2015年7月31日金曜日

月氏とシルクロード:クシャン王朝

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:351~355頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

      月氏とシルクロード:クシャン王朝

  大月氏国の五翕候時代は40年余り続くが、

 紀元前20年頃から

 五翕候のうちの貴霜のギリシャ名ヘラウスが統一行動を始める。

 そして紀元後45年に他の翕候国を圧えて

 グジコラ・カドフィセスによりクシャナ王朝が成立する。

 カドフィセスの王朝は

 その子ウーマ(カドフィセス二世)の時代144年まで続き、

 その後やはり于闐出身のカニシカ王が

 その王権の座につき支配王族が交替する。

  カドフィセスの王朝が富み盛えたことが

 インドの仏典により知られる。

 中村元の「インド古代史」によると

 「クシャーナ帝国の財力はローマとの貿易によって

  蓄積されたことも相当大きかったに違いない」とし、

 その実情を次のように述べる。

  クシャーナ族が西北インドを支配した時代になると、

  ローマとの交通が活発になり、商業活動が盛んになった。

  当時水路の旅行は盛んに行われたらしい。

  陸路の旅行は困難であるが、

  水路の旅行は安易であるということが、

  当時の仏典にも盛んに強調されている。

  この時代にはインドからローマに輸出された

  莫大な奢侈品と交換に、

  ローマから多くの金が大量に移入された。

  クシャーナ帝国の商人はローマとの交易を開き、

  絹・香料・宝石・染料などを売ってローマの黄金を獲得した。

  プリニウスの伝えるところによると、

  その当時は毎年五千万 sesterius の金を

  ローマから持ち去ったが、

  それに対して送ってよこした商品は

  原価の百倍で売られたという。

  そして

 「このローマの金の大量移入を可能ならしめた発端は、

  先グジャラがローマと使節を派遣したことに

  求められるべきであろう」

 とする。

 このようにタリム盆地を通じて玉・絹の交易路を成立し、

 それまでペルシャから小アジア方面への交易網を

 活用していたが、

 後には海路による大量輸送へと転換をはかることとなる。

  中央アジアと地中海沿岸にパルチア国があったことにより

 事情は変化し始める。

 上記のような陸路による効果的な交易網が機能しなくなる。

 パルチアの成立が

 中央アジアと地中海沿岸との交易路の行き来を

 邪魔したばかりでなく、

 ローマが東方へと勢力を伸ばすに従い

 パルチアとの間に紛争を再々起こし

 遮断された状態が恒常化するようになった。

 また、東方の漢は後漢の時代になって西域へ遠征軍を送り、

 90年にはクシャン王朝と直接戦争する事態となった。

 この当時も漢の史料ではクシャン王朝を大月氏と呼んでいたが、

 大月氏が東方に持っていた商業権も漢に奪われてしまい、

 富をもたらした商業国家カドフィセスの王朝は打撃を受け

 停滞をせざるを得なかった。

 この間の事情についてインドの歴史家

 R・S・シャルマは次のように解説する。

  絹は、

  中国からアフガニスタン北部とイランを通る

  「絹の道」によって、

  インドを経ずにローマに送られた。

  しかし、

  パルティア人がイランとその近隣地域を支配すると、

  その交易は難しくなったため、

  絹はインドの西北部を通って

  西海岸の港へ運ばれるように変わった。

  また、

  中国からインドの東海岸を経て

  西海岸へ運ばれることもあった。

  このようにインドとローマ帝国の間には

  絹の中継貿易がかなりおこなわれたのである。

  この時期インドからローマへ送られたものに鋼鉄が

 加わるようになる。

 この重い資材は船により初めて大量輸送が可能である。

 その点シュメルの時代から銅やや錫、

 木材をペルシャ湾に送った

 インド商人にとってはお手前のものであったろう。

 ローマからはガラス器などが運ばれて来たが、

 その中心は大量の金貨と銀貨であった。

