2010年7月31日土曜日

完全に仁徳系譜に一致する大山津見神の暗号系譜

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:24頁

しかし現実の仁徳天皇は葛城曽都毘古の子・石之比売命と結婚して

4皇子を儲けるだけで半分しかいない。

みてみよう。

最初の神は天之狭土(サツチ)神と国之狭土神とのペアになっている。

皇子の蝮(タジヒ)水歯別命(反正天皇)の蝮(マムシ)は、短い蛇=ノヅチである。

「・之・土」に合う。

次は天之狭霧神と国之狭霧神とのペアである。

皇子の男浅津間君子宿祢はオアサツマで、天=ア、狭=サ、斉=キ=沖縄語のチが

「浅・津=沖縄語チ=アサチ」と共通している。

第3は

天之闇戸神と国之闇戸神とのペアだから、

皇子の墨江中王と見比べると、闇も墨も共に黒い。

戸の古音は「ヘ」(神戸)、方向を示す助詞は「ヘ」と書いて「エ」と

発音するから江と同じ。

見事にこの皇子を指す暗号になっている。

第4は 

大戸惑子神と大戸惑女神である。

これを残る大江伊邪木別命と比べてみると、大戸はオオヘで、

前記の通り「ヘ」は「エ」だからオオエ=大江,惑はワクで別(わく)、

子はコで木(こ)と全部が揃っている。

またペアになっている相手は女神だと明記してあるので、

他の「国」の神も女性すなわち妻を意味することがわかるから、

8神は4皇子に后妃を加えた数に過ぎず、

以上の結果が正しいことをさらに確信させる。

また母の野椎神もノヅチだから反正天皇の蝮という異様な名乗りは、

実は母譲りだったことも、この比較の副産物として確認できる。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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応神=建内系の名乗りの構造が解く神名の謎

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:23頁

ここまでわかると、

では具体的に過去帳になっているか?

検討してみなければならない。

第1は

伊邪那美(イザナミ)命は国生みを終えると再び神々を生む。

風の神・志那都比古神はこの中にいる。

彼の次は木の神・久久能智神である。

応神天皇系の建内一族の名乗りは、ほとんど全てが姓と名に見えるものが

実は同じもので、方言差を併記しただけのものである。

波多八代宿祢は<ワタ>・<ハダ>という2方言だし、

蘇賀石河宿祢は<スガ>・<ソガ>という2方言、

<木角宿祢>は<木の>=<チヌ>と<角>=<ツノ>という2方言である。

だから<木>は古音なら<コ>で沖縄発音では<ク>。<久>は<ク>に合っている。

<木の久能>は<コヌ・クノ>という建内系名乗りにピッタリだから、

応神の皇子・<木菟野>命または<木荒田>=<キノ・コウタ>(高都=クツ)郎女を

さらに一ひねりした名乗りに合う。<久久>と<能智>という2重のダブリは、

この2人を意味していることになる。

第2は

<山の神>・<大山津見神>。

この神は<大山祇>と書くから<ウサギ>すなわち

仁徳天皇であることは、すでに研究済みである。

次の<野の神>は<鹿屋野比売神>。

これも仁徳天皇の姉妹の中を探すと川原田郎女に合う。

<川>は頭音<カ>、<カ>=<鹿>、<原>は頭音<ハ>、

ハ=八=ヤ=屋、田=都=津=ノ=野、郎女=比売である。

この女神には別名があって<野椎神>という。<大山津見の神>は、

この鹿屋野比売神、別名・野椎神と結婚して

次の8柱の子神をもうける。

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在来の「常識」を大きく覆た「大八島(ウハシマ)」

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:22頁

「大八島国」

これ従来「大八洲」などと書かれ、

日本列島全体の名だと思われていたが、

以上の国名と名乗りの範囲は、沖縄から淡路島どまりで、

大阪も奈良も京都も入っていない。

では大八島とは何のことか?。

これは以上の国々を統括する位置に書かれているのだから、

以上の国々を統括する国名や名乗りでなければならない。

発音と共に、

史実としてもそれに一致するのは、ただ一か所しかない。

それは大=ウ、八=ハ、島=シマで愛媛県の<宇和島>である。

そこが隋の時代になっても首都だったことは、

もうよくご存知のことだが、

いま新たな視点からこの国生み名詞を再検討してみても、

真実だったことが裏書きされた。

もっとも現在の宇和島市そのものではないことは、

正会員塩崎教授のご指摘とご研究によって入念に検討した通りで、

少し北部の宇和町とその周辺である。

『記・紀』が編集された当時は唐代で『隋書』が書かれた当時である。

そこを国生みの総括にしたのは当然のことだったのだ。

所が梅澤稔正会員が不思議にもその宇和島の、

次のような意外で貴重なお便りを下さった。

「テレビで四国伊予の料理の紹介がありました。

宇和島近辺2、松山への途中1。その名前に驚きました。

『琉球、薩摩、日向』3つとも地場に伝わる料理名がこれです。

何か快哉を感じました」。

宇和島がどんな文化をもつ首都だったかを語る、

もう1つの文化財である。

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すべて「領主だった王たち」の名乗り

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:21頁

それは「国生み」の前から始まっているが、ここでは国土の名から見ていこう。

淡路島 淡道の穂の狭別=タンジ=丹子=種子 穂狭=ホセ=百済から別れた国の王

四国   伊予の二名島 伊予=壹與 愛比売=卑弥呼=ペマカ、壹與=カシー 共に愛

讃岐=ササキ=仁徳天皇。飯依比古=仁徳の前の名か仁徳以前の領主の王名

栗=アワ=阿波。大宜都(ウギツ)比売=大月(ウゲツ)比売=御食津(ウケツ)比売

=農業指導者の王名

土左=トサ=高知。建依別=高より別れた国王  (高知=高志=建内)

隠伎  三子(みこ)島。天之忍許呂別=チヌの大隈から別れた皇子(みこ)(隠岐でなく沖縄)

