2013年9月30日月曜日

ウラルトゥ-4


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:241頁

 第四章 ウラルトゥ-4

  工芸文化の特徴は青銅による器物及び諸像などの製作にある。

 その精巧な作りは鋳造技術の高かったことを示し、

 優れた技術的集団の存在をうかがわせている。

 クセノポンの『アナバシス』にも、

 ギリシャ軍の占領したカルドゥコイ人の村の家々には青銅製の

 什器が多数具えてあったが、

 ギリシャ軍は一切手をつけなかったと記されており、

 青銅製物品が一般的に幅広く使用されていたことを伝えている。

 ウラルトゥ語はフルリ人の言語と直接的係わりがあるが、

 フルリ集団が鉱夫であり、

 青銅を加工する技術集団であったこととの結びつきを如実に語っている。

 紀元前八百年頃のメヌア王の碑文には青銅ばかりでなく、

 鉄工技術についても触れられており、

 この時代すでに鉄を巧みに利用していたことを示している。

 地元に産出する鉄鉱石を大いに利用した結果でもあろう。

 同王の碑文は七〇点以上見つかっているが、

 その内容は金属加工のほか宮殿、灌漑用水路、倉庫、神殿などの

 建築計画について記述されている。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 ウラルトゥ

 ウラルトゥ語

 クセノポン

 アナバシス

 カルドゥコイ

 メヌア王の碑文

ウラルトゥ-3


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:240頁

 第四章 ウラルトゥ-3

  その神々のうち、強力な神にティシェバ神がいる。

 フルリ人の天候神テシュブ神と関連づけられている神であるが、

 同神と思われる牛の上に立っている神像が浮彫りされた

 青銅製の円盤が発見されている。

 この円盤には、

 神像の周囲を二重に翼をつけた数多くの牡牛が装飾されている。

 また、エーゲ海のクレタ島の神話に登場する

 上半身が人間で下半身が牛の、

 いわゆるケンタロウスの像に酷似したデザインの青銅像がある。

 ヴァン湖近くのルサヒニリより

 一八七〇年に発見されたと伝えられている像で、

 金メッキされた王座の一部であったと考えられている。

 ケンタロウスと違うところは

 青銅製円盤と同様翼を付けていることである。

 さらに発見地がトルコ東部と伝えられる

 三頭の牛頭をあしらった大がまと三本の牛足をつけた三脚台のセット、

 また四牛頭と四牛足の同型の大がまもある。

 セヴァン湖方面のテイヘバイニからは尖った頂を持ち、

 三本ずつの角を左右にあしらった兵士用の兜が二十個見つかっている。

 このようにウラルトゥの文化的基盤には

 牛、角に対する想念が脈々と息づいているのである。

 

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部


『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 ケンタロウス

2013年9月29日日曜日

ウラルトゥ-2


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:239頁

 第四章 ウラルトゥ-2

  大ザブ川はハリル山脈を巻くように東南へ流れ、

 その山脈が尽きると急に西南へ曲線を描いて流れ下る。

 この東方に張り出した一帯ををハブリウリと呼び、

 「ハブールのウリ」の意味で、シュメルの都市ウルに対応する。
 
 ハブリウリの東部にウラルトゥ人自身がアルディーニと呼ぶ

 アッシリア名ムサシルの町があった。

 そこの神殿にはハルディ神が祀られており、

 新しく王位に就く者はこの神殿で就任式を行った。

 ハルディ神がウラルトゥの神々の最高神であることを

 示唆している史実である。

 同神は Khardi (カルト)神で、

 牛頭を象徴している用語の踏襲と考えられる。

 ムサシルの主神殿の他にも多くの神殿が建てられた。

 ウラルトゥでの神殿の特徴は、塔を備えていることで、

 少なくとも六ヶ所のそうした神殿が発見されている。

 塔のある神殿といえば、どうしても

 アルパチヤ遺跡出土の碗方土器を思い出さざるを得ない。

 あの高床式神殿を描いた土器の時代から約五千年を経ているが、

 主祭神がハルディ(カルト)神であることを含めて、

 その相互の共通関係を否定することはできない。

 アッシリアの楔形文字を利用して

 ウラルトゥ語の文書がたくさん残されているなかで、

 多くの宗教的建物がハルディ神に献げられたとうたっている。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部