 ローマの貨幣はインド全土のうち

 80ヶ所以上で発見されているが、

 その全てがヴィンダャ山脈以南の地域である。

 このことは海洋交易の隆盛が

 ローマとの交易を開始させたと解釈できる。

 西アジアとの交易は、

 南インドの物産とそれより東方の海路から

 もたらされた物産を取り扱う南インドの海洋商人が、

 その主役を努めたことになる。

 ローマの貨幣は

 ベトナムのメコン川のデルタでも発見されている。

  カドフィセスの王朝の停滞を受けて登場したのが

 カニシカ王の勢力で、武力により北はソクディアナから

 南はインドの中心ガンジス河下流へと進出し、

 サルフート辺りまで、

 西南はアラビア海に至るまで支配下に置いた。

 このカニシカ王に対し、

 インド側がその支配勢力である

 アーリア人との整合性を求めて

 日種(太陽神崇拝者)であろうとしたが、

 彼自身はあくまで月種(月神崇拝者)だとして

 変えることができなかったという。

 その祖族がヘブライ人である拘泥がみられる。

 実際同王朝の彫像には三日月をあしらったものがみられる。

  ローマの金貨がヴィンダャ山脈以北から

 発見されていない理由であるが、

 中村元の解説においても

 「ローマから多くの金が大量に移入された」、

 「ローマの黄金を獲得した」と記し、

 金貨とは言っていない。

 また、

 第二代のカドフィセスはインドで初めて金貨の制度を始め、

 ローマから持ち込まれた金を

 自国の金貨鋳造のために使ったとの理由があげられる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
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2015年7月30日木曜日

イスラエル人と月氏:大月氏国の成立

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:346~350頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

      イスラエル人と月氏:大月氏国の成立

  紀元前177年頃、

 匈奴の冒頓単于(ぼくとうぜんう)に敗れた

 月氏は紀元前176年には

 一部は安定に残留した(小月氏)ものの

 他の部族は西遷を始めた。

 彼等は天山北方のイリ(伊犂) に

 弓月城を築いて一時滞在したが、

 さらに西方に移動し、

 張騫の派遣された139年までには

 西トハリスタン、ソグディアナ、バクトリアに地歩を固め、

 140年には大月氏国を成立させたとみられている。

 移動したものを小月氏という。

 これにより以前

 マケドニアのアレキサンダー大王が東方への大遠征を行い、

 バクトリア、ソグディアナまで到着し、

 325年頃インダス河を下ってアラビア海へ出て

 ペルシャのペルセポリスまで引上げた。

 彼(アレキサンダー大王)が紀元前323年に突然死去すると、

 帝国は分裂し、この地方はセレウコスの王朝となるが、

 その勢いが衰え、この地方にはバクトリア国が、

 大王に率いられて渡来し残留していた

 ギリシャ人たちによって独立成立した。

 ヘレニズムの東端の国といわれている。

 同国も北方のスキタイ人などの圧力に押されて

 次第にヒンズークシ山脈の南へ

 内部分裂と紛争を繰り返しながら移っていく。

 この北方からの勢力の中に月氏の勢力もあったといわれ、

 その間に覇権をまとめ上げたのが大月氏国であった。

 ソグディアナが彼等の故地であったとすれば、

 帰還ということになる。

  紀元前140年頃からの支配体制についての詳細は

 よく解らないが、

 その首都が中国名、藍氏(jian-ti)城で、

 バクトリアの域内にあったとされる。

  紀元前65年には五王国に分裂されたことが

 中国の史料にみられる。

 『漢書』によると、その五王国は

 ①休蜜翕候(きゅうみつきゅうこう)

 ②雙靡翕候(そうひきゅうこう)

 ③貴霜翕候(きしゃんきゅうこう)

 ④肦頭翕候(はんとうきゅうこう)

 ⑤高附翕候(こうふきゅうこう)

