2010年9月30日木曜日

疑問の余地なく古代日本に実在したギリシャ文化

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:11頁

この3貴子分治は、

淡路島での国生みの後、伊耶那美の命が亡くなり、

悲しんだ伊耶那岐の命が後を追って冥界へ訪ねて行き、

そこから逃げ帰って、

死の汚れを落とすためにミソギをすると、

両眼と鼻を洗うたびに3貴子が誕生したので、

「天照大御神は高天原(天界)を、

月読の命は夜食国(冥界)を、

須佐男の命は海原を治めよ」

と分治を命じた。

というのと、全く同じである。

これはただ似ているだけではない。

3人という数も、治める場所も、

また3人が支配者の子供だという点も完全に一致している。

しかもこの話に至る出発点もまた、

オルペウスが死んだ妻を訪ねて、

冥界へ下って行ったギリシャ神話と全く同じである。

だから世界には、この種の同じ神話があちらこちらにあって、

共通しているのかといえば、

このギリシャと日本のもののほかには、どこにも存在しない。

この2神話の共通は古代日本にギリシャ文化が入らない限り、

絶対にありえないことだという結論になるのである。

そればかりでなく、

天界を治めたのはゼウスと天照大御神だが、

この天照は「天のゼウス」に対する

「天」「照神=ゼウシン=ゼウスの(南九州語)」という

当て字がもとになっていると、

簡単に見抜ける用字になっている。

さらに追及していくと日本神話と呼ばれているものは、

ギリシャ神話によるものを100%含んでいるという論文を、

私はすでに脱稿している。


『参考』

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2010年9月29日水曜日

コンタの証拠力。3貴子分治はギリシャ神話から

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:10頁

このコンタはパーリ語の旗・幡からきた名前だが、

日本語のK音は朝鮮語のH音であることから、

巴利国=隼人町で使われていた発音が、

本来は「ホン=ホム」に当てられていた字の「誉」を、

漢字音としては読めない「コン」への当て字として、

使わせることになったと分っている。

これはポントスから応神天皇までの首都が隼人町になければ、

またそこが仏教の都でなければ起こらない現象である。

なぜなら都が巴利国以外にあったのなら、コンタに変わらないだけでなく、

仮に変わったとしても、

近畿にあったのならコンダと濁るから誉陀と書かれたはずだし、

朝鮮半島にあったのならホンデになるからである。

ここでついでに語源について補足しておこう。

ポントスとはギリシャ創世記の始めに出る

ウラノス=天空と、ゲー=大地と並ぶ海洋の名である。

そのウラノスが最初この世界を支配していたが、

暴虐が過ぎて妻のゲーに憎まれ、

息子のクロノスに支配権を奪われた。

だが、

今度はクロノスが無道を極めたので息子のゼウスらがクロノスと

その兄弟の巨人族ティタンたちを追放して、

ゼウスが  「天空」を、

ポセイドンが「海洋」を、

プルトンが 「冥界」を治めた。

お分りのように日本神話の『3貴子分治』は、これから来ている。

その海の王の名をもつポントスが

異教徒の国・巴利で仏教徒の王になったので、

仏教徒はコンタと変えて呼んだのである。

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2010年9月28日火曜日

ポントスからコンタまでのフリップ 

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:9頁

当て字   発音差  敬称 用語    意味

語源       ポントス    ギリシャ語 海洋(わたつみ)

