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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:944~947頁
第15章 大黒柱と大己貴命
大黒柱
前章で「柱を建てる」のが建御名方神の字義であり、
大国主神の国譲りに登場する水戸神の本義であることを紹介したが、
その大国主神国譲りを了承した際に述べた言葉に次の様にある。
前節で転載した節句のすぐ前で
此の葦原中国は、命の隋に既に獻らむ。
唯僕が住所をば、天っ神の御子の天津日継知らしめす
登陀流天の御巣如して、
底津石根に宮柱布斗斯理、
高天の原に氷木多迦斯理て治め賜はば、
僕は百足らず八十垧手に隠りて侍ひなむ。
この部分について、日本古典文学全集は次の様に現代語訳している。
この葦原中国は天っ神の御世のままにすっかり差しあげましょう。
ただ私の住まいをば天っ神の御子神聖な皇位におつきになる
光り輝く壮大な御殿のように、地底の岩盤に宮柱を太く立て、
高天原に千木を高くそびえさせてお造り下さるならば、
私は(百足む)多くの道の曲がり角を経て行く遠い所に
隠れておりましょう。
このように述べたのは、
大黒主神が根の国の須佐之男命を訪ねた時
「その我が女須世理毘売を嫡妻と為て、宇迦能山の山本に、
底津石根に宮柱布刀斯理、高天の原に氷橡多迦斯理て居れ」
といわれていたからである。
水戸神が建てただろう「天の御舎」は
「底津石根に宮柱布年(刀)斯理、高天原に氷木多迦斯理て」
建てられた。
まず最初に宮柱が太く立てられたのである。
「柱」は伊邪那岐命と伊邪那美命の神婚に当っても
「其の島に天降り坐して、天の御柱を見立て、
八尋殿を見立てたまひき。」とあるように
諾册二神においても重要である。
また水戸神の孫櫛八玉神が大国主神の膳夫となりて奉祀するに際し
「鎌海布の柄を鎌りて、燧臼に作り、
海蒪(こも)の柄を以ちて燧杵に作りて、火を鎌り出て」とあるように
その本来の像は燧杵である鐟木にあると考えられる。
諾册二神の「天の御柱」はまた「天之御中主神」と称揚されていると考える。
同神は『古事記』の天神の第一で高天原の主宰神とみられている。
それは八尋、つまり広大な殿(屋敷)の宮柱である。
この「柱」は、杵築大社では「心御柱(しんのみはしら)」であり、
「宇豆柱」もその宮柱に入るだろう。
前掲「出雲大社」において千家尊統は
「大社造の本源たる出雲大社の心の御柱は
その巨大性が注目されるのであり、
要たる「ダイコク様」の俗称も生ずる由縁である。」と述べている。
「ダイコク様」について考えてみる。
大辞泉は「大黒柱」として
「①民家の土間と床との境の中央に立てる特に太い柱、
また建物の中央に最初に建てる柱、亭主柱、
②家や国の中心となってそれを支える人」とする。
広辞苑は「大黒柱、大極柱」として」
「①家の中央にあって最初に建てる柱、建物柱、
②民家の土間と床上部との境にある特に太い柱、亭主柱、
③転じて家や団体の中心となり支えとなっている人」とする。
いずれにしても第一に家の中央に最初に立てられる太い柱で、
第二に家や団体を中心となって支える人の二つの意味がある。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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