2015年7月29日水曜日

イスラエル人と月氏:メディアから安定へ

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:339~345頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

      イスラエル人と月氏:メディアから安定へ

  ヘブライ人が月氏に本当になったのかについて

 考察してみたい。

 まず、ソグディアナ Sogdiana についてである。

 この地名がヘブライ語で解釈した場合

 「神を崇拝する」の意味であるとの指摘はすでになされている。

 Shoykhet(Shokhtim) がそれに相当する用語であるが、

 「儀式のための屠殺」が本義である。

 その祖語はシュメル語の sukud-e-en

  「神を高くする」に想定してよいだろう。

 Sukud はメソポタミアの高床式神殿で検討した用語である。

 この語は神域を表す suk 、 sug と関連し、

 ソクディアナ名の語幹と考えられる。

 烈王紀下は

 「高き所を建てたの」でサマリアは取られたと述べており、

 ヘブライ人がそのままの信仰を

 ここに持って来たとしてもおかしくない。

 そのサマリア名をつけたのが

 ソグディアナの中心都市

 サマルカンドであると考えることもできる。

 「高い所」の信仰はバアル神信仰で、その象徴は牡牛である。

 サマルカンド近郊の町キシュ Kish はヘブライ語で

 「牡牛の」の意味の kiish によるだろう。

 ソクディアナには牡牛に係わる地名がよくみられる。

 そこを流れる川の名称アム Amu はシュメル語で野牛である。

 後世オクサス óxus となるが、

 これはヨーロッパ語圏の用語で牡牛である。

 サマルカンドとキシュの間の町

 マイムルク Maimurg はセム語で三日月を表す。

 13世紀から14世紀にかけて

 エジプトから地中海東岸のアレッポまでを

 支配においたイスラムの

 マメルク Mameluku 朝名と同義である。

 このようにソグディアナが牡牛の祝祭を

 行っていた可能性があり、

 その担い手がサマリアから移動させられた

 メディア周辺にいたヘブライ人で、

 メディア国の拡大の時期に

 中央アジアまでさらに移動したのではないかと推測される。

 ソグディアナから東方へ行く交通路の途次、

 天山山脈の北の草原を行くと弓月城を過ぎ、

 同山脈の東端を回るとトルファン(高咼)へと出る。

 ここにはベゼクリクの町があった。

 この町名もヘブライ人の残した名称とみられる。

 Bezeklik の beze- は

 ベツレヘム Bethlehem の beth で家を表す。

 ヤコブが夢に見た「神の家」の地である。

 Klik は

 ヘブライ語の kirkh で、

 ドイツ語の kirche 、

 英語の church と同語である。

 キリスト教の場合には、教会、寺院であるが、

 その内容は

 「礼拝堂、聖堂、神殿」あるいは「信徒」を意味する。

 さらにその原義は「礼拝、祈祷」である「神事」を表す。

 よって、 Bezeklik も「神殿」のことである。

 現在中国名胜金台という町がここにある。

 Śheng-jin-taù は Singer あるいは

 Sinagug の転訛とみられ、

 ベズクリクと同じ神殿の字義である。

  月氏は敦煌と祁連山(両方とも甘粛省内)との間にいたと

 史記大宛列伝はいう。

 同列伝は紀元前139年に

 前漢の武帝が張騫を西域の大月氏に向けて派遣した事情と

 西域・中央アジアの状況を報告したものである。

 月氏について中国の史料には

 和氏、禹氏、牛氏などと表記される。

 「漢書地理志」で月氏道の名を載せた安定は

 現在の安西、安北、安南(新疆区)がその遺称で

 甘粛省の西の端にあり、

 敦煌を中心とする。

 そのまた西南の外れに現在、

 阿克塞阿哈薩克(アクサイ・カザフ)族自治県があるが、

 その都市名が博罗轉井である。

 同市名を中国語読みすると、Pak-luo-zhuan-jing となるが、

 これはパリサイで

 英語の pharisee 、

 ドイツ語のPharisäer であり、

 キリスト教の時代に

 「内面的戒律よりも外面的規則を重要視した

  ユダヤの政治宗教的一団」の名に対応するもので、

 ヘブライ語と解釈できるのである。

 ここにおけるその銘名は、

 そのような宗教的立場の表明ではなく、

 その原義が「離れている者」であることから、

 遠く原郷のイスラエルを離れているとの意味に解釈できる。

 民族名は中国語の訓音では A-ke-Sak-Ha-sa-Ke となる。

 Hasaka 哈薩克はカザフ Kazakh 族のことである。

 その母体はウィグル族で、

 九世紀にモンゴルの東部にいたが契丹に追われて西遷し、

 一部がこの地方に定住し遊牧から農業へと生活の形態を変えた。

