2010年12月8日水曜日

八幡徒=ヤマトの分布が教える邪馬台説の惨敗

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録13:28頁

八幡は応神天皇の別名だから、

我が国で八幡信仰が盛んになって、

八幡徒=ヤマトと呼ばれる人々が現われたのは、

4世紀以後のことである。

さらにそれが大隅、宇佐と移動して、

奈良にまで広がったのは、

奈良朝が成立した後のことである。

それでも聖武天皇の大仏造営時には、

宇佐八幡からやってきて手伝っている。

奈良はもちろん畿内には、

それ以後も八幡の大社はなく、

隣接した京都府綴喜郡の八幡(ヤワタ)町に

石清水八幡宮(いわしみず)が建立されたのは、

清和天皇の貞観元年(859年)である。

応神天皇出現以前の卑弥呼時代に、

我が国に八幡徒=ヤマトが居たり、

ヤマトという国があったりするはずがないのである。

それを無理にあったとしても、

応神の都、「軽=鹿児」の「明=阿鹿児」の宮、

すなわち鹿児島神宮から、

余りにも遠隔の奈良にまで、

その信徒が分布して、

それを国号にしていたはずがない。

それなのに「邪馬壹」を無理やり「邪馬臺」に変え、

それを3世紀にはなかった7~8世紀の唐代発音でヤマトと読んで、

6世紀以後やっとヤマトと呼ばれた奈良に、

ヤマト国の女王・卑弥呼がいたと主張する連中がいた。

ところが邪馬壹国の主は壹與であって、卑弥呼ではない。

どこからどこまで出鱈目な説だったか、呆れるほかない。

過去に見られた邪馬台国論争は、

とても学問の分野には入らないお粗末きわまる

水掛け論争だったのである。


『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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