2010年12月26日日曜日

允恭(いんぎょう)天皇が倭の五王に入らない理由

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:16頁

このことは、

允恭天皇の名乗りが「男浅津間君子宿祢」という、

高族の伝統的な名乗りである武内宿祢に代表される

「宿祢(すくね)・足尼(スクネ)」号をもっていることで、

一目瞭然である。

しかし『記・紀』は

万世一系を内外に主張宣伝するのが最大の眼目だったから、

彼を倭王・興=安康天皇より前に置いて、

うやむやにしてしまっている。

その高族=高句麓系政権を、

次代の倭王・武が、

新羅の名医「金波鎮漢紀武」と名乗って、

船81艘を率いて乗り込むというトリックを使って奪回した。

この倭の五王たちの大和入り作戦の総計が、

「河内で敗北挫折して南の紀伊へ大迂回して、

ついに大和を奪取した」という

神武天皇記事の実像なのである。

これで倭の五王に允恭天皇が入らない理由も

明快に理解できたはずだ。

だからもう一人の五瀬の命は、

河内で敗れて命を落とした天皇、

すなわち倭王・興=安康天皇で、

『三国史記』の百済の蓋盧(コウロ)王である、

仁徳応神両天皇陵を始め巨大古墳の建造者だった彼が、

河内で高句麗に敗北したことは事実で、

彼以外に「河内」で重傷を負ったイザナギはいない。

彼が河内で敗れて和歌山で死んだとみるのが最も妥当だとすると、

窯山神社の祭神は珍ではなく興でなければならない。

では珍はどこに祭られているか。

それは彼のチヌの名を郡の名に色濃く止どめている淡路島、

津名郡津名町の「天神=チヌ神」以外にはない。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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