『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:19頁
これで安康天皇が
允恭天皇の子ではなかったことが証明された。
では雄略天皇だけが実子だったか?。
『古事記』の名乗りは彼が種子島の長谷を名乗っていて、
いかにもこの一族の一員のように見えるが、
彼は允恭を倒して、
その次の天皇になったので、
跡取りという意味では確かに
「皇太子」の位置にいるが、
直接、血のつながった実子ではない。
ちょうど日本武尊が熊襲を倒して、
その名乗りの「日本武尊」を受け継いだように、
天皇の地位を得たから、
子として名を連ねているだけである。
さらにこの皇后の父や后妃皇子女の名乗りを見ると、
それはまさに
日本=肥索=クマソ=熊本で、
熊襲退治の舞台そのものである。
そして雄略天皇の固有名もまた「武」である。
だとすると允恭天皇の
「男浅津間」はナン・アサの国と読める。
もとは「南阿蘇の国」だったとすれば、
この一族の名乗り群に合理的に一致する。
肥後はヒゴ。
大隅語でシゴ。
沖縄語になるとチゴ・チグァ。
「稚子」はこれに対する当て字だった可能性も大きい。
すると何よりも高麗は略称高国でクマ。
高句麗王朝の本拠だった土地だ。
故国川王が球磨川王への当て字で、
他の王たちも薩摩から熊本地方に都していたことは、
よくご存知である。
応神天皇の育ての親、
武内宿祢の宿祢を名乗る允恭天皇が何者だったか、
疑問の余地はない。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史学講座『創世』
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ウワイト
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