九州  筑紫国 白日別 福岡県 のちの新羅王の本国

豊国  豊日別 大分県 用明天皇と孝徳天皇も名乗る本国

肥国  建日向日豊久士比泥別 熊本県 高志と日向と大分と阿蘇(奇(く)し火)王

熊曽国 建日別 鹿児島県 高志=狗奴国の本拠の王 建内宿祢

伊伎 天比登都柱 朝鮮半島を支配する天人(あめひと)の柱(ツナ=大宰府的都)壱岐

津島 天の狭手依比売 狭手=サタから来た神功皇后が根拠地にした島 対馬  

佐渡(サト)島 これは佐渡ガ島だはなく、

里(サト)を首都とする鹿児島県の甑=コシキ島のこと

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2010年7月28日水曜日

シナトは戒名。貴重な過去帳に昇格した神名群

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:20頁

この隅田正会員のご発見がなぜ?偉大か、

それは在来、

古代人の野蛮な想像が生んだ出鱈目な名に過ぎないと思われていたものが、

事実は応神天皇が相続した

名乗り=実在した歴史上の人物の名乗りだったと確認できたからである。

それは迷信による自然神の名ではなく、

先祖を祭祀するための貴い別名だったのだ。

もちろん古代の我が国でも、

ギリシャ人を祖先にもつ人々が

ゼウス、ポセイドン、アフロディテ、ポントスなどという神名を、

実際に子供の名や王名として命名した証拠がすでに山積している。

この応神のシナトの神は、

そのポントスへの当て字である品都を読み変えたものであることも、

また疑いの余地がない。

だから、生前の名乗りに尊・命をつけたものと、

全く形を変えて諡号(おくりな)にしたものとがある。

仏教の「戒名」には居士や大姉をつける。

また生前の名とは無関係な、

しかし故人の人格を偲(しの)ばせる別名をつける。

これはギリシャ式ではなく卑弥呼の仏教の遺物である。

間違いなく誉田別尊も志那都比古もこの仏教の戒名に当たる。

こう理解した瞬間に、

在来は放置状態に置かれていたそれら神名群は、

貴重な過去帳として重要な存在に飛躍したのである。

かくて『上っ巻』の神名は日本史にとって、

史実を復元する文化財の一大宝庫になった。

隅田先生の発見は小さなものではない。

それを更に応用し拡大してより充実させる必要がある。

『参考』

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2010年7月26日月曜日

「火中」もまたカゼヘの当て字の変化

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:19頁

「隅田正会員の寄稿」

垂仁天皇記を見てみよう。

これも冒頭から

伊久米伊理毘古伊佐知命、師木の玉垣宮に坐まして天の下治らしめき。

この天皇 沙本毘古命の妹 佐波遅比売を娶して生ませる御子 品牟都和気命。

とあって、品牟都和気=シナトワケと読め、本がシナと読めた時は、

沙本毘古=サシナ毘古、沙本毘売も=沙品=サラシナと読めばすべて意味が通じてくる。

同じく沙本のはやさめで有名な、御子の誕生を眺めてみよう。

「凡そ子の名は必ず母の名づくるを、何とかこの子の御名を称さむ」とのりたまひき。

ここに答えて白ししく。

「今、火の稲城を焼く時に当たりて、火中に生れましつ。

故 その御名は本牟智和気の御子と称すべし.」と曰しき。

とあるが(中略)

火=カ、中=ジュウ、カジュウ=風王。火のヒに気をとられて、

火中をカゼと読むことの難しさはあるが、火中も風の当て字と考えると、

シナトワケもすっきり意味が解る。

仲哀天皇記の「大鞆和気命 亦の名は品陀和気命。」も一目瞭然、、

テーマは風である。

神功皇后妃も例の名替え事件が出て来て、伊奢沙和気大神との名替えも、

もっと深い意味が解るであろう。

応神天皇記は冒頭の文だけではない。いたる所に見をみることが出来る。

『参考』

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2010年7月25日日曜日

『風の神』だった応神天皇!

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:18頁

「隅田正会員の寄稿」

当面の問題として簡単な答えをあげると、

「品陀和気=シナトワケ」と読むのである。

二番目に出てくる品陀真若王もホンダマワカ王ではない。

真若=シンジャクであり=朱雀であり、シナトシジャクと読む。

こう読めばこれも意味が透明になるであろう。

(中略)古事記 

上っ巻のはじめに出てくる風の神=志那都神である。

応神天皇は志那都神の系譜をその体内に持っていることになるが、

この事実は二重、三重に深い意味がある。

(中略)紙数に限りがあるので、ここに記述することは無理なので控えるが、

二人の応神天皇に当てた、紀記や歴史資料の全縞に、

この本牟智=シナトという考えを当てはめていただきたい。(中略)

古事記 中つ巻 神武天皇記の冒頭をみてみよう。 

神倭伊波札毘古命その同母兄五瀕(いろせいつせ)命と二柱と書き出している。

同母兄は従来読みでは解らないが、同母兄=トモエと読むとすぐ解る。

五瀬(いつせ)=イセ=伊勢でもあるが、

神風の伊勢~とあって枕言葉なるものが出てくるが、

(中略)五瀬(いつせ)=イツセ=イセ=伊勢=風=五瀕=カゼの

図式が正しく理解出来るであろう。

同母兄五瀬の命=トモエカゼの命である。

上記が解ってみると応神天皇の名乗りに大鞆和気が入り、

トモエ・巴の意味が風と共にあることも

よく理解出来るであろう。

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2010年7月24日土曜日

風と応神天皇

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:17頁

「隅田正会員の寄稿」

[(前略)……私なりに、私の視点でこの天皇について解っている事を展開してみたい。

はじめに、基本的な事だが、確認の上でも

古事記の応神天皇記を開いて見ていただきたい。

文頭だけ筆写すると

品陀和気命 軽島の明宮に坐しまして天の下治らしめき。

この天皇 品陀真若王の女、三桂の女王を娶としたまひき。

という書きだしである。

ここで確認したいことのひとつは、この文頭にある如く、

この天皇の名、名乗り、命名(みことめい)は、『記・紀』ともに

日本書紀 誉田別命   (ホムダワケ、コンダワケ)

本都別命   (ホンダワケ、ポントワケ)

古事記  品陀和気命  (ホンダワケ)

品田和気命  (ホンダワケ)

品牟都和気命 (ホムツワケ)