本牟智   フムチ  和気 沖縄語   海人族の王

品牟都   ホムト  和気 南九州語  海人族の王

誉津    ホムツ  別  大隅語   海人族の王

日本・日素 ホモト     鹿児島語  国号

郊彘    ホンデ  なし 朝鮮語   猪・仔豚

品陀    ホンダ  真若 南九州語  海洋ポントスの略

語源 本都    ポント  別  ギリシャ語 海人族の王

品陀    ホンダ  和気 南九州語  海人族の王

品陀    ホンダ  天皇 南九州語  海人族の王

品田    ホンダ  和気 南九州語  海人族の王

誉田    ホムダ  別  南九州語  海人族の王

語源 誉田    コンタ  天皇 バーリ語と 幡・旗⇒八幡
南九州語

付 日本国号の起源

『参考』

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2010年9月27日月曜日

真若の「真」は何を意味するか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:8頁

初代応神は2代応神に名を譲ったこの品陀真若だったのだから。

品陀真若もポントス皇子と応神の誉田別と共通の名乗りで、

誉田別はその家系へ入婿として入ったのである。

では真若とは何か?。

そのうちの若は、それが名乗りの語尾についていることで、

和気・別と同じワケに当てた文字だとわかるし、

若の字をワケと発音するので、

それが南九州語だということもわかる。

これも応神政権が南九州以外には存在しなかった証拠の1つだ。

では真の字は何を意味するか?。

これはスに助詞のンをつけたスンの

沖縄訛りシンへの当て字とみることも不可能ではないが、

複数の同名人がいるので区別するため、

こちらが本物のポントスで、

それを継承した、もと大鞆別の応神とは別人の、

「真(しん)のポントスだ」という意味で、

念を入れて付け加えた一字の「真」で、

発音は関係ないのだとみるほうが、

ずっと合理的で反論の余地がない。

この真若と同じものは他にも見られるから、

さらに検討が可能だが脱線になるから深追いはやめよう。

当時の歴史上の人物は、

生前「○〇ヒコ」などとは名乗っていなかった。

彼らは名乗り以外の個人名で呼ばれていたが、

『記・紀』の編集時に名乗りだけが記録されたために、

個人名はポントスのように全て消えて、

無くなってしまったのである。

これで疑問点は解消したから、見易く配列してみよう。

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2010年9月26日日曜日

応神名替えと重なる日本武尊の名替え

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:7頁

これで応神天皇の皇居、軽の明の宮が、

鹿児(カル)の阿鹿児(アカル)の宮だったことが、

一層鮮明に意識れたことと思う。

それと同時に応神天皇の父母と書かれている

仲哀天皇と神功皇后の直前に配置され、

実質は同時代人だった日本武尊の名乗りもまた、

この日本の名でお分りの通り、

日本=応神天皇を知らなくてはわからず、

それでは「建国の真相」は、まるでわからない。

日は「クマ」とも読み、本は素と書いても「モト」だから、

日素はホモト・ヒノモトでもあり、

クマソ=熊襲でもあることは、すでにご存じのことである。

だから日本武尊に敗れた熊襲タケルとは、

応神系政権の首長以外では絶対にありえない人物だったのである。

当時の熊襲が、本州にいたと思う学者は一人もいないから、

それは九州での事件であり、

日本武尊が『魏書倭人章』に記録された

載斯鳥越(タイシオジゥオ・太子=大足・忍代=景行天皇)の皇子であるから、

同時代人で対立政権の首長といえば、

垂仁天皇か本牟智和気=八幡=初代応神天皇かである。

これが日本武尊に名乗りを譲った熊襲タケルの実体なのだ。

ここまでくると、

熊襲タケルから日本武尊への名乗り譲渡も、

名替えだったことがわかる。

すると少年・日本武尊は少年・応神天皇と重なる。

そして景行天皇政権に南九州を追われた

応神・仁徳天皇系政権が、

北九州から四国・淡路島・近畿へと移動拡大した理由もわかる。

『参考』

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2010年9月25日土曜日

国号『日本』の起源は鹿児島政権の応神の名乗りから

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:6頁


だが、応神天皇が受け継いだ、この

ポントス

⇒ホント

⇒ホムト

⇒ホムツ

⇒フムチ

⇒ホモトの名乗りのうち最も重要なものは、

鹿児島発音のホモトである。

ホ=日、モト=本と書くと、

日本という国号の語源だったことがわかるからである。

この国号をもつ国は『旧唐音』の「倭国・日本」の時代には、

まだ鹿児島県の別名だった。

それが本州の西半分の国名になったのは、

天智天皇による大化改新革命以後である。

だから、それまでは西日本は「倭国」のままだった。

応神天皇が大阪や奈良に都していたのなら、

『古事記』も国号を倭国ではなく

「日本」と書くしかなかったのであり、

『日本書紀』も神武天皇からでなく、

応神天皇から「日本」と、

それまでの倭国と区別して書かねばならなかったのだが、

『古事記』も『日本書紀』も宣伝上、

そうした抗争の歴史を意識して隠し、