 である。

 翕候は王のような職位を表す。

 そのうちの高附は喀布爾(かふじ)とも表記された

 現在のアフガニスタンのカブールであり、

 貴霜はタリム盆地の南西、
 ギリシャ語でクスターナといわれた、

 現在の和田(ホータン)である于闐(うてん)の地であり、

 後に貴霜は他の王国を統一して

 インド亜大陸へも勢力を伸張し、

 仏教の擁護者カニシカ王を誕むこととなる。

  この于闐の地は古来玉石の産地として繁栄したのであるが、

 クシャン国もその天恵に浴した。

 玉は角閃石の一種で同地には

 白玉河、緑玉河、黒玉河があって

 産量の豊富であったことを示している。

 玉石は中国において殷の時代より

 圭(けい)、璋(しょう)、璧(へき)と

 王権の権威を象徴するのに用いられ尊重された。

 漢の時代になってもその需要は高く、

 大量に輸出されたらしい。

 その状況は唐宋の時代まで続く。

 その見返りとして漢からは絹が輸出された。

 このことからシルクロード(これは現代の命名)は

 確立されることになったのである。

 大月氏国にもたらされた絹が

 さらに西方に輸出されたことは間違いない。

 東方の漢にとって大月氏は「玉の民族」であり、

 西方の国にとっては

 「絹の民族」という見方もここでは成り立つ。

 地中海沿岸のフェニキアは

 古来織物産業の活発な土地であり、

 ヘブライの地でもそのような技術を修得しており、

 メディアなどに移動させられてから

 6百年を過ごした後とはいえ、

 日常の衣服を生産するなどして技術を保持していた

 技工たちはいたに違いない。

 彼等が絹の専門技術者あるいは商人として

 成長したと考えられる。

 というのも、

 五翕候の内、言及していない三翕候名は

 サンスクリット語で解釈すると

 養蚕業に係わる名称であるからである。

 当時インドの言葉は仏教の伝播などと共に

 この地方へも広がっていたから不自然ではない。

 「休蜜」は krmi で「昆虫、虫」の意味で、

 ここでは「かいこ」つまり蚕のことである。

 「雙靡」は蚕の蛹(さなぎ)ことでサビであり、

 「肦頭」は patta で絹を意味する。

 貴霜についてもその語幹が kaşa で

 サンスクリット語の「草」であるが、

 書き残されたなかには

 ギリシャ語の korsano 、

 あるいはカニシカ王の貨幣に刻まれた

 košano の場合もあるので

 繭を表す koša を祖語とした部族名であった可能性もある。

 「後漢書西域伝」は高所の代りに都蜜を

 五部族のうちに記している。

 この語は dāma で「紐、縄、綵、帯」であるが、

 その意味するところは

 tanu 「紐、細線、糸」で繊維をいうものであろう。

 Tan-tu-vana は繊維を表す。

 以上のように大月氏の部族名は絹産業を基礎にした

 技術集団と考えられるのである。

 このころから西方のローマを初めとする地中海地方では

 セレスという絹を表す貴重な織物と糸が普及し始めるのである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
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2015年7月29日水曜日

イスラエル人と月氏:メディアから安定へ

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:339~345頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