本牟智和気命 (ホムチワケ)

大柄和気命  (オオトモワケ)

品陀天皇   (ホンダ・テンノウ)

等と記述され( )内の様に読み 呼ばれ 認識されて来たという事である。

つまり応神天皇=ホムダ・ホンダ・ホムツ・ホムチ天皇が定説であり通称なのだ。

これは誰もよくご存知の事である。

それを最初に取り上げたのにはわけがある。

この天皇を知るにあたって、この名、名乗り、

命名(みことめい)に焦点を絞って追求していこうと言うのが、

今回の私の視点であり、

テーマであるとまずご理解いただきたいからだ。

そしてそれは はじめでもあり終りでもある。

言語復原史学員の皆様であれば、

紀記に見られる(名乗り)の構造については、

よく精通しておられると思うが、

ここでもその事が大変重要な意味を持って展開されて行くことになる。

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2010年7月23日金曜日

大発見!『神話』部分に及んだ名乗りの働き

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:16頁

以上で品陀別・応神天皇の問題は、

その一族の構成と細部の歴史まで一応全貌がわかった。

だが『記・紀』の記事がどういうものか?

と検討する上では、まだ重要な仕事が残っている。

それはこうした名乗りが歴史部分だけでなく、

従来『神話』とされて誰も疑わなかった部分にも

大きな影響を与えていたという事実である。

それを発見、ご寄稿いただいたのは、

先に淡路島方言などを

ご教示いただいた隅田正会員である。

寄稿としてはやや長文なので

原文のまま本講に掲載することは不可能だから、

一部要約させていただいたが、

その点はご了解を賜りたい。

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邪馬壹国から大和朝廷まで続く名乗りの真価

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:15頁

そこで冒頭 頁3の「

孝元天皇の后妃皇子女」の系譜をもう1度みてみると、

河内の名乗りは

孝元天皇妃の波邇夜須毘売の父・河内青玉として出てくるし、

葛城も皇子女の葛城高千那毘売として出てくる。

この妃の子は味師(甘美)内宿祢だが、

その腹違いの兄弟・建内宿祢の子が葛城長江曽都毘古で、

その名乗りを引き継いでいる。

それをまた葛城野伊呂売が継いで応神天皇の妻になっているが、

この名乗りは皇后の高木入日売命と同じものだと前号でお話しした。

この皇后の子が伊奢真若命で、

それがまた異母弟の

仁徳天皇の皇子・大江伊耶木別命=履中天皇に受け継がれている。

その履中天皇の弟・墨江中王も倭王・済で倭済(イズミ)、

応神天皇妃の日向泉長比売の名乗りを継いでいる。

こうした継承の中でも古さがよくわかるものは

応神天皇の長子・額田大中日子命である。

それは邪馬壹国樹立当時の官名・奴佳鞮の継承だ。

それがさらに天智・天武時代の7世紀にも続いていたことは、

額田の女王(おおきみ)という高名な女牲の実在が証明している。

こうした「名乗り」は、

その人物の出自と血縁関係と、

縁故の遠近を明瞭に記録しているから、

その継承の細かい経緯不明でも、

かなりの精度で事件が推理できる。

だから天皇たちがもつ歴史が、深く理解でき、

史実復元に強力な再生力を発揮するのである。

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2010年7月21日水曜日

天草の進出と倭の五王の名乗りの完璧な証言

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:14頁

このツナ・チヌ・キノが淡路島から和歌山県へ達した時代が、

倭の五王時代の初期だったことが、

珍の名乗りをもつ宇遅(ウチヌ)和紀郎子の存在で明瞭なことは、

もう熟知して戴いているが、

そのとき天草もまた一緒に紀州にやって来ている。

だから海草郡の名が残っているのだ。

この文字をみると、県の外周を海に囲まれているから、

そこに生えている海草が住民の経済を支えているので、

特に美味なワカメなどの産地が海草郡と呼ばれたと錯覚し、

説明されそうであるが、

ツナがスモトとセットになってやってきて、

ツナがチヌからキノ国にまでなっているのをみると、

海はアマだから海草はアマクサ、

これも九州から運ばれてきた重要な世襲名詞、

生きた歴史を物語る古代国名だったと納得がいく。

淡路島にはアマクサはないがアマ=阿万はある。

淡路の海人(あま)は『古事記』の歌謡でも有名である。

ではそれらは名乗りにはなっていないのか?。

それが「建内系譜」にある甘美内と許勢なのである。

甘美内は奄美だからアマ、

許勢はコセでクサとは別物に見えるが、

天草の草は古謝・狗邪だったのだから、

大隅訛りならクセになり、

それを本土語らしく書いた当て字「許勢」は不思議でなくなる。

そして出水(イヅミ)が倭済に、

川内(コウチ)が興に、

高志(タケシ)が武に、

揃って名乗りとして世襲されたから、

済はスミ、

興はコウ、

武はタケシと発音して、

その出身地と家系の歴史を証言しているのである。



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2010年7月20日火曜日

解けた卑弥呼女王共立と『応神神話化・抹殺』の謎

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:13頁

これで過去に誰ひとり考えもしなかった

「卑弥呼はなぜ?倭国全体の女王に共立されたのか?」

という潜在する疑問が解けた。

それは『仲哀天皇記』や『神功皇后紀』の前半に

書かれた部分に一致していたのである。

しかしその後に、同じ名乗りをもつ<壹與の記事>が混入してしまった。

それにさらに世襲された<歴代の建内宿祢の記事>が加わって、

宿祢は300才という馬鹿げた長寿者に化けてしまった。

こうしたことをそのまま何の検討もせずに、

無考えに受けとった戦後の唯物史観学者?は、

「応神天皇記事は非常識な

『神話』に属するもので、歴史とはいえない」と、

社会科の教科から除外してしまったのである。

自分の無知、無能を国民に押しつけ、