『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 ハルディ神

 アルパチヤ遺跡出土の碗方土器

 高床式神殿

ウラルトゥ-1


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:238頁

 第四章 ウラルトゥ-1

  ウラルトゥの建国の時期は紀元前九世紀頃といわれる。

 その支配的民族はハルディアとは、カルディア人として知られている。

 ハルディア人とは、カルディア Khardia 人である。

 紀元前四世紀のギリシャの歴史家クセノフオンが

 「アナバシス」の中でアルメニアとアッシリアの間の山岳地帯に住む

 カルディア (Kardachoi) 人に触れているが、この人々であろう。

 クセノフオンはソクラテスの弟子で、

 紀元前四〇〇年頃ギリシャ軍に兵士として加わり、

 小アジアからメソポタミアのバビロン、アッシリア、アルメニア、

 黒海沿岸まで遠征した記録である。

 彼はさらにアルメニアに居住する

 カルダイオイ Chaldaioi 人と呼ばれる人々についても触れている。

 この部族とバビロニアのカルディア人とが

 同族であるとの主張をする見解はすでに現われている。
 

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿

 牛頭を象った神社建築の棟飾部



『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 カルディア人

 クセノフオン

 アナバシス

2013年9月28日土曜日

フルリ人とミタンニ国-6


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:237頁

 第四章 フルリ人とミタンニ国-6

  本来アッシリアもスバル人の一部の民族の建設した商業国家であったが、

 新アッシリアは軍国主義国家の性格が強く、

 古アッシリアの重商主義的国家組成の条件が変わってしまった。

  新アッシリア治下の紀元前九世紀頃、

 スバル人たちはシンジャール山脈の北側ハブール高原から

 次第に北方アナトリアの山岳地帯へと

 その居住地域を移転し始めたと考えられる。

 ハブール平原のスバルトゥの地から一山脈を超えたチグリス川流域へ、

 そこは鉱物の豊富な谷合であるが、彼等の拠点が移され、

 シュブリア「スバル人の土地」と称するようになったものと思われる。

 また、

 大ザブ川のハブリウリから上流にもスバル人は根強く勢力を張っていたが、

 彼等も次第にウルミア湖ヴァン湖方面に移動を続けたとみられる。

 移動理由には、アッシリアの軍事的圧迫があったことは容易に推測できるが、

 すでに始まっていたことは鉄器時代の進展にともない、

 鉄鉱石の産地がシュブリア地方、またハブウリからウルミア湖に至る地方に

 分布していたことにもよると考えられる。

 彼等は青銅器文化の必要な担い手であったか

 鉄器文化への転換も始まったものと推測できる。

  スバル人と呼ばれ、フルリ人と呼ばれたカルト人の根幹勢力は

 祖地を離れて北方のコーカサスに向けて次第に移動を開始したのである。

  フルリ人の天候神テシュブ神は牡牛に乗る男神である。

 また、女神ヘポトは牝獅子に乗る神である。

 この関係は

 インドのシヴァ神の乗物(牡牛)とドゥルガーの乗物(虎)に対応する。

 獅子はライオンで虎ではない。

 カナン神話におけるバアル神の乗物が牡牛であるのに対する

 イシュタル女神の乗物がライオンであることにも対応する。

 フルリ人の故郷が北メソポタミアのハブール地方で、

 チグリス(虎)川が流れることを考えると本来虎であったとみられる。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 シンジャール山脈