      イスラエル人と月氏:メディアから安定へ

  ヘブライ人が月氏に本当になったのかについて

 考察してみたい。

 まず、ソグディアナ Sogdiana についてである。

 この地名がヘブライ語で解釈した場合

 「神を崇拝する」の意味であるとの指摘はすでになされている。

 Shoykhet(Shokhtim) がそれに相当する用語であるが、

 「儀式のための屠殺」が本義である。

 その祖語はシュメル語の sukud-e-en

  「神を高くする」に想定してよいだろう。

 Sukud はメソポタミアの高床式神殿で検討した用語である。

 この語は神域を表す suk 、 sug と関連し、

 ソクディアナ名の語幹と考えられる。

 烈王紀下は

 「高き所を建てたの」でサマリアは取られたと述べており、

 ヘブライ人がそのままの信仰を

 ここに持って来たとしてもおかしくない。

 そのサマリア名をつけたのが

 ソグディアナの中心都市

 サマルカンドであると考えることもできる。

 「高い所」の信仰はバアル神信仰で、その象徴は牡牛である。

 サマルカンド近郊の町キシュ Kish はヘブライ語で

 「牡牛の」の意味の kiish によるだろう。

 ソクディアナには牡牛に係わる地名がよくみられる。

 そこを流れる川の名称アム Amu はシュメル語で野牛である。

 後世オクサス óxus となるが、

 これはヨーロッパ語圏の用語で牡牛である。

 サマルカンドとキシュの間の町

 マイムルク Maimurg はセム語で三日月を表す。

 13世紀から14世紀にかけて

 エジプトから地中海東岸のアレッポまでを

 支配においたイスラムの

 マメルク Mameluku 朝名と同義である。

 このようにソグディアナが牡牛の祝祭を

 行っていた可能性があり、

 その担い手がサマリアから移動させられた

 メディア周辺にいたヘブライ人で、

 メディア国の拡大の時期に

 中央アジアまでさらに移動したのではないかと推測される。

 ソグディアナから東方へ行く交通路の途次、

 天山山脈の北の草原を行くと弓月城を過ぎ、

 同山脈の東端を回るとトルファン(高咼)へと出る。

 ここにはベゼクリクの町があった。

 この町名もヘブライ人の残した名称とみられる。

 Bezeklik の beze- は

 ベツレヘム Bethlehem の beth で家を表す。

 ヤコブが夢に見た「神の家」の地である。

 Klik は

 ヘブライ語の kirkh で、

 ドイツ語の kirche 、

 英語の church と同語である。

 キリスト教の場合には、教会、寺院であるが、

 その内容は

 「礼拝堂、聖堂、神殿」あるいは「信徒」を意味する。

 さらにその原義は「礼拝、祈祷」である「神事」を表す。

 よって、 Bezeklik も「神殿」のことである。

 現在中国名胜金台という町がここにある。

 Śheng-jin-taù は Singer あるいは

 Sinagug の転訛とみられ、

 ベズクリクと同じ神殿の字義である。

  月氏は敦煌と祁連山(両方とも甘粛省内)との間にいたと

 史記大宛列伝はいう。

 同列伝は紀元前139年に

 前漢の武帝が張騫を西域の大月氏に向けて派遣した事情と

 西域・中央アジアの状況を報告したものである。

 月氏について中国の史料には

 和氏、禹氏、牛氏などと表記される。

 「漢書地理志」で月氏道の名を載せた安定は

 現在の安西、安北、安南(新疆区)がその遺称で

 甘粛省の西の端にあり、

 敦煌を中心とする。

 そのまた西南の外れに現在、

 阿克塞阿哈薩克(アクサイ・カザフ)族自治県があるが、

 その都市名が博罗轉井である。

 同市名を中国語読みすると、Pak-luo-zhuan-jing となるが、

 これはパリサイで

 英語の pharisee 、

 ドイツ語のPharisäer であり、

 キリスト教の時代に

 「内面的戒律よりも外面的規則を重要視した

  ユダヤの政治宗教的一団」の名に対応するもので、

 ヘブライ語と解釈できるのである。

 ここにおけるその銘名は、

 そのような宗教的立場の表明ではなく、

 その原義が「離れている者」であることから、

 遠く原郷のイスラエルを離れているとの意味に解釈できる。

 民族名は中国語の訓音では A-ke-Sak-Ha-sa-Ke となる。

 Hasaka 哈薩克はカザフ Kazakh 族のことである。

 その母体はウィグル族で、

 九世紀にモンゴルの東部にいたが契丹に追われて西遷し、

 一部がこの地方に定住し遊牧から農業へと生活の形態を変えた。

 彼等をウィグル・カザフ族といい、

 後に単にカザフ族といわれるようになった。

 カザフ名はこの地方で付けられるたものである。

 カザフ Kazakh は本来どのような意味なのか。

 その意味は「牧夫」と推測される。