日本人を建国史をもたない未開人にした彼等の行為は、

近い将来、入念に検討されてその犯行が赤裸々になり、

全人類の非難を浴びることは今から眼に見えている。

その神話的野蛮紀事とされた建内宿祢の系譜は、

本号冒頭 頁3の「孝元天皇の后妃皇子女」の系譜に、

卑弥呼の兄の第8代孝元天皇の皇孫、

第9代開花天皇の皇甥と明記されている。

その同一人が第19代の応神天皇を旅に連れ歩いて、

名替えをさせたと信じるほうがどうかしているのである。

そして念入りに系譜を検討すれば、

木宇豆=木珍と木角と木菟野のように、

当て字が異なるだけの世襲名が見つかる。

名乗りの世襲は現代にも続く常識なのだ。

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2010年7月19日月曜日

2人の応神天皇神功皇后の区別点

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:12頁

以上が「軽(鹿児(カル))の

明宮=アカイヤ=赤国=五彩圏の南国=朱雀」に都した

応神天皇・八幡である。

そしてもう一人の応神天皇=仁徳天皇の父は別にいる。

それが先にみた津奈木で名替えをした応神天皇である。

こちらは鹿児島ではなく熊本にいて天草を本拠にしていた。

その都が本渡という名を今に残しているので、

やはりポントスという名の持主だったことがわかる。

このポントスの名が、

二人の応神天皇を混在させた犯人だったのである。

この人物の名も、

ポセイドンが百済出水(ポセイズン)に2分割されたように、

二分された痕跡を残している。

本渡栖本(ポントスモト)で

ポントスのモト(本部・センター・都)なのである。

これが淡路島の洲本の名の出発点なのだ。

この淡路島のほうは

倭の五王時代に移り住んだ人たちの国名だったが、

その一族には、

少なくとも卑弥呼時代に朝鮮半島に進出した人々がいた。

それは天草という地名が記録証言している。

天はチヌで津奈木のツナであり、

淡路島の津名であり、

珍の名乗りのもとであることはもうよくご存知である。

では草は何か?

これは沖縄の「古謝=クジャ」であり

『魏書倭人章』にある「倭の北岸・拘邪韓国」である。

この進出が神功皇后・卑弥呼の業績で、

ソナカ天皇=仲哀の皇后として、

倭国大乱当時、天皇早世の後に続いた倭国女王共立以前の彼女の、

奮戦の遺物=「神功皇后の三韓征伐」の実証なのである。

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2010年7月18日日曜日

応神天皇記事のポントスからコンタへ

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:11頁

では以上を総合して得られた応神天皇の真相はどんなものなのだろう?。

それはまず抄本毘売=狭穂姫が産んだ悲劇の皇子から始まる。

狭穂姫は南九州の島で、

後に垂仁天皇になった高句麗の山上王位宮の皇后になるが、

兄・狭穂彦と夫との政権争いに巻き込まれて、

愛児を残して戦火の中に死ぬ。

皇子は海神の名をとってポントスと名付けられたので、

本都子と当て字されたが、

記録者が変わると本都和子から本牟智和気と書き、

品陀真若、

郊彘(日本読みコウテイ・南九州読みコンテ・朝鮮語読みホムディ)と

記録ごとに変わってしまった。

その幼児を狭穂姫の義妹カグヤ姫、

後に女王になって天照大神やオオヒルメと呼ばれ、

赫居世と書かれた、

あの壹與が育て、

位宮が卑弥呼政権を倒して隼人町を

巴利国から邪馬壹国に変えたとき同行し、

ポントスを隼人町に残して九州北部を平定した。

ポントスはパハリ国王と呼ばれ八播と当て字されたが、

巴利国人はパーリ語化してコンタ=幡(はた)と呼んだので、

後世には播の字に酷似する幡の字が正しいとされて、

八幡と書くのが定着してしまった。

郊彘というのはコンタへの当て字で、

誉田は本都をホンタと読んだものへの当て字・ホムタだが、

これをコンダと読むのは、

コンタが正しいと信じる仏教徒のコジつけの遺物である。

その八幡をヤパナと読んだものは、

広く東アジアでギリシャ人を指す呼び名になっている。

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2010年7月17日土曜日

名替え記事と系譜が告発する『日本書紀』の曲筆

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:10頁

「応神名替え」とは、単なる幼稚な「夢物語」ではなく、

こんなに重要な史実と、天皇政権の中枢の推移とを記録した、

特別に重大、かつ貴重なキーそのものだったのである。

それを

『古事記』は綿密に記録し、

『日本書紀』はごく粗雑に、

申し訳ていどにしか載せていないし、

それに付随した『系譜』の記載もまた同じである。

これは『記・紀』編集者の立場の違いと、

その記事内容の信頼度をはっきり教えている。

だから「応神名替え」と『系譜』の内容と質とは、

『記・紀』の記事を評価する文献批判の重要な判定材料として、

最も重要な地位を占めていることを、

よく認識していなければならない。

『日本書紀』がどう記事を歪めたか?

それは『日本書紀』縞纂者である政権が、

応神系の天皇たちをどう敵視していたかという記録でもある。

『新撰姓氏録』を深く分析すると仁徳天皇系の子孫は完全に疎外され、

また『延書式』の祭祀基準をみても天智天皇が超特級扱いを受けているのに、

仁徳天皇は実に疎略に扱われている。

それと同じ差別思想が『日本書紀』にも色濃く見られるのである。

それは何故か?。

すでに明らかになったように応神天皇は明確に高志=高句麗系である。

それに対して天智天皇は新羅王・金春秋である。

高句麗を不倶戴天の仇放とするようになった新羅系大和政権が作ったのが

『日本書紀』だからである。

『参考』

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2010年7月16日金曜日

「キ」の尊称の由緒と建国史に占める重要度

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:9頁

では気比の大神とは何か?。

頁3~4の系譜に木の角の宿祢、

すなわち狗奴国=クマの津奈木(ツナ王=高志全体の王)

