2015年5月31日日曜日

銅剣と荒神谷遺跡②

 『浦和レッズレディース』
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:886~889頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 銅剣と荒神谷遺跡②

  この遺跡名を「荒神谷」としたのは、

 埋蔵の近くに三本の松木があり、

 同木を神体とする三宝荒神が地元の人々によって

 祀られていたことにようという。

 「三宝荒神」信仰は仏教が普及して以後の信仰名である。

 「三宝」については「三本の松木」に表わされた

 後出の「三方」ともとれるし、

 「銅剣、銅鐸、銅矛」の三つが底にあるのかもしれない。

 「荒神」についても、出雲の神社の鎮座状況からみると

 素盞鳴尊に別称と判断されるが、

 ここではサンスクリット語の「青銅」を意味する āra-kūta に

 依拠していると考えられるが、

 今のところ何れも確証がない。


 「荒神」を素盞鳴尊と前提する場合には、

 これらの銅剣は出雲以外から持ち込まれた可能性が高くなる。

 その他の場合には出雲郡(斐川町)内における製作の可能性が

 高いと考える。

  素盞鳴尊は、『記・紀』神話においては
 
 天照大神と師弟の関係にあり、

 国土建設の役割を果たした祖神の一に並んでいる。

 だが、出雲にとっては外来の神である。

 『日本書紀』巻第一に「素盞鳴尊の行状は乱暴を極めた」

 とある。

 この乱暴こそ「荒(すさ)む」で「スサ」、

 『古事記』では「須佐」『日本書紀』で「素盞」の神名に

 依拠するところである。

 つまり「荒神」である。

 『日本書紀』は同神が「韓郷(からくに)の島」に行ったが、

 そこに留まらず、舟に乗ってこの国へやって来たと語る。

 その荒む様子は高天原で

 天照大神を困らせる物語として描かれている。

 天鈿女命が活躍する天岩屋戸の場面は、

 その乱暴に困り果てた天照大神が隠れてしまったために

 催された事件であった。

 高天原を追放された素盞鳴尊は寄稲田姫を助けて

 大蛇を退治することになるが、

 その大蛇の尾からは『古事記』の草那芸の太刀、

 『日本書紀』の一書の天叢雲剣を取り上げた。

 この物語は、外から出雲にやって来た同神を奉祭する勢力が、

 蛇神を信仰し、優れた剣を造作できる先住の勢力を征圧して

 彼等の剣を取り上げたという内容となる。

 第12章で島根県東部の意宇郡名は八雲村に蛇山があるように

 サンスクリット語の ahi の転写であることを指摘し、

 同村の日吉に剣神社が鎮座することから

 出雲で作られていたとも述べた。

 このように銅剣の出雲内製作の史料は前記ばかりでなく、

 さらに、後述するようにかなりある。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年5月24日日曜日

銅剣と荒神谷遺跡①

 『浦和レッズレディース』
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 《参考:年表・資料》
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年


 牛角と祝祭・その民族系譜:883~886頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 銅剣と荒神谷遺跡①