 シュメル語の kuś (牧夫) も思い出すが、

 阿克塞 Ahesak を oxas 、

 ドイツ語の Ochs (牡牛) とするのは間違いない。

 中国史料が月氏を牛氏といった。

 哈薩克 Hasake (Kazakh) は、

 ドイツ語の Hächer (捕史) 動詞形 haschee (捕らえる)か、

 hashie ren (肉を刻む) Haschee (刻み肉) に

 対応すると考えられる。

 前者は牧夫を想起させ、

 後者は第4章中の「ゲルマン」で論じた

 ゲルマン人の故郷西イランの Kāshān の名称、

 ユダヤ教の教義に適っているとの意義である

 「清浄」を表す kosher と関係する。 

 Hasake (ドイツ語の Hasche) は

 レビ記の

 「燔祭の獣の皮を剥ぎ、節々に切り分けなければならない」

 に対応するよう用語で祝祭を行うものたちの意味となる。

 祝(ハフリ)の原郷、現在のシリア東部ハブール川の上流にある

 エル・ハサカ El.Hazeke にも表されている。

  阿克塞哈薩克族とは

 「牛飼い族」あるいは「牛祝・祭族」となる。

 カザフは牧夫の意味に相当する。

 パリサイ(博罗轉井)名とこの族名を考慮すれば

 月氏(ヘブライ人)の影響があったことによると

 考えてもよいと思われる。

 禺氏も牡牛を表す gu によるものであろう。

 周辺には、大革、長革のつく地名があり、

 牧畜に適した高原であることを印象づけている。

  「失われた十支族」といわれるヘブライ人が

 この地方にいたと

 指摘できる資料がヘブライの資料にもある。

 それは旧約聖書にもその名前のある

 「エズラ第四書」というヘブライ語の資料である。

 そこにアルザレ Arzare という地方名が

 「彼等が最後まで住んだ」地として記されている。

 そこは、

 ユーフラテス川を越えて一年半の長い道のりを

 要するところだといっている。

 アルザレは、安定あるいは安価の訓音に近い。

 また、博罗轉井の南西方に5,798メートルの高さの

 阿尓金山及びその名称の山脈があるが、

 これは、ウィグル語の「黄金」を表す altun を

 漢語化した名称とみられるが、

 「アルタン」もまたアルザレに近似する。

 しかもアルザレ、

 アルタンはセム語(アッカド語)の同じく「黄金」を意味する

 hurasu を祖語とするとみられるものである。

  和氏については事情がある。

 月氏が渡来する以前、ここは和氏の郷であった。
 
 『史記』五帝本紀堯帝の

 「和仲に命じて、西土に居らしむ。昧谷(まいこく)と曰ふ。

  敬(つつし)みて日の入るを導(みちび)き、西戎を便程す」

 とあることと係わるからである。

 和仲は和氏の次子の意味で、西土は三危(さんき)とも呼ばれた。

 同じ堯帝条に

 「三苗を三危に遷(うつ)し、以って西戎に変じ」とあり、

 三危は現在敦煌の東仏教の岩窟で有名な

 莫高窟のある三危山にその名を遺す。

 西土は西戎の地である。

 和氏はまた夏氏であり、

 月氏が西遷して移り住んだ地を

 大夏(バクトリア)というのはこれに依るものである。

 夏は史記にも「夏本紀」があるが、

 殷より古い王朝とも考えられる。

 以前には空想の王国とされていたが、

 最近は考古学的資料が夏の実在を証明するようになり、

 今では

 中国の最初期の王朝名として認められるようになっている。

  堯帝により和氏の一部が移転させられた理由により

 そこの住民を和氏と称したのである。

 第九章中国の祝祭と皇帝で述べる

 和氏が米作りと養蚕業に優れていたとすると、

 月氏は彼等より絹についての知識・情報を得たのである。

 月氏が絹商人へと変化していくきっかけである。

 敦煌の北方、新彊区内に哈蜜市がある。

 この町は和氏が建てた町と考えられる。

 雲南省の少数民族に哈尼(はに)族がいる。

 彼等は古くは

 「和夷(ほい)」

 「和蜜(ほまん)」

 「和泥(ほに)」などとも呼ばれ、

 史記に載る和氏の一族と考えられる。

 哈尼族ばかりでないが、

 雲南の民族は紡織・織布に優れ、

 色彩豊かで個性的な織物は歌垣(かがい)という祭礼で

 人々が着る衣裳のすばらしさでよく知られている。

 手工業は農閑期の母親に手ほどきを受けて伝統の継承者となる。

 彼等の祖先は

 もっと北方の四川省方面にいた人々と考えられている。

 四川省は蚕(蜀)で古来栄えた地方である。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2015年7月28日火曜日

イスラエル人と月氏:アッシリアへの強制移住

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:334~338頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

