2010年12月29日水曜日

疑問の余地ない、允恭・雄略両天皇の全て

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:19頁

これで安康天皇が

允恭天皇の子ではなかったことが証明された。

では雄略天皇だけが実子だったか?。

『古事記』の名乗りは彼が種子島の長谷を名乗っていて、

いかにもこの一族の一員のように見えるが、

彼は允恭を倒して、

その次の天皇になったので、

跡取りという意味では確かに

「皇太子」の位置にいるが、

直接、血のつながった実子ではない。

ちょうど日本武尊が熊襲を倒して、

その名乗りの「日本武尊」を受け継いだように、

天皇の地位を得たから、

子として名を連ねているだけである。

さらにこの皇后の父や后妃皇子女の名乗りを見ると、

それはまさに

日本=肥索=クマソ=熊本で、

熊襲退治の舞台そのものである。

そして雄略天皇の固有名もまた「武」である。

だとすると允恭天皇の

「男浅津間」はナン・アサの国と読める。

もとは「南阿蘇の国」だったとすれば、

この一族の名乗り群に合理的に一致する。

肥後はヒゴ。

大隅語でシゴ。

沖縄語になるとチゴ・チグァ。

「稚子」はこれに対する当て字だった可能性も大きい。

すると何よりも高麗は略称高国でクマ。

高句麗王朝の本拠だった土地だ。

故国川王が球磨川王への当て字で、

他の王たちも薩摩から熊本地方に都していたことは、

よくご存知である。

応神天皇の育ての親、

武内宿祢の宿祢を名乗る允恭天皇が何者だったか、

疑問の余地はない。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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