  建御名方神の父神は『古事記』の挿話によると八千矛神である。

 八千矛神とは剣神であるから、その御子建御名方神も剣神であると

 考えるのは自然である。

 出雲風土記の出雲郡美談(みたみ)郷の条に

 「天の下造らしし大神の御子、和加布都怒志命」、

 秋鹿郡大野郷にも同名の命名が記載されているが、

 この和加布都怒志命は同風土記に登場する

 大国主神の御子のうち唯一剣に係わる尊名で、

 これは建御名方神の別称と推察される。

 美談郷は現在の平田市美談町で同市の南端出雲市との市境で

 斐伊川を挟んで斐川町に接する。

 同町にある縣(あがた)神社境内に和加布都怒志神社は鎮座しているが、

 かっては斐川町今在家の国長(川の対岸の地名)に

 あったと伝えられている。 

 延喜式神名帳出雲郡に「縣神社、同社和加布都怒志神社」とある。

 その川沿いの南側鳥井には風土記に「鳥屋社」及び延喜式神名帳に

 「鳥屋神社」と載る建御名方神を祀る神社がある。

 斐川町内にはJRの荏原駅の南西の額頭内とその西方の神庭に

 諏訪神社が鎮座するが、この二社は承久の乱(1221年)後、

 信州から守護として赴いた桑原氏が勧請したものとみられるが、

 その北側の恵原町内に鎮座する「佐支多神社」にも

 建御名方神は祀られている。

 同社は風土記で「佐支多神社」と載る古社である。

 この「サキタ」はサンスクリット語 śakti を祖語として

 「剣」を表わす用語である。

 第11章の「埼玉・鹿島:剣持神の国」で「前玉神社」の「サキタマ」を

 śakti-mat(剣持)と紹介した同語である。

 同社の鎮座する字名を「前原」といい、「前」は śak- に対応する。

 「前」は埼玉県の「埼(さい)」と転訛したように

 「西(さい)」となっている。

 つまり「西谷(さいだに)」の「西」は śakti にあるということになる。

  西谷には大量の銅剣が発掘された荒神谷遺跡がある。

 「サイダニ」は江戸時代に「才谷輪」と表記されたこともあり、

 単なる西(にし)の谷の意味ではなく他の由来を含んでいる。

 その理由が「剣」で西谷は「剣谷」である。

 ただし、ここに銅剣を埋蔵したから「剣谷」になったのか、

 他に理由があるのか答は簡単ではない。

  荒神谷遺跡には斐川町神庭西谷である。

 1984年の発掘調査かで58本の銅剣が谷奥の傾斜地に刃を上に

 向けられて埋蔵されていた。

 それまでは日本全国で発見されていた銅剣数が

 300本程度であったので、その数の多さが驚きであった。

 翌年の1985年の調査で、その地点から僅か7メートル離れた

 同じ斜面から銅鐸6個と銅矛16本が出土し、

 さらに驚きを拡大させた。

 銅剣は全て中細形で弥生次代中期後半代に

 製作されたものと考えられている。

 しかし、これが重要な点であるが、

 どこで製作されたか、またいつ埋納されたかについては

 まだ確定的な判断が専門家によっても出されていない。

 製作地や製作者については、その原料の研究が大事である。

 銅の産地は島根県内もある。

 斐川町の近くでは平田市の唐川川を遡った鍔渕、

 八束郡東出雲町の内馬にある宝満山付近、

 この山は八雲村との境界にあり、

 同村の岩坂秋家にある田村神社名の「タムラ」は

 サンスクリット語の銅を意味する tāmara に依るものだろうと

 第12章の「大穴持命と出雲」で述べた。

 また美保関町森山伊屋谷、石見銀山のある太田市大森町からも

 銅は産出された。

 これらの産地の銅か錫など周辺流域のものが銅剣などと

 同一であれば製作地は出雲に絞られることとなる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年5月22日金曜日

『古事記』の御名方神

 『浦和レッズレディース』
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:880~883頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 『古事記』の御名方神

  建御名方神が史料に登場する『古事記』を第一とする。

 そこでは同神は大国主神の御子として物語られる。

 その部分を日本古典文学大系から転載する。

  (大国主神が)是(ここ)に亦白しけらく、

 「亦我が子、建御名方神有り、此れを除きて無し。とまをしき。

  如此白す間に、其の建御名方神、千引(ちびき)の石(いわ)を

  手末(たなすゑ)に擎(ささ)げて来て、

 「誰ぞ我が国に来て、忍び忍びに如此物言ふ。
 
  然らば力競べ為(せ)む。

  故、我先に其の御手を取らむ。」と言ひき。

 故、其の御手を取らしむれば、

 即ち立氷(たちひ)に取り成し、

 亦剣刃(つるぎば)に取り成しつ。

 故爾に懼(おそ)りて退(しぞ)き居(を)りき。

 爾に其の建御名方神の手を取らむと

 乞ひ帰して取りたまへば、若葦を取るが如(ごと)、

 つかみ批(ひし)ぎて投げ離ちたまへば、

 即ち逃げ去(い)にき。故、追ひ往きて、

 科野(しなのの)国の州羽(すは)の海に迫め到りて、

 殺さむとしたまひし時、建御名方神白しけらく、

 「恐(かしこ)し。

  我(あ)をな殺したまひそ。

  此の地(ところ)を除(お)きては、

  他処(あだしところ)に行かじ。

  亦我が父、大国主神の命(みこと)に違(たが)はじ。

  八重事代主神の言(こと)に違はじ。

  此の葦原中国は天つ神の御子の命の

  隨(まにま)に献(たてまつ)らむ。」とまをしき。

  この神話のために山陰地方から東北地方の日本海側の

 神社の信仰と歴史を覆い隠したり、

 故意に曲げたりして解からなくした面がある。

 以下の考察はそのような隠された部分を明らかにする。

 ここで、建御名方神は大国主神の御子として物語られる。

 しかし、

 『古事記』はその誕生について直接的には何も説明していない。

 上記の挿話は突如として語られている感じがある。

 大国主神のもう一人の御子とされる

 事代主神については別のところで、

 母の名を神屋盾比売命と記している。

 「先代旧事本紀」の地神本紀に

 「次に高志沼河姫を娶りて一男を生む。

  児建御名方神、信濃国諏方郡諏方神社に坐す」とあり、

 その母が高志の沼河姫であることが示唆される。

 古事記では大国主神の別称である八千矛神と

 「高志国の沼河比売」との妻婚いの歌と、

 その嫡后須勢理比売の嫉妬の歌謡が長く記載されている。

 ここで重要なのは、その父名が「八千矛神」であることである。

 実際同神名を主祭神とする八剣神社(諏訪市小和田宿)が

 諏訪大社上社本宮の地に鎮座している。

 高志沼河姫神は、新潟県西頚城郡内であった

 糸魚川市一之宮に奴奈川神社が鎮座するように

 姫川に産するヒスイ(硬玉)を採っていた

 この地方の支配的氏族の姫と考えられているが、

 諏訪地方では茅野市本町鬼場の御産石神社に祀られている。

 「諏訪神社明細帳」は同神が

 高志国から鹿に乗って大門峠を越えて来たと語っている。

 八剣神社は諏訪湖が冬に結氷し、前面に張りめぐらされると、

 その水圧で氷が盛上るように裂け氷脈ができる「御神渡り」を

 神の表徴として拝観する神事を掌っている神社として知られる。

 先に転載した建御名方神と御雷神の決闘(力競べ)の場面で

 後者が手を掴むとその手が「即ち立氷に取り成し」とあるのは

 『古事記』の著者がこの「御神渡り」を

 知っていたからではないかと推測させる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
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