      イスラエル人と月氏:アッシリアへの強制移住

  烈王紀下の第18章は次のように記す。

 アッスリアの王はついにサマリアを取り、

 イスラエルの人々をアッスリアに捕らえていって、

 ハラとゴザンの川にハボルのほとりをメディアの町々においた。

  この事件は、

 シャルウマネセル三世が

 紀元前722年にパレスチナへ侵攻した際のことであった。

 第17章でイスラエルのアハズ王が会った

 アッシリアのティグラト・ピレセル三世の治世は

 紀元前744年から727年であり、

 続くシャルウマネセル五世の治世は726年から722年であり、

 烈王紀のいうアッスリアの王シャルウマネセル五世こととなる。

  イスラエルの人々が移住させられた地は、

 ザクロス山中のメディア国が建国された時

 首都が置かれたエクバタナ、

 現在のケルマンシャアの近辺である。

  ハラ Halah アッシリア時代のハルハルで、

 現在のカルへ Khareh 川の沿岸 karand あたりであろう。

 カルへ川の上流に khara 川がある。

  ゴザン Gozan は、

 ディヤラ川の水源の盆地近く現アルヴァト山の麓で

 ゴディン Godin の地名がある。

 ゴディン・テペと呼ばれる旧石器時代からの遺跡がある。

  ハボル Habor は、ザクロス山脈の西側イラクとの国境にある

 カビル kabir 山地に因むものとみられるが、

 その周辺の地であろう。

  メディア Medea は、

 メソポタミアの東側のアッシリアを

 滅亡させた国の名称であるが、

 イスラエル人が連行された当時は

 まだケルマンシャアを中心とする

 狭い領国であったから同市周辺とみられる。

  ところで、この事件を聖書はどうとらえたかであるが、

 第18章は続けて述べる。

  これは彼らがその神、主の言葉にしたがわず、

  その契約を破り、

  主のしもべモーセの命じたすべての事に耳を傾けず、

  また行わなかったからである。

 つまり、イスラエルの人々は、

 モーセにシナイ山で語りかけた主(ヤハウェ)の言葉で

 「十戒」などに従わなかったからだといっているのである。

 彼等は現在の言葉でいうと

 ユダヤ教を信奉しなかったからだということになる。

 第17章でさらに詳しくその理由を説明している。

  イスラエルの人々は、

  その神、主にむかって正しからぬ事を密かに行い。 
  
  見張台から堅固な町に至るまで、

  すべての町々に高き所を建て、

  またすべての高い丘の上、

  すべての青木の下に石の柱とアシラ像を立て、

  主が彼等の前から捕らえ移された異邦人がしたように、

  すべての高い所で香をたき、

  悪事を行って主を怒らせた。

 この条句のなかでいう

 「主が彼らの前から捕らえ移された異邦人」とは

 カナアン人のバアル信仰を表す聖書の慣用句である。

 「高き所」とはアルパチア遺跡の高床式神殿からジクラトまで

 すでに熟知の宗教的建立物である。

 紀元前8世紀のヘブライにおいては、

 まだバアル神信仰が根強く、

 アッシリア(メディア)へ移住させられた人々の信仰が

 ユダヤ教だけでなかったことを明らかに物語っているのである。

 西欧の学究は、

 失われた十支族として

 世界中にユダヤ教徒の痕跡を捜し回ったが、

 それは矛盾である。

 移住した人々が持っていた信仰は

 バアル神信仰や、月神信仰でもあったと考えるべきである。

  次の注意点は、

 移動させられた先メディアが

 牛頭信仰の古くから行われていた地方であったことである。

 ハブール Kabir 名の残る地帯の一部せある。

 メディア国は紀元前625年に建国し

 613年に新アッシリアを滅亡させた。

 そのため、

 その版図はアナトリアから

 バクトリア、パンジャブにまで及んだ。

 その間移動させられたイスラエル人たちが

 どうしたのかは全く解らない。

 だが、紀元前4世紀になると、

 中国の西北方面甘粛省あたりに月氏 Yuen-shih が現われるが、

 この部族がイスラエルと近似している。

 その原語はヘブライ語の יעד yad の転訛であり、

 その字義は「記念碑」を表す。

 この記念碑とはイスラエル十部族の象徴である。

 ヨシュア記第22章で

 「ルベンの子孫ガドの子孫およびマナセの部族」

 「半ばカナンの地のほとりにきた時、
 
  その所で、ヨルダンの岸辺に一つの祭壇を築いた。

  それは大きく遠くから見える祭壇であった。」

 「ルバンの子孫とガドの子孫は、

  その祭壇を「あかし」と名づけて言った。

  これは、われわれの間にあって、

  主が神にいますというあかしをするものである。」

 に由来するもので、

 「あかし」(証拠)のヘブライ語は

  IDVT iedut あるいは IDH ieed と表記され、

  YD yad (記念碑)との関係をみせているばかりでなく、

 月氏 yueh-shin および義徒 i-tsung の原語であるのである。

 ヨシュア記の詳しい解説からすると、

 「記念碑(祭壇)」は

 イスラエル人(失われた十部族)の代名詞である。

  漢書地理志の安定項中に月氏道の名称がある。

 現在の廿粛省酒泉敦煌県の辺りに当たる。

 史記大宛列伝に匈奴に対抗するため

 漢の武帝が使者張鶱を遣わした国である。

 この時月氏の一部はバクトリアに移動(紀元前176年)も

 大月氏となっていた。

 移動の途中彼等等イリ川の水源の地方伊犁に

 弓月城を築きしばらく留まった。

 弓月は三日月の比喩名である。

 また、

 バクトリアの彼等の首都名を大宛列伝は藍市城と記すが、

 これは中国語で Jirm-shi と発音される。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年7月27日月曜日

大己貴命と「タカラ」②

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 《参考:年表・資料》
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:960~963頁