 ハブール高原

 ハブール平原のスバルトゥ

 スバル人

 ウルミア湖ヴァン湖

 フルリ人

 カルト人

 テシュブ神

 ヘパト女神

 ハブール地方

フルリ人とミタンニ国-5


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:236頁

 第四章 フルリ人とミタンニ国-5

  紀元前十六世紀の北メソポタミアにミタンニ王国が建設された。
 
 フルリ人の経済的基盤の上に立脚した王国であった。

 アッシリア人はミタンニをアッカド語でハニカルバドと呼んだが、

 これは多分「商品を交換する国」の意であろう。

 ミタンニ Mitanni はマタンニ Matanni とも呼ばれたが、

 グルジア語で mdha というので、

 「山の国」が本義であったと考えられる。

 その首都ワシュガンニの所在地は未だ不確定であるが、

 これもグルジア語による解釈によると「谷を出た所」の意であり、

 ハブール高原のどこかであったことは間違いないだろう。

  ミタンニ王国の最盛期には、

 その領土が東方のヌジのあるザクロス山脈の西麓からアッシリア地方、

 北方はヴァン湖の南岸からチグリス川の水源ハザ湖周辺を含む

 アルシュ、イシュワ地方、西方はタロス山脈の東部、

 地中海北岸ウガリットはもちろん

 オロンテス川上流カデシュまで達し支配した。

 北方のアナトリアの帝国ヒッタイトとクズル・ウルマク川付近で、

 南方のエジプトとカナンのビブロスあたりで常に拮抗していた。

 ミタンニ国は両国の圧力により滅亡し消滅するが、

 フルリ人が抹殺されたわけではない。

 彼等は続くアッシリア、カッシートなどのバビロンの覇権の下にも存続し、

 紀元前九世紀頃アッシリアの北辺にヴァン湖を取り巻いて

 ウラルトゥ国を建設することになる。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部


『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 紀元前十六世紀

 ミタンニ王国

2013年9月27日金曜日

フルリ人とミタンニ国-4


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:235頁

 第四章 フルリ人とミタンニ国-4

 続く時代には、

 アッシュール近郊のエカッラトゥム、子ザブ川東方のヌジ、

 ニネヴェの西方ジンジャール山脈の南のカタラ、

 ハブール平原と推定されるアシュナックム、

 さらに西方のオロンテス川沿いのアララクにも

 フルリ系の君主名が残されている。

 この地方へのフルリ人の進出は激しく、

 紀元前千四百年頃のアララクの史料には

 全人口の過半数をフルリ人が占めるようになる。

 地中海沿岸の町ウガリットにも

 八分の一から七分の一のフルリ系の人名が

 前十四世紀から前十二世紀にわたるウガリット文書の中にみられる。

 また、エジプトの紀元前十五世紀の文書にみられる

 カナンの地のフルもフルリ人と関係がありそうである。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿

 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 ジンジャール山脈

 ハブール平原

 ウガリット文書

 紀元前十五世紀

フルリ人とミタンニ国-3


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:234頁

 第四章 フルリ人とミタンニ国-3

  紀元前二千年前を越え、青銅器文化が隆盛になると

 フルリ人特有の文化が醸成された北メソポタミア一帯に

 その活動の場が広がった。

  それ以前においてもその足跡は認められ、

 ウル第三王朝時代、

 北メソポタミアの現在のシリアの東北地方の

 ウルキシュやナワルの都市をフルリ人が支配していたほか、

 彼等の本拠とみられる

 チグリス川東部の王名ならびにフルリ名が顕著であった。

 紀元前二千年期にはザグロス山脈方面にも及んだ。

 すでにみたように牛頭崇拝の広がりをみせた地域で、

 遠くはカスピ海南方へテヘランに近いトゥクリシュから

 シャッラ、シムッルムのメソポタミア平野に近い町まで広がる。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 紀元前二千年期