という最高位を名乗る人物がいる。

だから彼こそがいわゆる「天皇」に当たる男性なのだ。

この系譜では彼は父・建内宿祢の5男であるが、

兄たちを措(お)いて大王=天皇の位についたという名乗りをもち、

その祖母は木の宇豆(ウヅ)比古(ウヅは珍とも書く)の娘である。

「木」の本家(ほんけ)に生まれた女王で、その子が建内宿祢を名乗り、

その子の一人がまた「木」の本家を継いだのである。

このことは講義録(院)09の頁23

「応神天皇の后妃皇子女」系譜を見て戴くと、

皇子の中に「木菟野命(キのツノのミコト)」が

いることで一層信頼度を増す。

拘奴国王の王統が連綿と守り続けられていたことがわかるからである。

在来は「木の角の宿祢」など、

とるに足りない臣籍の1人物として、

気にもとめなかったのが日本史家の常態だった。

だがそれだと、一体なぜ?…応神天皇ほどの大天皇の皇子が、

そんなつまらない家来と同じ名をつけられたのか?理解に苦しむが、

学者はそれらを名乗りと気づかず放置していたのである。

しかしその「珍」は

倭の五王時代にも伝えられていた重要な天皇の名乗りであり、

キは貴・岐などと書き、

「君」のキミは王(キ)と女王(メ=ミ)を意味し、

また五彩圏の中央の色=黄をキと

発音することなどにも深く関わる特別な発音だったのだ。

『参考』

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2010年7月15日木曜日

名替えしたのは八幡から百年以上後の応神

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:8頁

『記・紀』の書く天皇の年齢や治世年数は、

でたらめが多くて使えないから、

正確な中国正史文献の記録を使うと、

八幡の義母に当たる

オオヒルメ=壹與が邪馬壹国女王に即位したのが247年、

『宋書』の倭王・讃の初貢が421年で174年後である。

讃は名替えした応神天皇の子だから、

この初貢の時74才だったと仮定しても、

彼は八幡が100才以上になってからの子になる。

明らかに八幡と応神は別人であって、

八幡の父である垂仁天皇がそれまで生きていて、

伊奢沙和気大神として応神と名替えをすることは絶対にありえない。

伊奢沙は間違いなく五十狭茅王であっても、

それは名乗りの継承者であったに過ぎず、

位宮から幾代目かのイサチまたはイッサッキン=軍君だったのである。

だからそれは津奈木にいたツナ王だった人物が、

木の角=クマのチヌ王という地位を譲ってイサ=伊佐に隠退したか、

イッサッキン=軍君=大元帥=天皇=クシャトリヤの地位も

併せて譲ったかという事件だったのだ。

では名替えの相手は誰だったのか?。

それは応神天皇の后妃の父、品陀真若王以外にない。

共にもつ品陀の名は、

彼が女王家へ婿入りしてその義父の名乗りを継いだと語っているのだ。

この真若王は卑弥呼政権の景行天皇の孫である。

景行天皇の記事は熊本県と大分県とが主体だから、

その時、応神は西の66国を征服して、

倭国は完全に彼のものになったのである。

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2010年7月14日水曜日

名替えの相手は垂仁天皇か?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:7頁

その津奈木で名替えをした相手は

『日本書紀』では「笥飯(ケイヒ)大神」、

『古事記』では

「伊奢沙(イササ)和気大神・御食(ミケ)津大神・気比大神」だから、

笥飯と気比は同じで「木」の国のこと。

御食津は名替え後に生まれた無関係な別名だから、

問題になる名は伊奢沙和気だけである。

これは仁徳天皇の倭讃=イササとも合うが、

本来は何を意味する名乗りなのか?。

津奈木から遠くない東南東に伊佐(郡=鹿児島県)がある。

これはイサナキの名乗りで検討済みの通り、

伊勢に通じる王名で、

「石」の当て字で表現されている例が多いのも見た。

垂仁天皇の「五十狭茅=イサチ」や

その兄弟の「五十狭芹=イサキン」もその名乗りの変形である。

これを伊奢沙と比較してみると伊奢はイサで、

沙は抄・炒などと同じくショウの音をもっているからイサショウになる。

沖縄音ではシもチになるから、

これはイサチ王=五十狭茅王への当て字でもある。

単純に受けとれば応神天皇は垂仁天皇と名替えしたことになる。

この名替えを『日本書紀』は「易名」という字で表現している。

中国では政権交替を易世革命と表現するから、

『日本書紀』は「易名」に

政権交替の意味を持たせているとも見える。

では幼い応神天皇が建内宿祢に連れられて熊本県の津奈木へ行き、

イサチ大神と易名した、

その政権交替の相手は、

邪馬壹国の位宮・垂仁天皇だったのであろうか?。

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2010年7月13日火曜日

高志の分化が記録歴史と豊富な物証

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:6頁

高志は高氏でもあり、

タカシは大隅語ではタケチでもある。

コシと読むと大隈語ではクシ。

津奈木の南にある鹿児島県の串木野は「高志王(クシキ)ノ」だし、

甑(コシキ)島は「高志王島」だ。

これはクシ来野=高志が来た野。

コシ来島=高志が来た島でもあり、

津奈木が占領される前の統一経過と経路が記録されていることは、

その配列から言っても間違いない。

すると見逃せない伝承が八代にある。

「河童上陸の地」という石碑が今も建つ遺跡が現存しているからである。

河童をわざわざカッパという特異な発音で読むのは、

カルデアの隣人カッパドキャ人が来たとまでは断定しなくても、

その名が影響しているかどうかという研究課題であり、

高族の祖である

カリエン=カルデアン=カレン族の風俗「おカッパ頭=断髪」

(拙著『日本人のルーツ』=保育社の『南島漂流記』挿絵スケッチに見る

沖縄のギリシャ型の髪型と服装と三叉矛)

との関係は、江戸時代まで残っていた沖縄風俗と、

現在のカレン人の風俗と古代ギリシャ風俗資料が大量に実在していて、

否定することは不可能である。

これらの木・串・高志の共通音は「ク」である。

クの国=久野国=狗奴国=ク国(マ)=熊・肥・球磨はこうして生まれた。

その実体は高国(クマ)だったのであり、

建内・武内ノ高志(タケチ)だったのだ。

「気比の高志の前の角鹿」は

「木国(クマ)の建内の、以前(もと)の角鹿、今の津奈木」以外にない。

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2010年7月12日月曜日

木角宿祢が教える応神名替えのあった土地

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:5頁

前号では系譜を観察すると

実に様々な歴史の真相が見えてきた。

それは名乗りが、彼等の所領を明示しているからで、

それはまた事件がどこで起こったかを記録しているし、

さらにその周辺の地名が語る歴史が、

それを正しく脚色して、劇的な効果まで挙げるからである。

次は実例として、

まず前号で未完の「応神名替え」を取り上げてみよう。

名替えの相手は

『古事記』

「伊奢沙(イササ)和気大神・御食津(ミケツ)大神・気比大神」

場所は「高志前角鹿(ガ)」

『日本書紀』

「笥飯(ケイヒ)大神」(『神功皇后紀』十三年春二月)

