ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年2月17日金曜日
イサナキとは何か?その真相と勝者の実態
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録25:22頁
《イサナキとは何か?その真相と勝者の実態》
《イサナキとは何か?その真相と勝者の実態》
このビシュヌーと並ぶインド古来の大神がシバである。
それを別名のイサナで呼んだ人々が日本列島にいても不思議ではない。
彼等が王にその名を奉ったならイサナ王(キ)である。
歴代の王、すなわち天皇は、イサナキという尊称を必ずもっていたことになる。
世界各地からの渡来者が混在していた日本列島では、
記録者が変わると、そうした尊称も変わる。
『記・紀』の編集者は、有りあわせの史料を拾い集めて編集したから、
インド系の文献しか見つからなかった天皇は、
イサナキという名乗りしか分からなかった。
履中天皇がそれだったのである。
というよりも履中天皇が伊邪木和気と記録されている事実こそが、
この推理が正しいという証拠なのである。
しかし天皇たちは東征して新国民と和解し、国土を広げて行った。
昨日までの敵地に入り、信仰も言語も異なる新地域に首都を置いて住み、
さらに新たな敵地を改めて新国土の拡大を図らねばならなかった。
聖武天皇が「三法の奴(やっこ)」と自称したのは、
正にこうした辛苦を記録しているのである。
決して彼が全身全霊から仏教徒だったのではない。
むしろそんなことが特記されなければならなかった
奈良の、特殊事情を考えなければならない。
そこは聖徳太子=蘇我氏系の旧倭国が滅びた,怨念醒めやらぬ深刻な敵地だったからである。
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