 ザグロス山脈

 カスピ海

 テヘラン

2013年9月26日木曜日

フルリ人とミタンニ国-2


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:233頁

 第四章 フルリ人とミタンニ国-2

  紀元前二千年頃のアッカドの粘土板に書かれた

 スバルトゥに関する記載のなかでフルリ huluri の字義については

 セム語のなかに huluri に音声の近似した pillurtu という

 「交差」を表す用語があり、

 シュメル語「十字」のアッカド語読みと考えると、

 フルリ人がスバル人であることが納得できる。

  Pillurtu の語幹と係わる動詞形(交差する)は eberu で、

 シュメル語の bal の同祖語であり、

 その字義には「追い越す、更に延ばす」の 内容を含む。

  だが、フルリが彼等の集団の特性を表しているとするならば、

 アッカド語の huru(掘る) 、haru(掘り出す)、 haruru(掘る)に関連しよう。

 その字義はすべて山を表すシュメル語の hur にも係わると思われるが、

 フルリ人とは金属鉱山で金属を掘り出す鉱夫を想起させるのである。

 アッカド語の山表す用語に hursu があり、

 hurusa は「金、黄金」の意である。

 いわゆる山岳を表記するアッカド語は šadu であり、

 hurusu は鉱山の意味であると思われる。

 フルリ人は、スバル人のうちで鉱業あるいは金属加工を業とする

 thveli(金属工) の技術集団であった可能性がある。

 スバル人商業集団の一部であったのである。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

フルリ人とミタンニ国-1


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:232頁

 第四章 フルリ人とミタンニ国-1

  岩波講座「世界の歴史」は述べる。

 「いわゆる古代人によって

  スバルトゥと呼ばれた

  この地方の原住民の名であり、

  フルリ人と呼ばれたものの名である。」

 第三章のスバルトゥに係わる節で取り上げた

 アッシリアの初代から第三十代までの王名についての記述である。

  イラクの北端、大ザブ川がトルコ領から国境を超えて

 イラクに入り南東へ行く流れの南側の山地は

 ハリル Harir 山脈と呼ばれる。

 山脈の東端、大ザブ河畔にゼバル Zebar の町があり、

 その付近に東方からシャムダール川が大ザブ川へ流れ入る。

 この地域はハブール地帯の一部であり、

 いわゆるフルリ Huluri 人の発生の地と推測される。

 フルリ人は、紀元前二千年後のスバルトゥの別称として考えられてきた。

 彼等の出身地については不明であるとされてきたが、

 上記の地名を考慮すればスバル人(よってカルト崇拝の仲間である)のうちの

 ハブール地方の東北部を拠点とした集団であったと考えられる。

 この地方は針葉樹林帯内にあり、杉林が広がり、

 平原には牧草が繁茂していたとみられ、

 ゼバールの町名が示す通り羊などの牧畜が主な業柄であったと思われる。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 岩波講座「世界の歴史」

 大ザブ川

 針葉樹林帯

2013年9月25日水曜日

地中海人種-3


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:231頁

 第三章 地中海人種-3

  このようにメソポタミアの新石器時代から青銅器時代に渡る人物造型に、

 地中海人種の特性が強く表現されていることは重要である。
 
 北メソポタミアの文化的影響は、紀元前六千年から五千四百年に至る

 ハラフ式土器期に地中海沿岸に定着した様子がみられる。

 オロンテス川の北端地域にアラアク遺跡などのムキシュ地区に

 その遺跡が集中している。

 紀元前三千年期に特徴づけられる斜めの口縁を持つ鉢は

 南メソポタミアの生活用容器であるが、

 同型の鉢の出土分布が

 北メソポタミアからオロンテス川流域にまでみられ、

 南メソポタミア文化が地中海北部と連結していたことを示している。

  地中海人種と北メソポタミアの人々とには

 深い人種的関係が認められるのである。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 メソポタミアの新石器時代から青銅器時代


 ハラフ式土器期

 オロンテス川

 ムキシュ

 紀元前三千年期

 斜めの口縁を持つ鉢
 

地中海人種-2


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:230頁

 第三章 地中海人種-2

 以上にみた地中海人種の特性は、

 メソポタミアの古代紀元前七千から六千年の間の

 サマッラ式土器期のイラク中部にあるチョガ・マミ遺跡から

 出土した彩文女性頭部土偶に酷似している。

 長い髪を巻き上げて頭上で纏めていることを考慮しても長頭で、

 顔は卵型、鼻がよく伸び、唇が厚く張っている。

 目が大きく造られているのはシュメルの彫像にもみられるように

 メソポタミアにおける全般的特性である。

 同じくイラクの中部にあるテル・アル・ソワン遺跡の

 サマッラ期の墓地から出土したアラバスター製人物像は、

 長頭で鼻がよく通っている。

 さらに紀元前三千一百年頃の北メソポタミアのテル・ブラク

 「眼の神殿」から見つかった石製頭像は、

 鼻が高く取られ、唇も厚めに彫られ、目も大きく、

 チョガ・マミ遺跡の人頭土偶の特徴を踏襲している。

 また、紀元前三千年頃の古代都市トゥトゥヴの

 テル・ハファージェ遺跡の長円形神殿から出土した銅製

 「箱を頭に乗せた人物立像」の頭部の特徴も全く

 「女性頭部土偶」と同じで、複製ともいえる。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 サマッラ式土器期