場所は「角鹿」である。

笥飯=気比で、角鹿は共通している。

これを前ページp.4の建内系譜と見比べると、

角を名乗るのは木角宿祢である。

気と木も共通音「キ」をもつ。

前号でお話ししたように

南九州語では気・木をキヒと発音するから、

気比はその振り仮名用の当て字である。

角我はツヌガと発音されるから、我はガへの当て字だ。

建内氏はその名乗りで沖縄を本拠とした

高族であることを表現しているのだから、

沖縄語だとチヌグァでチヌ子やチヌ小だ。

すなわちグァは本土語の「コ」である。

この「コ」は木の古音でもある。

こうみると角我は角木、

現在の津奈木と同じものになり、

木角の逆になるが、木ノは沖縄音チヌで角もチヌ。

木も角も同じだから逆転しても同じ、

気比の角鹿とは津奈木だった可能性がある。

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2010年7月11日日曜日

建内宿祢一族の系譜

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:4頁


「建内宿祢一族の系譜」


母の父   両親          F1       子孫の姓氏

比古布都押信┐
│    ┌波多八代宿祢┬波多・林・波美・星
│    │      └川・淡海・長谷部
│    ├許勢小柄宿祢─許勢・雀部・軽部
│    ├蘇賀石河宿祢┬蘇我・川辺・田中
│           ├・高向・小治田
│           └・桜井・岸田
│    ├平群都久宿祢┬平群・佐和良
│※   │      └・馬御樴
木宇豆比古─山下影日売┴建内宿祢┼木角宿祢───木・都奴・坂本
├久米摩伊刀比売
├怒伊呂比売
├葛城長江──┬玉手・的・生江
│ 曽都毘古 └・阿芸那
└若子宿祢─────江野



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2010年7月10日土曜日

孝元天皇の后妃皇子女

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:3頁


「孝元天皇の后妃皇子女」

大倭根子日子国玖琉命(孝元天皇)

  后妃の父     后妃       皇子女        皇孫

┌大毘古命────┬建沼河別命
│         └比古伊那許士別命
┌───────内色許売命 ─┼少名日子建猪心命
│        (コメ)     └若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)
│                  
│                          ┌葛城高千那毘売─┬味師内宿祢
└ 内色許男命─伊迦賀色許売命┤比古布都押信命─┤(甘美)
(カガ)      └山下影日売───┴※建内宿祢
                                                 
河内青玉──波邇夜須毘売──建波邇夜須毘古命
(ハニヤス)



