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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
執筆時期:1999~2000年
≪伊和神②≫
「延喜式」神名帳に載る伊和坐大名持御魂神社は
現在に宍粟郡一宮町須行名に鎮座する伊和神社に該当する。
「宍粟郡」は風土記の「宍禾郡」から転移したものである。
この郡名の由来について風土記は
「宍禾と號くる所以は、伊和の大神、
国作り堅め了へまして後、山川谷尾を堺ひに、
巡り行でましし時、大きな鹿、己が舌を出して、
矢田の村に遇へりき。
爾に、刺(の)りたまひしく、
『矢は彼の舌にのりたまひき。』、
故、宍禾の郡と號け、村の名を矢田の村と號く」
との挿話を記している。
しかし、その理由は別に隠されている。
ただ、ここで確認できることは「絹と地名分布」で
京都市亀岡市の「矢田」を「シタ」であると述べたが、
ここの矢田が「舌(した)」であることを示しており参考となる。
郡名について考察すると、
「宍」は本来「肉」の意味で「シシ」と読まれるが、
「宍」は本来「肉」の意味で「シシ」と読まれるが、
島根県宍道湖の例のように
「シン」ないし「シニ」とも読まれている。
「シン」ないし「シニ」とも読まれている。
「禾」は「茎にまだある穀類」を
「粟」は「殻にまだある穀類」をいう。
「宍禾」は「シネカ」、
「宍粟」は「シシアワ」から「シサワ」となる。
「シネカ」は第11章の「稲荷:黄金山信仰」で
解釈したように「イネカ・稲荷あるいは稲架」であり、
風土記の宍禾郡に載る伊奈加川の名称となる。
その川名の説明では「いななく馬」があったからとしているが、
これは「秦」を表わしたものである。
「伊奈加」をもっと短絡的に考えると
ヘブライ語の「巨大、大人、巨人」を表わす。
INK の音写ともみられる。
「大」はガド族名に係わる。
また「志摩のダンダラボーシと天白社」で詳説するように
「大人」伝説に結びつく。
播磨国風土記の
託賀(たか)郡の地名由来に登場する「大人」である。
つまり宍粟と秦を崩した名称と考える。
つまり宍粟と秦を崩した名称と考える。
ここは秦氏の勢力が固めた地方なのである。
秦氏との関係では
すでに赤穂市坂越町にある大避神社を紹介したが、
播磨国のこの地域に現在30社からなる同名社が鎮座している。
同社の由緒について
「播磨鑑」による伝承では皇極2年(643年)
秦河勝が蘇我入鹿の難を避けるため難波を船出して逃れ
生島に辿り着いたので、
坂越浦の里人は新殿を建てて奉仕したという。
秦河勝は京都府太秦の大酒神社(広隆寺)の建造などに
活躍した聖徳太子の寵臣であった。
その時代は7世紀の中頃である。
弓月君が百済から渡来したのが応神天皇の時、
秦造酒が太秦に秦氏の一族を結集し、
また養蚕業の振興に乗り出すこととなったのは
雄略天皇の時である。
それらの歴史を考慮すると、
秦河勝が坂越に逃れて来たのは
ここにすでに同族の勢力が
確固とした地盤を築いていたからと考えられる。
伊奈加川は一宮町の南山崎町の菅理川に比定されている。
この川は西方から流れ揖保川に合流するが、
同様に北西から流れてくる川に伊沢川がある。
これは風土記の都太川で、
「トブト」でダビデ DVD の訛ったものらしい。
というのも、
その川の北には伊加麻川が風土記に載っているが、
これはヤコブ YIKB の訛である。
それらの北に位置するのが
伊和神社の鎮座する石作里であった。
この里名はイサク YTsHK の音写である。
石作里について風土記は「本の名は伊和なり」と記している。
風土記が同郡にあるという伊和村は
この伊作里内の村とされている。
風土記飾磨郡のうちにある伊和里は
風土記に前記のごとく述べており、
この一宮町の石作里からその族が移ったと言っている。
現在の姫路市の西南部に当たり、
和名類聚抄には「伊和郷」、
和名類聚抄には「伊和郷」、
近世まで岩郷と表記されていた。
貽和里名も「伊和」である。
『出エジプト記』で
モーセがヤハウェ神から授かった律法、
モーセがヤハウェ神から授かった律法、
いわゆる「十戒」のうちには、その第三に
「あなたは、あなたの神、
主の名をみだりに唱えてはならない」との掟がある。
そのため、ヤハウェ神の別称として作られ、
一般に通称されている YH(yeh) が「伊和」の祖語である。
ここは明らかにイスラエル人の里郷なのである。
ここは明らかにイスラエル人の里郷なのである。
宍粟郡の南は現在揖保郡である。
そこに新宮町があるが、
この「新宮」は「三日月神の宮」の意味がある。
町内に市野保があるが、これは「シン」に同じで、
秦の祖語アブラ(ハ)ムが
メソポタミアのカルディアのウルで信仰していた
アッカド語の三日月神 SIN を表わした町名である。
町内の能地はヘブライ語の「統領あるいは総裁」、
多分族長を表わす NSYA(nosi) を、
芝田(こげた)の「コゲ」は「玉」の KHGL(kvgl) に依るもので、
実際は秦氏の養蚕に係わる繭玉の意である。
新宮町の北東の宍粟郡安富町は
安師村と富栖村が合併した町名だが、安師里は風土記にも載り、
和名類聚抄に「安志郷」、訓を「アナシ」としている。
またの呼称は「アンジ」である。
この表音はアッカド語に由来し、同じく「三日月神」を表わす。
Sin はアッカード語において en-zi(神-月)から
en-si、si-en と変化したもので、
en-zi(アンジ)、en-si(アンシ)の音写となっているのである。
播磨にも神崎郡香寺町に
矢田部や吉備津神社(中寺)などがあるように
ヤーダヴァ族の影響があったことは間違いなく、
メソポタミアを祖地とする氏族が考えられ、
アッカド語の存在は不思議ではない。
新宮町の西側は佐用郡三日月町である。
新宮町の西側には風土記に載る栗栖里があった。
和名類聚抄に栗栖郷とあり、訓を「久流須」としている。
現在そこに栗町、また角亀、角の鼻があることから
この祖語が kulja であることが解る。
角ではあるが、三日月を表わす用語である。
その西方には上月町もあり、
ここが月神信仰の地であることを示している。
「新」は「秦」にして Sin である。
「新」は「秦」にして Sin である。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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