『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:11頁
では以上を総合して得られた応神天皇の真相はどんなものなのだろう?。
それはまず抄本毘売=狭穂姫が産んだ悲劇の皇子から始まる。
狭穂姫は南九州の島で、
後に垂仁天皇になった高句麗の山上王位宮の皇后になるが、
兄・狭穂彦と夫との政権争いに巻き込まれて、
愛児を残して戦火の中に死ぬ。
皇子は海神の名をとってポントスと名付けられたので、
本都子と当て字されたが、
記録者が変わると本都和子から本牟智和気と書き、
品陀真若、
郊彘(日本読みコウテイ・南九州読みコンテ・朝鮮語読みホムディ)と
記録ごとに変わってしまった。
その幼児を狭穂姫の義妹カグヤ姫、
後に女王になって天照大神やオオヒルメと呼ばれ、
赫居世と書かれた、
あの壹與が育て、
位宮が卑弥呼政権を倒して隼人町を
巴利国から邪馬壹国に変えたとき同行し、
ポントスを隼人町に残して九州北部を平定した。
ポントスはパハリ国王と呼ばれ八播と当て字されたが、
巴利国人はパーリ語化してコンタ=幡(はた)と呼んだので、
後世には播の字に酷似する幡の字が正しいとされて、
八幡と書くのが定着してしまった。
郊彘というのはコンタへの当て字で、
誉田は本都をホンタと読んだものへの当て字・ホムタだが、
これをコンダと読むのは、
コンタが正しいと信じる仏教徒のコジつけの遺物である。
その八幡をヤパナと読んだものは、
広く東アジアでギリシャ人を指す呼び名になっている。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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