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2010年7月9日金曜日

歴史の真相を露呈させた言語復原史学の威力

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:32頁

もうお気づきと思うが、

地域は九州から近畿に飛び、

また<武内宿祢一族の名乗り>が揃っている。

過去の史観では武内宿祢一族というのは、

完全な臣籍の人々で天皇家とは

僅かな姻戚関係にあるだけとされてきた。

だがこの結果を見る限り、

彼等は応神天皇が入り婿した女王家そのもので、

『記・紀』が建前とする男性天皇系譜は、

無理やりこじっけた後世の作品だという真相を露呈している。

また「倭の五王」というのも、

単に中国で記録し得た王の数が5人だっただけに過ぎず、

また真実の王たちは

『記・紀』が書く架空の物語りとは

全く別の活動をしていたことも読み取れる。

名乗りは正しく読むと、

その政権の統治方法、その勢力圏、

その移動拡大、統治者の異動変化、

その原因と結果、といった細部まで読み取れ、

生きた歴史がありありと映画をみるように映し出され展開する。

本号の例では仁徳天皇の后妃がもつ旧名のように、

名乗りが婚姻相手と食い違うのをみれば、

そこに実在した再婚に至った事件が詳細に見えてきて、

文献による歴史復元の要素が

名乗りに凝縮しているのがはっきりわかる。

そればかりか『記・紀』その他の文献の記事が、

どれくらい曲げられているかを、明確に立証する。

それは本号の簡略な検証だけでもよく理解でき、

私たちの<言語復原史学>が

いかに成力をもった生きた学術であるか、

よくご確信していただけたと思う。

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2010年7月8日木曜日

九州から近畿へ飛ぶ皇子女名

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:31頁

次は皇子女の名乗りを簡単に見てみよう。

額田は『魏書倭人章』の官名・奴佳鞮。

高目は<タカマ>で高天と同じもの、宮廷を意味する。

木荒田はキイ=霧=霧島と

安楽(大隅)国(ダ)、

荒田(鹿児島市)で安羅国。

根鳥はネチョウで根占。

阿部はアメで阿波・淡、

『隋書』の阿輩=阿波王(アハイ)。

阿貝知三原は淡路島三原郡。

木菟野はキノ=紀伊・チヌ=姐奴国⇒茅沼・ツナ=津名。

三野は弥奴淘から三瀦。

宇遅和紀と宇遅若は倭とチヌ=茅沼・ツナ=津名で津名王と王妃。

八田は波多で「孝元天皇記」の波多八代宿祢の2重名乗りが示すように八代(肥後)。

女鳥の女は沖縄~大隅発音では

ミ、ミトリは緑だが当時はこれに合う地名はない。

「応神天皇記」の「蟹の歌」に伊知遅島、美島があり、

伊地知姓は鹿児島独特の姓だから、

これは同県の三島とみると、

この女王と速總別の悲恋が具体化する。

若沼毛二俣は和歌山と沼島と紀州にまたがった王。

速總別はハヤ・ソオで隼=巴利国と曽於。

大羽江と小羽江はウハイとヲハイで倭⇒上井(大隅と備後)と尾張。

檣日はハタヒ、八代と火の国。

川原田はコウハルダで今の高原(日向)国。

玉はツマ・タイマで

投馬国・妻・当摩(日向)・

但馬・当麻(大和)。

忍坂はニンバン=ニルバナ(臨終)への当て字で、

大中日女は額田大中日子と同じく管掌する仕事の官名。

登富志はトフシで答志(志摩)。

迦多遅は加太(和歌山)道(ジ)。

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2010年7月7日水曜日

明確に確認できた倭の五王の皇統

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:30頁

これはさらに確認できるものがある。

それは<イザマワカ>である。

石日売が産んだ皇太子は<伊耶本和気>。

これは<伊邪木=イザナキ>だとよくご存知だ。

高木入日売-伊奢真若(イザマワカ)。

葛城野伊呂売-伊奢麻和迦(イザマワカ)。

石日売-伊耶本和気だから、

女王が産んだ皇太子が<イサナキ>の名乗りをもつ原則がわかる。

また<石>=<イシ>と<イサ>が共通音をもっている。

<砂=イサゴ=石子>、<石=イシ>、

苗字の<石動=イスルギ>、<石の上神宮=イソのかみ>、

と見てくるとサシスソが揃うから、

<イセ=伊勢>もまた<石>と同じものだとわかる。

すると名替えの<伊奢沙(イザサ)和気の大神>も、

垂仁天皇の五(イ)十狭(サ)茅(チ)も

全てがこの<石>と同じものとわかる。

ではこの<石>は何を意味するのか?。

パーリ語でisiイシは卑弥呼の観世音菩薩と同じ仏であり

<聖(ひじり)者=日知りだ。

日知りは日を見る日見子にも天照大神にも通じる>から

石日売が女王であり最高位の存在で、

品陀真若も応神も夫の仁徳天皇も皆、

「石の王(イサナキ)」なのだ。

これで<イサナキ>は決して神話時代だけの存在ではなく、

3世紀の伊声耆(イサンギ)と五十狭茅(イサチ)も

彦五十狭芹彦も同一の名乗りだったのであり、

履中天皇もそれを世襲した一人だった。

だから倭の五王たちは

垂仁天皇の邪馬壹政権の後継者だったことが明確に確認できた。

ここまできて始めて

何故?名乗りが倭国の真の支配者を教え、

真の史実を明瞭に復元することができるのか、

はっきり明快に理解できたのである。

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2010年7月6日火曜日

簡単に解ける「2人イザマワカ」の謎

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:29頁

葛城は「姶カツ・良ラ・王キ」への当て字。

鹿児島に古い葛城姓を残し、

沖縄本島南部の勝連城もそれだから、

奈良・和歌山両県の<葛城>を考える必要はない。

むしろ伊奢麻和迦(イザマワカ)の母という方に問題がある。

高木入日売の皇子に同名の

<伊奢真若(イザマワカ)>がもう一人いるからである。

『古事記』は后妃皇子女の総括部に、

皇子女は「併せて26柱」とわざわざ書いているが、

このリストを数えると27人になるから、

イザマワカは一人。

その母も一人。

葛城野伊呂売は高木入日売の別名なのである。

野は助詞の<ノ>。

伊呂売は入日売の方言化、

<葛城>も<高木>の方言化とみると<城>も<木>も<キ>。

<葛>は<カツ>、<高>は<カウ>、<高木>を<カウ津キ>と読めば、

南九州人は短縮して<カツキ>と発音し<葛城>と同じものになる。

系図の末尾に書かれた疑問の母子は、

南九州方言を知らない<太安萬侶>が、

番外としてメモっておいたものだったとわかる。

これで<葛城>という名乗りが、

<高木>と同じものであると確認できた。

するとこれまで単なる武将としか認識されていなかった

葛城曽都毘古(襲津彦)や、

后妃を多数出し続ける葛城氏の意味が全く変わった存在に見えてくる。

曽都毘古は仁徳天皇の皇后・石日売の父だから、

石日売も高木入日売であり女王で、

仁徳天皇のほうが入り婿の

<クシャトリア(大元帥)>だということになる。

嬶(かか)ア天下(でんか)に見えていた

仁徳夫妻の関係は自然なものだったのである。

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2010年7月5日月曜日

九州全域を分割支配していた応神政権

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:28頁

<息長>は<オキナガ>と読まれるが、

沖縄発音<ウチナー>、<沖縄>を<ウチナー>と読むのと同じである。

また沖縄には<翁長>と書く姓があるから、

<沖縄>と<息長>は切っても切れない関係にあることがわかる。

しかし私たちは、<息長>は<ソナカ>に対する当て字で、

それが<ウチナー>と読みかえられたものに、

はるか後世の元禄時代に

新井白石が<沖縄>と当て字した事実を知っている。

応神妃の<息長真若中比売>はその古い沖縄を名乗りにもっている。

応神朝の南方圏の範囲がわかる。

糸井比売は伊都(佐賀)または怡土(いと)郡(福岡県糸島郡の古名)。