 彼等をウィグル・カザフ族といい、

 後に単にカザフ族といわれるようになった。

 カザフ名はこの地方で付けられるたものである。

 カザフ Kazakh は本来どのような意味なのか。

 その意味は「牧夫」と推測される。

 シュメル語の kuś (牧夫) も思い出すが、

 阿克塞 Ahesak を oxas 、

 ドイツ語の Ochs (牡牛) とするのは間違いない。

 中国史料が月氏を牛氏といった。

 哈薩克 Hasake (Kazakh) は、

 ドイツ語の Hächer (捕史) 動詞形 haschee (捕らえる)か、

 hashie ren (肉を刻む) Haschee (刻み肉) に

 対応すると考えられる。

 前者は牧夫を想起させ、

 後者は第4章中の「ゲルマン」で論じた

 ゲルマン人の故郷西イランの Kāshān の名称、

 ユダヤ教の教義に適っているとの意義である

 「清浄」を表す kosher と関係する。 

 Hasake (ドイツ語の Hasche) は

 レビ記の

 「燔祭の獣の皮を剥ぎ、節々に切り分けなければならない」

 に対応するよう用語で祝祭を行うものたちの意味となる。

 祝(ハフリ)の原郷、現在のシリア東部ハブール川の上流にある

 エル・ハサカ El.Hazeke にも表されている。

  阿克塞哈薩克族とは

 「牛飼い族」あるいは「牛祝・祭族」となる。

 カザフは牧夫の意味に相当する。

 パリサイ(博罗轉井)名とこの族名を考慮すれば

 月氏(ヘブライ人)の影響があったことによると

 考えてもよいと思われる。

 禺氏も牡牛を表す gu によるものであろう。

 周辺には、大革、長革のつく地名があり、

 牧畜に適した高原であることを印象づけている。

  「失われた十支族」といわれるヘブライ人が

 この地方にいたと

 指摘できる資料がヘブライの資料にもある。

 それは旧約聖書にもその名前のある

 「エズラ第四書」というヘブライ語の資料である。

 そこにアルザレ Arzare という地方名が

 「彼等が最後まで住んだ」地として記されている。

 そこは、

 ユーフラテス川を越えて一年半の長い道のりを

 要するところだといっている。

 アルザレは、安定あるいは安価の訓音に近い。

 また、博罗轉井の南西方に5,798メートルの高さの

 阿尓金山及びその名称の山脈があるが、

 これは、ウィグル語の「黄金」を表す altun を

 漢語化した名称とみられるが、

 「アルタン」もまたアルザレに近似する。

 しかもアルザレ、

 アルタンはセム語(アッカド語)の同じく「黄金」を意味する

 hurasu を祖語とするとみられるものである。

  和氏については事情がある。

 月氏が渡来する以前、ここは和氏の郷であった。
 
 『史記』五帝本紀堯帝の

 「和仲に命じて、西土に居らしむ。昧谷(まいこく)と曰ふ。

  敬(つつし)みて日の入るを導(みちび)き、西戎を便程す」

 とあることと係わるからである。

 和仲は和氏の次子の意味で、西土は三危(さんき)とも呼ばれた。

 同じ堯帝条に

 「三苗を三危に遷(うつ)し、以って西戎に変じ」とあり、

 三危は現在敦煌の東仏教の岩窟で有名な

 莫高窟のある三危山にその名を遺す。

 西土は西戎の地である。

 和氏はまた夏氏であり、

 月氏が西遷して移り住んだ地を

 大夏(バクトリア)というのはこれに依るものである。

 夏は史記にも「夏本紀」があるが、

 殷より古い王朝とも考えられる。

 以前には空想の王国とされていたが、

 最近は考古学的資料が夏の実在を証明するようになり、

 今では

 中国の最初期の王朝名として認められるようになっている。

  堯帝により和氏の一部が移転させられた理由により

 そこの住民を和氏と称したのである。

 第九章中国の祝祭と皇帝で述べる

 和氏が米作りと養蚕業に優れていたとすると、

 月氏は彼等より絹についての知識・情報を得たのである。

 月氏が絹商人へと変化していくきっかけである。

 敦煌の北方、新彊区内に哈蜜市がある。

 この町は和氏が建てた町と考えられる。

 雲南省の少数民族に哈尼(はに)族がいる。

 彼等は古くは

 「和夷(ほい)」

 「和蜜(ほまん)」

 「和泥(ほに)」などとも呼ばれ、

 史記に載る和氏の一族と考えられる。

 哈尼族ばかりでないが、

 雲南の民族は紡織・織布に優れ、

 色彩豊かで個性的な織物は歌垣(かがい)という祭礼で

 人々が着る衣裳のすばらしさでよく知られている。

 手工業は農閑期の母親に手ほどきを受けて伝統の継承者となる。

 彼等の祖先は

 もっと北方の四川省方面にいた人々と考えられている。

 四川省は蚕(蜀)で古来栄えた地方である。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ 

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