 第15章 大黒柱と大己貴命

 大己貴命と「タカラ」②

  大己貴命名は『日本書紀』の名称である。

 その一書は

 「大国主神、別名大物主神、国作大己貴命と名付く、

  葦原醜男命、八千戈神、大国玉神、顕国玉神」と七つの尊称を挙げる。

 『古事記』は

 「大国主神、亦名大穴牟遅神と謂ひ、亦名葦原色許男神と謂ひ、

  亦名八千矛神と謂ひ、亦名宇都志国玉神と謂ひ、

  并せて五つの名有り」と記す。

 本書にはこれで大国主神を含めた尊称のうち、大己貴命、

 葦原醜男神、八千矛神の五神について述べたことになる。

  さて、山椒魚の「玉子」卵嚢は勾玉(曲玉)の原形であると述べたが、

 出雲の富氏族はこれを「財(たから)」と称したという。

 大己貴命信奉には勾玉が欠かせないことは明らかである。

 そして、その国を「タカラ」と称したと考えられる。

 東鯷国は大陸の漢人が呼んだ呼称である。

 だが「山椒魚国」の人々は自身で「タカラ」と呼んだ可能性がある。

 「財」の付く地名は岡山県、佐賀県、宮崎県、鹿児島県と

 山椒魚名のある地域にある。

  山椒魚は

 「ブリタニカ百科」によると「皮膚がサンショウの木の皮に似るとか、

  皮膚にたくさん顆粒があって刺激するとサンショウ匂いに似た

  乳白色の液を出す。

  サンショウの樹皮を食べるなどと

  伝えられていることに由来するらしい」のであるが、

 どちらにしても香辛料ともなる「山椒」と関係がある。

 日本列島の山椒は古代においては重宝であったとみられる。

 三国志魏書倭人章には倭の地の産物として

 「椒」が記されているからである。

 この山椒を南方からやって来た貿易商人のヤーダヴァ族は

 Takkola と呼び、香辛料の一種として使われている。

 Takkola はヤーダヴァ族あるいは

 「天毒の愛人」であるインドの商人達が

 インド亜大陸へ伝えた地名と考える。

 その名は「ミリンダ王の問い」で

 貿易商人が訪れる先として挙げられている地方の一つである。

 Vagṅaṃ、Takkolaṃ、Cinaṃ、Soviraṃ、

 Suraṭṭhaṃ、Alasandaṃ、Kolapaṭṭaṅaṃ

 とチーナ(支那)と並んで現れる地名である。

 各地名がどこを指すのか第10章天毒とセリカの

 「インドの海洋交易商人」に詳しく解説した。

 Kolapaṭṭana については第10章天毒とセリカでも推論を展開した。

 そこで中村元が「タッコーラ(北アルコット地方)」と

 インド亜大陸のベンガル湾側、

 つまり東インドの中間辺りを比定地としていることに

 疑問を提起しておいた。

 チーナに近い東アジアの地域に想定することは不可能ではない。

 その地域を日本諸島に限る必要はない。

 インドの商人は大陸ではない倭人の住む東方の島峡を「タカラ」と

 総称していたかもしれない。

 そこはセリカの一部であった筈である。

 台湾の台北から基隆新店両渓流間を

 「タカラ」あるいは「タアラア」と呼んでいた記録がある。

 漢字の表記で「大加蚋」ないし「大佳蠟」である。

 まだ漢族が積極的に渡来しなかった16世紀頃までの古名である。

 因みに Vaṅga についても

 中村元はベンガル湾の奥の地方ガンジス川下流を想定しているが、

  Vaṅga はインドネシア語の「香料」を意味する

  wangi (wangan) に近似し、古来香料諸島と呼ばれている

 Maluka (Mulccas) に比定できるのである。

 そこは丁字の原産地で、

 バビロニアの時代から丁字はメソポタミアに運ばれた。

  「タカラ」は考えられる日本の最古名である。

 「タカラ」が「タケル」に転訛したとすれば、

 『古事記』の国生み神話に「建」に冠されている