そのためかえって倭と日本にこだわって、

対抗意識まるだしで対立している。

これが『記・紀』の性格を、

ハツキリ不完全な『正史』だと立証することになっているし、

双方とも、

対立する天智系と天武系の政争の具だった証拠にもなっている。

そして応神系の倭の五王とは何だったかもまた、

よく物語ってくれているのである。

彼らが北へ東へと移動し征服していったあと、

唐代まで鹿児島に残っていたのが、

天智の出た日本政権なのだ。

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2010年9月24日金曜日

日子や別・和気は『記・紀』編纂時代に作られた作字

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:5頁

これを順序だてると、

語源はポントスで、

沖縄では本牟智・フムチ和気。

⇒南九州では品牟都・ホムト和気。

⇒大隅で誉津・ホムツ別。

⇒朝鮮半島で郊彘・ホンデと、

方言差による一群の名ができたので、

語尾のワケと読まれてきたものは、

もともとポントスのスに対して

沖縄で「子(シ)」の字が当てられたものに、

敬愛の意味をもつ和の字を加えて和子としたものが、

やがてワコと読まれ、

南九州語では木はコなので、和木(コ)と当て字し、

それをまたワキと読んだ者が、

和気・別(ワキ)という当て字を新たに考案したものだったとわかる。

そしてこの「別」の字が沖縄でビチと読まれることから、

後世、ビには日、毘、比などが当てられ、

沖縄のチは本土語のキなので、木の字が当てられていたものを、

南九州でヒコと読まれ、比古・日子・彦などの

新たな当て字が使われるようになった。

だからこれらの敬称は、

その人物の生前に実際に使われていたものではなく、

ポントスのスに対する当て字から始まって、

後に次々に追加された後世人の作字の一種で、

7~8世紀のものでしかない。

これと間違いそうによく似た官名に、

『魏書倭人章』の卑狗・ピクがある。

これは指先から肘(ひじ)までの長さを物差しとして使う

単位・キュービットのシュメール~トルコ名で、

陸地の支配者を意味する官名、

これに対する当て字は「日高(ヒク)」であって日子や彦ではない。

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2010年9月23日木曜日

必要なフリップ化、まずは名乗りの整理から

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:4頁

まず「全体像」を頭に入りやすく記憶しやすくするには、

要点だけを取り出して一覧表化するのがいい。

テレビで多用されるフリップの知恵である。

それも大量だと理解を邪魔し、見てもすぐ忘れてしまうから、

大量の場合は、さらに要約を進めて数を滅らす必要がある。

それが不可能な場合はそれらの文章をできるだけ短くし、

タイトル化・目次化して、印象的に簡略化する。

そのためには対象を再検討して、

変化した「時や位置」の順に配列する。

例えば『名乗り』の実在に気づかなかった在来の日本史家には、

永遠に解けるはずもない謎であるが、

複数の人物が一人物のように混在している

『記・紀』や『三国史記』の記事中でも、

特に難解な『名替え』という大問題を突きつけていて、

かって正解が一つもなかった応神天皇記事を読み解くには、

まずその名乗りを知り、その世襲を知るしかない。

なぜならそれが『名乗り』と認識できさえすれば、

その世襲は当然であり、

相互関係もはっきりわかるから、

当て字の古さや所在地の前後関係を、

しっかり捉えることができるからである。

その語源はポントスで狭穂姫が産んだ皇子の名。

『古事記』は品牟都和気・本牟智和気と書き、

『日本書紀』は誉津別と書く。

これを『三国史記』はホンデと発音して郊彘と当て字しているが、

その母・小后はサホンと発音するので狭穂姫母子だと確認できている。


『参考』

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2010年9月22日水曜日

基本的な『復元史』執筆システム

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:3頁

前号までで応神天皇が実在者であり、

『記・紀』その他に見る関連記事が、

史実をもっていることや、

これまで『神話』などとされてきた関連記事などが、

史実だったことをご確信いただけたと思うが、

それは受講者の皆さんのご教養が高いからであって、一般の方々には、

このままでは理解できないと思われる部分が多い。

それは文章が余りにも学術的、事務的で固いし、証拠不充分だからであり、

また至るところで他の問題に話が飛ぶのも、

予備知識のない方々には繁雑で記憶しにくく

歴史ぎらいの人を作るだけだと思われる。

だから皆さんも論文をお書きになるとき、

これまでの筆法だけで充分だとお信じいただいたのでは、

読者にソッボをむかれることになり、

それでは講師として余りにも申し訳ない。

そうした欠陥を正すにはどうすればいいか?。

その実例として、重要なものの見落としがないか、

駄目押し・要約・再確認・既得知識の

総合・総括の仕方といったことを考えながら、

これまでに到達した成果を本当に広く知っていただくには何が必要か?、

さらに立証洩れを補い、読み易く記憶し易くするにはどうすればいいか?

