2015年7月28日火曜日

イスラエル人と月氏:アッシリアへの強制移住

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:334~338頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

      イスラエル人と月氏:アッシリアへの強制移住

  烈王紀下の第18章は次のように記す。

 アッスリアの王はついにサマリアを取り、

 イスラエルの人々をアッスリアに捕らえていって、

 ハラとゴザンの川にハボルのほとりをメディアの町々においた。

  この事件は、

 シャルウマネセル三世が

 紀元前722年にパレスチナへ侵攻した際のことであった。

 第17章でイスラエルのアハズ王が会った

 アッシリアのティグラト・ピレセル三世の治世は

 紀元前744年から727年であり、

 続くシャルウマネセル五世の治世は726年から722年であり、

 烈王紀のいうアッスリアの王シャルウマネセル五世こととなる。

  イスラエルの人々が移住させられた地は、

 ザクロス山中のメディア国が建国された時

 首都が置かれたエクバタナ、

 現在のケルマンシャアの近辺である。

  ハラ Halah アッシリア時代のハルハルで、

 現在のカルへ Khareh 川の沿岸 karand あたりであろう。

 カルへ川の上流に khara 川がある。

  ゴザン Gozan は、

 ディヤラ川の水源の盆地近く現アルヴァト山の麓で

 ゴディン Godin の地名がある。

 ゴディン・テペと呼ばれる旧石器時代からの遺跡がある。

  ハボル Habor は、ザクロス山脈の西側イラクとの国境にある

 カビル kabir 山地に因むものとみられるが、

 その周辺の地であろう。

  メディア Medea は、

 メソポタミアの東側のアッシリアを

 滅亡させた国の名称であるが、

 イスラエル人が連行された当時は

 まだケルマンシャアを中心とする

 狭い領国であったから同市周辺とみられる。

  ところで、この事件を聖書はどうとらえたかであるが、

 第18章は続けて述べる。

  これは彼らがその神、主の言葉にしたがわず、

  その契約を破り、

  主のしもべモーセの命じたすべての事に耳を傾けず、

  また行わなかったからである。

 つまり、イスラエルの人々は、

 モーセにシナイ山で語りかけた主(ヤハウェ)の言葉で

 「十戒」などに従わなかったからだといっているのである。

 彼等は現在の言葉でいうと

 ユダヤ教を信奉しなかったからだということになる。

 第17章でさらに詳しくその理由を説明している。

  イスラエルの人々は、

  その神、主にむかって正しからぬ事を密かに行い。 
  
  見張台から堅固な町に至るまで、

  すべての町々に高き所を建て、

  またすべての高い丘の上、

  すべての青木の下に石の柱とアシラ像を立て、

  主が彼等の前から捕らえ移された異邦人がしたように、

  すべての高い所で香をたき、

  悪事を行って主を怒らせた。

 この条句のなかでいう

 「主が彼らの前から捕らえ移された異邦人」とは

 カナアン人のバアル信仰を表す聖書の慣用句である。

 「高き所」とはアルパチア遺跡の高床式神殿からジクラトまで

 すでに熟知の宗教的建立物である。

 紀元前8世紀のヘブライにおいては、

 まだバアル神信仰が根強く、

 アッシリア(メディア)へ移住させられた人々の信仰が

 ユダヤ教だけでなかったことを明らかに物語っているのである。

 西欧の学究は、

 失われた十支族として

 世界中にユダヤ教徒の痕跡を捜し回ったが、

 それは矛盾である。

 移住した人々が持っていた信仰は

 バアル神信仰や、月神信仰でもあったと考えるべきである。

  次の注意点は、

 移動させられた先メディアが

 牛頭信仰の古くから行われていた地方であったことである。

 ハブール Kabir 名の残る地帯の一部せある。

 メディア国は紀元前625年に建国し

 613年に新アッシリアを滅亡させた。

 そのため、

 その版図はアナトリアから

 バクトリア、パンジャブにまで及んだ。

 その間移動させられたイスラエル人たちが

 どうしたのかは全く解らない。

 だが、紀元前4世紀になると、

 中国の西北方面甘粛省あたりに月氏 Yuen-shih が現われるが、

 この部族がイスラエルと近似している。

 その原語はヘブライ語の יעד yad の転訛であり、

 その字義は「記念碑」を表す。

 この記念碑とはイスラエル十部族の象徴である。

 ヨシュア記第22章で

 「ルベンの子孫ガドの子孫およびマナセの部族」

 「半ばカナンの地のほとりにきた時、
 
  その所で、ヨルダンの岸辺に一つの祭壇を築いた。

  それは大きく遠くから見える祭壇であった。」

 「ルバンの子孫とガドの子孫は、

  その祭壇を「あかし」と名づけて言った。

  これは、われわれの間にあって、

  主が神にいますというあかしをするものである。」

 に由来するもので、

 「あかし」(証拠)のヘブライ語は

  IDVT iedut あるいは IDH ieed と表記され、

  YD yad (記念碑)との関係をみせているばかりでなく、

 月氏 yueh-shin および義徒 i-tsung の原語であるのである。

 ヨシュア記の詳しい解説からすると、

 「記念碑(祭壇)」は

 イスラエル人(失われた十部族)の代名詞である。

  漢書地理志の安定項中に月氏道の名称がある。

 現在の廿粛省酒泉敦煌県の辺りに当たる。

 史記大宛列伝に匈奴に対抗するため

 漢の武帝が使者張鶱を遣わした国である。

 この時月氏の一部はバクトリアに移動(紀元前176年)も

 大月氏となっていた。

 移動の途中彼等等イリ川の水源の地方伊犁に

 弓月城を築きしばらく留まった。

 弓月は三日月の比喩名である。

 また、

 バクトリアの彼等の首都名を大宛列伝は藍市城と記すが、

 これは中国語で Jirm-shi と発音される。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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