『Yahoo!天気・災害』
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:236頁
第四章 フルリ人とミタンニ国-5
紀元前十六世紀の北メソポタミアにミタンニ王国が建設された。
フルリ人の経済的基盤の上に立脚した王国であった。
アッシリア人はミタンニをアッカド語でハニカルバドと呼んだが、
これは多分「商品を交換する国」の意であろう。
ミタンニ Mitanni はマタンニ Matanni とも呼ばれたが、
グルジア語で mdha というので、
「山の国」が本義であったと考えられる。
その首都ワシュガンニの所在地は未だ不確定であるが、
これもグルジア語による解釈によると「谷を出た所」の意であり、
ハブール高原のどこかであったことは間違いないだろう。
ミタンニ王国の最盛期には、
その領土が東方のヌジのあるザクロス山脈の西麓からアッシリア地方、
北方はヴァン湖の南岸からチグリス川の水源ハザ湖周辺を含む
アルシュ、イシュワ地方、西方はタロス山脈の東部、
地中海北岸ウガリットはもちろん
オロンテス川上流カデシュまで達し支配した。
北方のアナトリアの帝国ヒッタイトとクズル・ウルマク川付近で、
南方のエジプトとカナンのビブロスあたりで常に拮抗していた。
ミタンニ国は両国の圧力により滅亡し消滅するが、
フルリ人が抹殺されたわけではない。
彼等は続くアッシリア、カッシートなどのバビロンの覇権の下にも存続し、
紀元前九世紀頃アッシリアの北辺にヴァン湖を取り巻いて
ウラルトゥ国を建設することになる。
ARPACHIYAH 1976:高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
Tell Arpachiyah (Ir aq).
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《Key Word》
紀元前十六世紀
ミタンニ王国
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