2015年7月31日金曜日

月氏とシルクロード:クシャン王朝

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:351~355頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

      月氏とシルクロード:クシャン王朝

  大月氏国の五翕候時代は40年余り続くが、

 紀元前20年頃から

 五翕候のうちの貴霜のギリシャ名ヘラウスが統一行動を始める。

 そして紀元後45年に他の翕候国を圧えて

 グジコラ・カドフィセスによりクシャナ王朝が成立する。

 カドフィセスの王朝は

 その子ウーマ(カドフィセス二世)の時代144年まで続き、

 その後やはり于闐出身のカニシカ王が

 その王権の座につき支配王族が交替する。

  カドフィセスの王朝が富み盛えたことが

 インドの仏典により知られる。

 中村元の「インド古代史」によると

 「クシャーナ帝国の財力はローマとの貿易によって

  蓄積されたことも相当大きかったに違いない」とし、

 その実情を次のように述べる。

  クシャーナ族が西北インドを支配した時代になると、

  ローマとの交通が活発になり、商業活動が盛んになった。

  当時水路の旅行は盛んに行われたらしい。

  陸路の旅行は困難であるが、

  水路の旅行は安易であるということが、

  当時の仏典にも盛んに強調されている。

  この時代にはインドからローマに輸出された

  莫大な奢侈品と交換に、

  ローマから多くの金が大量に移入された。

  クシャーナ帝国の商人はローマとの交易を開き、

  絹・香料・宝石・染料などを売ってローマの黄金を獲得した。

  プリニウスの伝えるところによると、

  その当時は毎年五千万 sesterius の金を

  ローマから持ち去ったが、

  それに対して送ってよこした商品は

  原価の百倍で売られたという。

  そして

 「このローマの金の大量移入を可能ならしめた発端は、

  先グジャラがローマと使節を派遣したことに

  求められるべきであろう」

 とする。

 このようにタリム盆地を通じて玉・絹の交易路を成立し、

 それまでペルシャから小アジア方面への交易網を

 活用していたが、

 後には海路による大量輸送へと転換をはかることとなる。

  中央アジアと地中海沿岸にパルチア国があったことにより

 事情は変化し始める。

 上記のような陸路による効果的な交易網が機能しなくなる。

 パルチアの成立が

 中央アジアと地中海沿岸との交易路の行き来を

 邪魔したばかりでなく、

 ローマが東方へと勢力を伸ばすに従い

 パルチアとの間に紛争を再々起こし

 遮断された状態が恒常化するようになった。

 また、東方の漢は後漢の時代になって西域へ遠征軍を送り、

 90年にはクシャン王朝と直接戦争する事態となった。

 この当時も漢の史料ではクシャン王朝を大月氏と呼んでいたが、

 大月氏が東方に持っていた商業権も漢に奪われてしまい、

 富をもたらした商業国家カドフィセスの王朝は打撃を受け

 停滞をせざるを得なかった。

 この間の事情についてインドの歴史家

 R・S・シャルマは次のように解説する。

  絹は、

  中国からアフガニスタン北部とイランを通る

  「絹の道」によって、

  インドを経ずにローマに送られた。

  しかし、

  パルティア人がイランとその近隣地域を支配すると、

  その交易は難しくなったため、

  絹はインドの西北部を通って

  西海岸の港へ運ばれるように変わった。

  また、

  中国からインドの東海岸を経て

  西海岸へ運ばれることもあった。

  このようにインドとローマ帝国の間には

  絹の中継貿易がかなりおこなわれたのである。

  この時期インドからローマへ送られたものに鋼鉄が

 加わるようになる。

 この重い資材は船により初めて大量輸送が可能である。

 その点シュメルの時代から銅やや錫、

 木材をペルシャ湾に送った

 インド商人にとってはお手前のものであったろう。

 ローマからはガラス器などが運ばれて来たが、

 その中心は大量の金貨と銀貨であった。

 ローマの貨幣はインド全土のうち

 80ヶ所以上で発見されているが、

 その全てがヴィンダャ山脈以南の地域である。

 このことは海洋交易の隆盛が

 ローマとの交易を開始させたと解釈できる。

 西アジアとの交易は、

 南インドの物産とそれより東方の海路から

 もたらされた物産を取り扱う南インドの海洋商人が、

 その主役を努めたことになる。

 ローマの貨幣は

 ベトナムのメコン川のデルタでも発見されている。

  カドフィセスの王朝の停滞を受けて登場したのが

 カニシカ王の勢力で、武力により北はソクディアナから

 南はインドの中心ガンジス河下流へと進出し、

 サルフート辺りまで、

 西南はアラビア海に至るまで支配下に置いた。

 このカニシカ王に対し、

 インド側がその支配勢力である

 アーリア人との整合性を求めて

 日種(太陽神崇拝者)であろうとしたが、

 彼自身はあくまで月種(月神崇拝者)だとして

 変えることができなかったという。

 その祖族がヘブライ人である拘泥がみられる。

 実際同王朝の彫像には三日月をあしらったものがみられる。

  ローマの金貨がヴィンダャ山脈以北から

 発見されていない理由であるが、

 中村元の解説においても

 「ローマから多くの金が大量に移入された」、

 「ローマの黄金を獲得した」と記し、

 金貨とは言っていない。

 また、

 第二代のカドフィセスはインドで初めて金貨の制度を始め、

 ローマから持ち込まれた金を

 自国の金貨鋳造のために使ったとの理由があげられる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ
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