「井・イ」は古代に我が国に入っていた

マレー語で「王」を意味する称号だったから、

いずれにしても九州北部を領地に与えられていたか、

管轄していた女王を意味する名乗りである。

日向泉長比売の日向は、

4~5世紀当時は大隈から宮崎県を一丸とした広域で、

<泉>は<出水>、

<長>は<長島>から<長崎>だと考えられるから、

これまで見てきた后妃の所領の残りの大半を意味しているとみると、

応神政権の支配範囲が九州全域に及んでいたことになる。

迦具漏比売。

この<カグロ>は<神楽を意味する神事担当の職名>にもみえるが、

母音の<オ>を発音しない人々の名ではない。

<漏>を<満>にすると<カグマン>で、

<カグッマン>(鹿児島の)という大隈語の当て字になる。

南九州人ならすぐ気づくが、

<太安萬侶>は<漏>の誤りに気づいていない。

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2010年7月4日日曜日

倭国史を雄弁に語る応神后妃の名乗り

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:27頁

次の宮主八河枝比売>は、

<ミヤヌシカワエヒメ>と読まれてきたが、

前半は<宮>、

後半は<河>が主体になった地名で、

応神の都が軽の明の宮、

すなわち鹿児の阿鹿児の宮=八幡の全国総社である

鹿児島神宮にあったことは動かないから、

同じ鹿児島県下に並んでいる

<宮之城>と<川内>を意味する当て字であることは、

この二地域が神功皇后時代に重要な役割を果たした

史実を知っているので直ぐ読み取れる。

宮之城は発音は、ミヤンジョ、

古字で「宮の荘(みやぬしゃう)」、

この古代音<ミヤヌシャ>への当て字・宮主八。

河枝は<カワシ>で沖縄~大隈発音<カワチ=川内>、

今の<センデ>である。

そこが<河内>に至る<倭国の重要地名のルーツ>であることは、

そこに

河内古墳の原始型として知られる<神代3山陵>の一つ、

可愛山陵(エノサンリョウ)があることでもわかる。

次の袁那辨郎女は<袁>を<遠>に換えると

<トオナベンまたはオンナベン>、

薩摩半島南部の中央を占める川辺郡は、

今<カワナベ>と発音するが、古音は<コオナベ>で、

助詞・<ン>がつくと<コオナベン>、

これは<小袁那辨>に合い、<大袁那辨>があったとすれば、

<小>を<ヲ>と発音したから<ヲオナベン>と<オオオナベン>とになる。

川辺郡は後世の当て字で、

これも用明、孝徳両天皇の名乗りにある豊日国=トヨシマ=今の

兵庫県豊岡市と大阪府豊島郡であるが、

この2地点を結び、

後者に密接して兵庫県東部に移動し、

宝塚市、川西市、猪名川町を含む

重要地名になっている。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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2010年7月3日土曜日

女王制国家の証拠と男性天皇の地位

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:26頁

これは后妃たちの家が天皇の出身よりも

上位にあったことを証言している。

どんなふうに上位にあったか?、

それは彼女たちの名乗りでわかるはずである。

見てみよう。

高木入日売>の高木は、高いをタケといい、

<キ>を<チ>と発音する大隈発音で<タケチ>。

武市や武内・高知と同じで、

タケシ=倭王・武>にもつながるし、

<高>を<コウ>と読めば<コウチ>という発音で

高知・川内・河内・蓋(コウ)歯(シ)王・倭王・興にもつながる。

天孫降臨では高木の大神と天照大神が天孫を降臨させるが、

そのまま名乗りをもっているのだから、

この皇后が、実は女王で、

応神はそこへ婿入りしたことは間違いない。

だから彼の地位は、

祭祀王ブラフマン(婆羅門)に仕える

軍事王クシャトリア(大元帥)>にあたり、

その官職を子孫の<倭の五王>たちも

「七国諸軍事」と表現しているから疑問の余地はない。

その妹・中比日売は

ナカと読むと福岡を流れる<那珂川に、

ナカツと読むと大分県中津市に、

その後身は大阪市の中津>に及んで<>倭国の発展移動の道筋を示すし、

弟日売も垂仁天皇・山上王・位宮が

主人公である竜宮城伝承の乙姫に始まって、

オトの大隈発言が<ウト>であることに注意すれば、

宮崎県の鵜(う)戸神宮>や

熊本県の<宇土(うと)半島、

広島県呉市の<音戸の瀬戸>にも結びつき、

やはり倭国の移動発展の道筋に、

重要な名乗り地名として分布して残っている。

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2010年7月2日金曜日

応神天皇は婿養子のポントス

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:25頁

これが応神天皇の家族一覧表である。

天皇の名乗り・品陀和気と同じ「品陀」の名乗りをもっているのが、

3人の后妃の父だということに注目しよう。

天皇の母は神功皇后で気長足姫(息長帯姫)、

父は仲哀天皇・帯仲日子(足仲彦)だから、

応神天皇の名乗りは后妃の父から受継いでいることは一目瞭然である。

しかし品陀真若と品陀和気は文字も書き方も異なっているから、

従来は別の名をもつ別人だとして疑わなかった。

だが、それを代々相続される「名乗り」としてみると、

別の名だと決めるわけにはいかない。

『古事記』の用字は同じ名でも、

例えば<タジヒ>を<丹比・多治比・蝮>と書く。

だからそれ以上に近い

<品陀真若>と<品陀和気>は一層、

同じ名乗りに見える。

確かめてみよう。

品陀真若は<ポントス>への当て字とわかっているから

<品ポン陀ト真スン若=別(びち)=日子(びち)>。

ポントスの日子という名の沖縄~大隈発音だとわかる。

<若>と<和気>は同じで<別>だから<ツ>と<ス>は共通音だから、

やはりポントス日子への当て字であることに変わりはない。

全く同じ名乗りなのだ。

間違いなく<応神>は<ポントス>として<婿養子>に入ったのである。

だから名を替えた。

その名を婿養子とわざわざ交換したのではなく、

必然的に名乗りが変わったのにすぎない。

『参考』

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2010年7月1日木曜日

応神天皇の后妃皇子女

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:23~24頁


「応神天皇の后妃皇子女(1)」

后妃の父     后妃      皇子女     皇孫

┌額田大中日子命
├大山守命
┌高木入日売命─┼伊奢真若命
│              ├大原郎女
│              └高目郎女
              │
│              ┌木荒田郎女    ┌大江伊耶木別命
品陀真若命─┼中日売命  ─┼大雀命      ─┼墨江中王
│       └根鳥命        ├蝮水歯別命
│               └男浅津間若子宿祢
│         ┌阿部郎女
└弟日売命    ─┼阿貝知三原郎女
├木莵野命
└三野郎女



「応神天皇の后妃皇子女(2)」

后妃の父        后妃      皇子女   

┌宇遅和紀郎子
                   ┌宮主矢河枝比売命─┼八田若郎女
丸邇比布礼意富美─┼         └女鳥王
                   │
└袁那辨郎女   ─── 宇遅若郎女

昨俣長日子    ── 息長真若中比売  ── 若沼毛二俣王      

島垂根       ───糸井比売        ── 速總別命

      ┌大羽江王
日向泉長比売     ─┼小羽江王
└檣日若郎女

┌川原田郎女
├玉郎女
迦具漏比売   ──┼忍坂大中比売
          ├登富志郎女
          └迦多遅王

  葛城野伊呂売   ───伊奢麻和迦王

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