『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:16頁
このことは、
允恭天皇の名乗りが「男浅津間君子宿祢」という、
高族の伝統的な名乗りである武内宿祢に代表される
「宿祢(すくね)・足尼(スクネ)」号をもっていることで、
一目瞭然である。
しかし『記・紀』は
万世一系を内外に主張宣伝するのが最大の眼目だったから、
彼を倭王・興=安康天皇より前に置いて、
うやむやにしてしまっている。
その高族=高句麓系政権を、
次代の倭王・武が、
新羅の名医「金波鎮漢紀武」と名乗って、
船81艘を率いて乗り込むというトリックを使って奪回した。
この倭の五王たちの大和入り作戦の総計が、
「河内で敗北挫折して南の紀伊へ大迂回して、
ついに大和を奪取した」という
神武天皇記事の実像なのである。
これで倭の五王に允恭天皇が入らない理由も
明快に理解できたはずだ。
だからもう一人の五瀬の命は、
河内で敗れて命を落とした天皇、
すなわち倭王・興=安康天皇で、
『三国史記』の百済の蓋盧(コウロ)王である、
仁徳応神両天皇陵を始め巨大古墳の建造者だった彼が、
河内で高句麗に敗北したことは事実で、
彼以外に「河内」で重傷を負ったイザナギはいない。
彼が河内で敗れて和歌山で死んだとみるのが最も妥当だとすると、
窯山神社の祭神は珍ではなく興でなければならない。
では珍はどこに祭られているか。
それは彼のチヌの名を郡の名に色濃く止どめている淡路島、
津名郡津名町の「天神=チヌ神」以外にはない。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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