創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:177頁
第三章 スバル人の商業活動(3)
ザウィ・チェミ遺跡の位置する峡谷は
英語名で Shanidar で世界に知られた呼称であるが、
川名や国境を越えたトルコ領内に Samdr 山、町の名 Semdinli がある。
その祖語はシュメル語の šam (屠殺する)の同類である。
この šam には「突く、打つ」の意味もあり、
samdr は「突く者、打つ者」の意味になり、「鍛冶工」の意味をも含む。
ザウィ・チェミの羊飼いたちはアナトリアで粗銅を入手したが、
その当時は鍛打法により銅を抽出したのである。
samdr はサンスクリット語に入り samitr となったが、
ドイツ語の Schamip 、
英語の smith ともなり、
「鍛冶工」がその意味するところである。
この鍛打工たちが銅を鋳出する技術を発明すると、
「溶解」することを
ドイツ語で Schmelze 、
英語で smelt と šum の派生語が拡大した。
なお、シュメル語には、
šum の同義語 sim があり、 simug 「鍛冶工」となり、
その同義語に de がある。
金、銀、鉛 また後世の鉄鉱は
アナトリアからザクロス山脈にかけての山岳地帯から入手できた。
しかし、錫は西アジア地方からは掘り出されず、
遠く現在のイランのカヴィール砂漠の東方から
運んでこなければならなかったのである。
そして、この錫を専有的に取り扱うネットワークを獲得したのが
スバル人であったと考えられる。
南メソポタミアの王権にとっては
この商業権こそが我が物にいたい対象であったのである。
ARPACHIYAH 1976
『参考』
Tell Arpachiyah (Iraq).
まんどぅーかネット
シュメル絵文字
シュメル語・日本語
《Key Word》
ザウィ・チェミ遺跡
アッカドとエラム
Shanidar洞窟
カヴィール砂漠
フルリ人
※フルリ人(英: Hurrian)は、古代オリエントで活動した人々。
紀元前25世紀頃から記録に登場する。
彼らは北メソポタミア、及びその東西の地域に居住していた。
彼らの故郷は恐らくコーカサス山脈であり、
北方から移住してきたと考えられるが、確かではない。
現在知られている彼らの根拠地はスバル(Subar)の地であり、
ハブール川流域や後には北メソポタミアと
歴史的シリアのいたるところで小国を形成した。
フルリ人達が建てた国の中で最も大きく、
有力であったのはミタンニ王国であった。
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