ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年2月25日土曜日
徹底してイザナキを嫌った天智天皇の『日本書紀』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録25:30頁
《徹底してイザナキを嫌った天智天皇の『日本書紀』》
《徹底してイザナキを嫌った天智天皇の『日本書紀』》
『原・日本書紀』は、倭の五王系の国生みを否定していたのである。
それは代々のイザナキの当て字にも明瞭に現われている。
履中天皇の名乗りをみると
『古事記』の伊邪木和気ではすぐイザナキだとわかるので、
『日本書紀』は、わざわざ難しく去来穂別と書く。
垂仁天皇皇子のイザナキも、
『古事記』は印色入日子だから印色はイシキと読めるのに、
『日本書紀』は五十瓊敷入彦で、これがイザナキとはとても思えない。
ところが鹿児島市の伊敷神社は祭神を印色入日子と書くから、
イシ=石=イサ、助詞のナ、キと、すぐイサナキに復元できる。
すると崇神天皇の五十瓊殖も、殖はシキだから五十瓊は印=イ、
やはりイシキが本当の名乗りで、崇神天皇もイザナキだったことがわかる。
この事実は、『日本書紀』が、イザナキが世襲の名乗りであることを、
できるだけ隠して、できれば抹殺しようとしたことを、僅かな例をとらえても、
こんなに揃った証拠があがって、完全に暴露してしまったということなのである。
では、何故?天智天皇はそんなにイザナキを嫌ったのか?、
それを探ってみよう。
イサナはシバの名が語源だったが、
我が国の古語では勇魚と当て字して「鯨」の別名として使っている。
イサナ=鯨なのである。
それなら百済もクジラを意味するから、答が見える。
『参考』
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『言語復原史学会:画像』
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