『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録13:28頁
八幡は応神天皇の別名だから、
我が国で八幡信仰が盛んになって、
八幡徒=ヤマトと呼ばれる人々が現われたのは、
4世紀以後のことである。
さらにそれが大隅、宇佐と移動して、
奈良にまで広がったのは、
奈良朝が成立した後のことである。
それでも聖武天皇の大仏造営時には、
宇佐八幡からやってきて手伝っている。
奈良はもちろん畿内には、
それ以後も八幡の大社はなく、
隣接した京都府綴喜郡の八幡(ヤワタ)町に
石清水八幡宮(いわしみず)が建立されたのは、
清和天皇の貞観元年(859年)である。
応神天皇出現以前の卑弥呼時代に、
我が国に八幡徒=ヤマトが居たり、
ヤマトという国があったりするはずがないのである。
それを無理にあったとしても、
応神の都、「軽=鹿児」の「明=阿鹿児」の宮、
すなわち鹿児島神宮から、
余りにも遠隔の奈良にまで、
その信徒が分布して、
それを国号にしていたはずがない。
それなのに「邪馬壹」を無理やり「邪馬臺」に変え、
それを3世紀にはなかった7~8世紀の唐代発音でヤマトと読んで、
6世紀以後やっとヤマトと呼ばれた奈良に、
ヤマト国の女王・卑弥呼がいたと主張する連中がいた。
ところが邪馬壹国の主は壹與であって、卑弥呼ではない。
どこからどこまで出鱈目な説だったか、呆れるほかない。
過去に見られた邪馬台国論争は、
とても学問の分野には入らないお粗末きわまる
水掛け論争だったのである。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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