『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:7頁
これで応神天皇の皇居、軽の明の宮が、
鹿児(カル)の阿鹿児(アカル)の宮だったことが、
一層鮮明に意識れたことと思う。
それと同時に応神天皇の父母と書かれている
仲哀天皇と神功皇后の直前に配置され、
実質は同時代人だった日本武尊の名乗りもまた、
この日本の名でお分りの通り、
日本=応神天皇を知らなくてはわからず、
それでは「建国の真相」は、まるでわからない。
日は「クマ」とも読み、本は素と書いても「モト」だから、
日素はホモト・ヒノモトでもあり、
クマソ=熊襲でもあることは、すでにご存じのことである。
だから日本武尊に敗れた熊襲タケルとは、
応神系政権の首長以外では絶対にありえない人物だったのである。
当時の熊襲が、本州にいたと思う学者は一人もいないから、
それは九州での事件であり、
日本武尊が『魏書倭人章』に記録された
載斯鳥越(タイシオジゥオ・太子=大足・忍代=景行天皇)の皇子であるから、
同時代人で対立政権の首長といえば、
垂仁天皇か本牟智和気=八幡=初代応神天皇かである。
これが日本武尊に名乗りを譲った熊襲タケルの実体なのだ。
ここまでくると、
熊襲タケルから日本武尊への名乗り譲渡も、
名替えだったことがわかる。
すると少年・日本武尊は少年・応神天皇と重なる。
そして景行天皇政権に南九州を追われた
応神・仁徳天皇系政権が、
北九州から四国・淡路島・近畿へと移動拡大した理由もわかる。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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