考えながら補強していってみよう。

謎解きだけの講義から前進して、皆さんがご執筆になる際お役に立つ、

理想的な『復元史』執筆システムの講義に高めた上で、

さらに独自のご工夫をご期待申し上げたいと思う。

『参考』

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2010年9月21日火曜日

応神以前抹殺の愚行を立証する一大知的財産

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:32頁

以上で、これまで古代人の空想が生んだフィクションだと決め付けられていた

「国生み」とそれに続く部分の「神々?」は、

本当は架空の「名だけの神」ではなく、

実在した人々の一種の「戒名」であり、

「歴史」を記録した貴重な文化財だったことが確認できた。

本号の主題である応神天皇の実在はもちろん、

そこに名を連ねた人々もまた、

実在者だったことが完全に立証されたのである。

だがその実在は、

それらの名乗りが示す地域の領有者だったという事実に支えられている。

だから応神以前の天皇たちが、

西暦紀元の前後に奈良の橿原で即位した

神武天皇以後ずっと奈良や畿内に都していたとする

邪馬台国大和説や畿内説だと、

近畿には3世紀より前の天皇陵古墳はなく、

それらの名乗りが示す移動の記録も無意味になり、

その実在を認めることができず否定するしかない。

大和鋭や鶴内説は応神天皇を抹殺するばかりでなく、

応神以前の卑弥呼の実在まで否定している事実をよくご確認戴きたい。

卑弥呼は畿内にいたと主張しながら、

その卑弥呼の存在まで否定して、

しかもそれに気付かないのは余りにも哀れである。

野蛮な妄想とされてきた

『国生み神話』は今、

応神以前を神話だと称して抹殺した連中の

無知と粗雑と暴挙を暴落し立証して、

私たち日本人の一大知的財産になったのである。

『参考』

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2010年9月20日月曜日

ここにも見る『古事記』執筆者の反抗

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:31頁

しかし見逃してはならないことが1つある。

それはこの部分の子神とされた名乗りが全て、

下(しも)がかったものに結びつけられているからである。

終りの2つ、和久産巣日神と豊宇気(ウケ)毘売神は、

どんなものから生まれたのか書いてないが、

枠結びは下紐のことで今ならパンツだし、

御食津はそのままオケツ(=尻の関西語)である。

それは決して好意のある扱いではない。

『古事記』筆者が故意に工夫した作為が、

ひそやかに潜在しているのをみると、

これに該当する名乗りの持主は、仇敵関係にあった人たちで、

その鬱憤をこうした皮肉な扱いで晴らしたとするしかない。

こうした反抗の最大のものは、

かねがねお話ししてきた祖国名の問題である。

『日本書紀』が全て日本と書くところを、

『古事記』は全て倭と書いていることを、

両方ともヤマトと読んで何の疑問ももたない在来の史観は、

幼稚以下としか言いようがない。

それはさらに後世に淡海三船がつけた

天皇たちの漢風諡号にも見られるから、

天皇政権が巨大化して、

武力による復讐が不可能になった

時代の生んだ思想的報復の1つだと見ないと、

『古事記』執筆者の実体、執筆の目的、執筆態度、

他にもあるはずの類似記事などをさらに

発掘したり正しく把握することは出来なくなる。

こうした真実の歴史を忌み嫌って、隠蔽(いんぺい)し、

美化するのが愛国だと錯覚していた連中が、

大日本帝国を滅ぼした事実を忘れてはならない。

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2010年9月19日日曜日

世襲の職名だった伊勢外宮の豊受大神

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録10:30頁

またそれと関連づけてある尿は、佐賀県の伊万里という地名に合い、

大阪市の今里はその子孫だが、イマリ、イマザトと読み替えているのも、

原音イバリが尿を意味するのに耐えられなかったためである。

しかしもともとは「イバリかえって=威張り返って」いたことが、

この日本語の存在で証明されている。

なぜなら「威張」は漢字だが中国語ではない。

日本語が先に生まれてから、後で当てた当て字だからである。

次の和久産巣日神はワクムスビの神と読まれてきた。

『魏書倭人章』には狗奴国は「不属女王」と書いてあった。

しかし壹與時代にはそれが逆転した。

そして倭がウワイでなくワと読まれる時代には

その倭国と狗奴国は一つになっていた。

このワとクを一つに結んだ人物が、

まさに和久産巣日神なのである。

これが生きた人物の代名詞であることは疑いない。

次は豊宇気(ウケ)毘売神で、

伊勢神宮の外宮の主・豊受大神と同名である。

このウケは御食津のオケの南九州語ウケと同じだから豊御食。

いま見た大宜都比売神=豊御食炊屋比売命(推古天皇)と

同じ名乗りになるから、

歴代いた天照大神と同じく、

豊受大神もまた世襲の職名だとするのが正しい。

だから以上も何も野蛮でも奇妙でもない現実的な実在者のものばかりで、

むしろ当時の古代世界では、

高度の精神文明の産物だったのである。

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