2010年9月26日日曜日

応神名替えと重なる日本武尊の名替え

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:7頁

これで応神天皇の皇居、軽の明の宮が、

鹿児(カル)の阿鹿児(アカル)の宮だったことが、

一層鮮明に意識れたことと思う。

それと同時に応神天皇の父母と書かれている

仲哀天皇と神功皇后の直前に配置され、

実質は同時代人だった日本武尊の名乗りもまた、

この日本の名でお分りの通り、

日本=応神天皇を知らなくてはわからず、

それでは「建国の真相」は、まるでわからない。

日は「クマ」とも読み、本は素と書いても「モト」だから、

日素はホモト・ヒノモトでもあり、

クマソ=熊襲でもあることは、すでにご存じのことである。

だから日本武尊に敗れた熊襲タケルとは、

応神系政権の首長以外では絶対にありえない人物だったのである。

当時の熊襲が、本州にいたと思う学者は一人もいないから、

それは九州での事件であり、

日本武尊が『魏書倭人章』に記録された

載斯鳥越(タイシオジゥオ・太子=大足・忍代=景行天皇)の皇子であるから、

同時代人で対立政権の首長といえば、

垂仁天皇か本牟智和気=八幡=初代応神天皇かである。

これが日本武尊に名乗りを譲った熊襲タケルの実体なのだ。

ここまでくると、

熊襲タケルから日本武尊への名乗り譲渡も、

名替えだったことがわかる。

すると少年・日本武尊は少年・応神天皇と重なる。

そして景行天皇政権に南九州を追われた

応神・仁徳天皇系政権が、

北九州から四国・淡路島・近畿へと移動拡大した理由もわかる。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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