなに正しかったかが、改めて強く真実だと確認できる。

 イサナ王はシバを意味していた、

 彼は破壊の神として知られる恐るべき宇宙の支配者だ。

 イサナ女王は女神イシスを理想とする卑弥呼らの守護陣で、

 不殺生、慈悲、愛の仏教の象徴である。

 ご説明するまでもなく、それは戦争と平和との2大象徴だったのである。

 『参考』
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2012年2月17日金曜日

イサナキとは何か?その真相と勝者の実態



『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録25:22頁

イサナキとは何か?その真相と勝者の実態
イサナキとは何か?その真相と勝者の実態

このビシュヌーと並ぶインド古来の大神がシバである。

それを別名のイサナで呼んだ人々が日本列島にいても不思議ではない。

彼等が王にその名を奉ったならイサナ王(キ)である。

歴代の王、すなわち天皇は、イサナキという尊称を必ずもっていたことになる。

世界各地からの渡来者が混在していた日本列島では、

記録者が変わると、そうした尊称も変わる。

『記・紀』の編集者は、有りあわせの史料を拾い集めて編集したから、

インド系の文献しか見つからなかった天皇は、

イサナキという名乗りしか分からなかった。

履中天皇がそれだったのである。

というよりも履中天皇が伊邪木和気と記録されている事実こそが、

この推理が正しいという証拠なのである。

しかし天皇たちは東征して新国民と和解し、国土を広げて行った。

昨日までの敵地に入り、信仰も言語も異なる新地域に首都を置いて住み、

さらに新たな敵地を改めて新国土の拡大を図らねばならなかった。

聖武天皇が「三法の奴(やっこ)」と自称したのは、

正にこうした辛苦を記録しているのである。

決して彼が全身全霊から仏教徒だったのではない。

むしろそんなことが特記されなければならなかった

奈良の、特殊事情を考えなければならない。

そこは聖徳太子=蘇我氏系の旧倭国が滅びた,怨念醒めやらぬ深刻な敵地だったからである。

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2012年2月16日木曜日

大己貴は「倭国(オオナ)持ち」で難升米=綏靖天皇



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録26:20頁

 《大己貴は「倭国(オオナ)持ち」で難升米=綏靖天皇
 《大己貴は「倭国(オオナ)持ち」で難升米=綏靖天皇

 『魏書倭人章』は、その東にも「不弥国」が生まれたことを記録していた。

 それは明かに豊前・フーミーで、豊・ホウ、前・マエを「フーミー」と

 発音する沖縄・大隅語の名である。

 この2国を書く起点になったのは伊都国。

 これは「倭・イの都だから、都=ツ・ト」国とみると、

 「イ=葦、都=原」で、中ツ国=中津国。

 ちょうど牛津(1)から中津(2)(大分県)が

 「葦原中国」と書かれた地域にピッタリ合う。

 そこは間違いなく卑弥呼政権が崩壊した後、

 壹與たちが本拠を構えた香椎

 (カシー=愛。仲哀・神功を合祀した香椎廟がある)のある、

 のちの「白日別の国」で、壹與を初代の王・赫居世とする「新羅」の国だ。

 だから、経津主と熯速日が大己貴に要求したのは、この白日別地域で、

 大己貴は「倭国(オオナ)持ち」という代名詞だったのである。

 それは在来の学者が考えていたような一個人の名でも名乗りでもなかった。

 壹與当時のそこの支配者は、難升米以外にはない。

 彼は神渟浮名川耳(ナンセンミ)尊=綏靖天皇である。

 彼の跡を継いだのは安寧天皇。

 この天皇は「大間宿祢の娘・糸井姫」を皇后にしている。

 「地図」

 「葦原中国」:牛津(1)から中津(2)

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