ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年2月10日金曜日
定義 後世の巨大古墳は「神社」の祖形である
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録25:15頁
定義 後世の巨大古墳は「神社」の祖形である
その阿波から、
大鳴門橋のかかっている狭い鳴門海峡を挟んだ対岸は、
もう淡路島である。
そこにイザナギを祭る神社の総本社・伊弉諾神社がある。
この事実から経路はおろか、それ以上のことが明確にわかる。
四国では皇子にすぎなかった伊邪木(イザナギ)和気の命は、
淡路島で天皇・履中として君臨したのである。
だから伊弉諾神社の原型だった古墳は、本当の履中天皇陵以外にはあり得ない。
すると従来、履中天皇陵だとしてきた堺市の百舌鳥耳原南陵は、
隣接する中陵・仁徳天皇陵とともに、
後世になってから倭王・興=安康天皇(百済・蓋鹵(コウロ)王)が造営した
「礼拝用の建造物」にすぎないことが、決定的になる。
このことは淡路島の履中陵が天皇を葬った墓地であるのに対し、
後世に造られた巨大古墳群は、礼拝用建造物であるという、
その性格からみて、
同一人物を祭る神社が複数実在することの確かな「神社」に相当するもので、
神社の祖形であると定義しなければならない。
すると「神社神道」の実態が明確に姿を現わす、
それは蓋鹵王がなぜそんなものを造ったかが、
『三国史記』の「百済本紀」に、高句麗の間者僧に騙されて、
その教えを信じて建造に走ったと明記されているからである。
高句麗は卑弥呼を出した孝霊天皇たちの領地であり、多くの古墳群をもつ。
それらは総て仏教の遺跡であり、神社もその子孫だったのである。
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