ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年2月1日水曜日
太安萬侶と多人長をめぐる謎と答
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録25:32頁
太安萬侶と多人長をめぐる謎と答
会員から大学院講義録24の「太安萬侶の布屠」を、
も少し詳しくというお問い合わせがあったので、ここで追加申し上げる。
安萬侶をあれほど宣伝して彼の子孫であることを誇りとした多人長らが
何故?名誉ある「太」姓を捨てて多に変えたのか?という疑問に、答が完備している。
「姓・かばね」は「八種(やくさ)の姓」制定で御存知の通り自称ではなく官製である。
以後官位に付随して認定されたもので、地位偽称の恐れがあるところから、
自称も改姓もできなかった。
人長らが許可されたのには、それ相応の理由が必要だったのである。
太と多を比較してみると、漢音は双方<タ>。
和訓も双方<オオ>。
異なる点はただ一つ「太」が「フト」と読めることだけだ。
だから人長らが嫌ったのは、その<フト>だったと解るのである。
その<フト>が意味するものは布屠だけで、それは僧侶のことだから、
官製の「太」は、
その<フト>に対して与えられたもので、安萬侶の本来の地位を表わしている。
しかし大化大戦敗北により、仏教徒は排斥されて東北に逃げ、
あるいは関東に追いやられて去り、
僅かに残っていた者が天武天皇によって救済されたのである。
ごく下級の太安萬侶が登用されたことは、僧は漢文の経典を学んでいる。
その才能を修史に利用するため以外は考えられない、
これが安萬侶と人長らに山積する謎を一挙に全部解く、
唯一の明瞭な理由で証拠なのである。
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