 下記の名称はその遺称である。

  〇建依別 土佐国

  〇建日向は豊久士比泥別 肥国

  〇建日別 熊曾国

  〇建日方別 吉備児島

  
  大己貴命の神名は以上のような日本の「創世」の頃の

 秘密が隠されているのである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

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、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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大己貴命と「タカラ」①

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 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:957~959頁

 第15章 大黒柱と大己貴命

 大己貴命と「タカラ」①

  漢書地理志の「燕国」に

 「東方の夷人は天性柔順で、他の地方とは違う。

  孔子が道の行われないことを悼み、海に船を浮かべて、

  東夷の国に住もうとされたのも理由のんあいことではない。

  楽浪の海の中には倭人が百あまりの国に分かれ、

  その歳おりふし貢物を持ち来見するといわれる」とある。

 この条文についても一般に古代の日本のことと理解されているが、

 「倭人」は本書の第10章天毒とセリカなどでみたように

 日本列島にいた人々だけとは鍵らない。

 しかしそこにある「天性柔順」では

 全く「倭」の字義に相当するものである。

 「倭」とは、「従うさま」をいったもので

 「委」は「身をかがめる、身を屈する」で

 「恭順」ないし「柔順」の意味である。

 この「身をかがめた」姿態こそ山椒魚の姿で、

 いわゆる「はいつくばり」の様である。

 それをサンスクリット語で表現したのが「ナムチ」である。

 「大己貴命」名で、大山椒魚を称するものである。

 Nam、namati は

 「~に向って屈む、~にお辞儀をする、沈む、静かになる」で、

 ānamati は

 「屈む、頭を下げた、屈んだ、服従した、従順な」 などの意味となり、

 大己貴命の像に合っている。

 同類語に namuci があるが、

 これはインドラ神に征服された悪魔の名で、

  namuchi-dvis(devasa) はインドラ神の称であるが、

 この namuchi が大己貴命の「ナムチ」になったとはいえない。

  Namuchi が該当すると考える。

  身を屈めて這いつくばる山椒魚はまた「生尾人」である。

 『古事記』の神武東征で、

 次々と神武軍に制服された大和の種族で、

 彼等を「オオ、多」と解釈し、

 登美族の種族だと見解を述べた(第12章)。

 「尾の生えた人」は大山椒魚である。

 その事が小児(童)の様だというのは「河童」の様子に重ねるし、

 シュメル伝説のオアネス(Oanes、Oannes)を想起させる。

 紀元以前に渡来したヤーダヴァ族(ドヴァラカー族)である登美族は、

 その土地の大山椒魚信仰(縄文時代後期晩期からあった)を知り、

 彼等の祖先の像との共一性からその神名を「ナムチ」と

 言い慣らし始めたと推測される。

 水棲動物 yadu は彼等の種族性そのものである。

 大己貴命とは大山椒魚(大黒主)を神格化した名称である。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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