 チョガ・マミ遺跡

 彩文女性頭部土偶

 長頭

 テル・アル・ソワン遺跡

 サマッラ期

 アラバスター

 テル・ブラク

 人頭土偶

 女性頭部土偶

地中海人種-1


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:229頁

 第三章 地中海人種-1

  イベリア半島のスペインから西アジアの非常に広い地域に

 居住していた古代の人々も総称していう。

 その範囲はバルカン半島、アフリカ北部を含む。

 古代の文明を開いたローマ、ギリシャ、エジプト、

 そして西アジアの人種はこの範疇に入る。

 現在においては地方的変異もみられるようになっている。

 その系統は地中海地方ばかりでなく、

 コーカサス地方、アジアのインド亜大陸にも広がっている。

  スペインのバレアレス諸島の調査報告によると、

 そこの人々は、身長が一六四センチメートル程度と低く、

 長頭で顔は長く卵型、鼻筋が通り、唇が厚い。

 皮膚の色合いは比較的濃く、

 日焼けした症状はヨーロッパ大陸の北方人種ように斑点になるのではなく

 濃褐色になる。

 これらの特徴に整合する人々は

 イベリア半島、フランスの一部、イタリア付近の島々と、

 地中海の西部中部地方に分布している。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 バレアレス諸島

2013年9月24日火曜日

カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-10


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:228頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-10

 santi-ago の語幹はマルタ語の「しるし」を表す sinjal に関係し、

 北イラクの sinjar 、そしてインドの Sindu の同類語である。

 聖ヤコブの墓があると伝えられる中世に巡礼の大移動を巻き起した

 教会のシンボル「赤い十字」は、形象がマルタ十字でキリスト教の

 布教後にこの地に入ってきたのではなく、

 それ以前に入っていたものと思われる。

  ガリシアは鉱物特に錫の産地であった。

 角や十字紋に対する信仰を持った

 ケルト・イベリ人が居住した土地と考えられる。

  鉱物の産地といえば半島の南方アンダルシア地方もその宝庫である。

 フェニキアの植民者たちが

  Cadrz 、 Malaga 、Cartagena などの商業都市を建設したことは

 よく知られているところだが、それより二千年も前に青銅器文化が

 この南部地方に入ってきたと

 史学者、J・ビセンス・ビーベスは説明しているのである。

 アルメリアは青銅器文化のセンターであった。

 セヴィラ Sevila は

 シュメル語の zabar(青銅)の同祖語の転訛とも考えられる。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 聖ヤコブの墓

 マルタ十字

 J・ビセンス・ビーベス
 

カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-9


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:227頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-9

 彼等の総称がけると・イベリ人であったと考えるのである。

 紀元前九世紀以降ケルト人を初め

 多くのインド・ヨーロッパ語の諸族が渡来したことは確かであるが、

 「背が高くて肌は白く碧眼紅毛」のケルト人の遺跡は

 半島の西北部に集中しており、

 スペイン全土に分布しているというわけではない。

 それに比べてイベリア半島の青銅器文化は

 その原料鉱の産地の故に強盛であった。

 鐘形土器はその時代の象徴であったが、
 
 その分布はハンガリーやザクセンあたりまでももたらされていた。

 銅、特に錫をその手に治めた人々はそれだけ強盛であったのである。

  ガリシア地方にサンチャゴ・デ・コンポステラsantiago de Compostela

 という都市がある。

 サンチャゴは「十字を切る」ことで「十字」に係わり、

 コンポステラは「組成、組合せ」であり、
 
 町の名称は「組合せの十字」の意味になる。

 これはガリシアと隣接する地方 Coruna(角) があること、

 聖ヤコブの墓であるとの伝承を持つ教会のシンボルを考慮すると

 「角を組合せた十字」でることが解ってくる。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 青銅器文化

 鐘形土器 

2013年9月23日月曜日

カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-8


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:226頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-8

 バビロンの新年祭に吟唱が行われたが、

 マルドゥク神が牡牛を伏せて矛を立てたシーンに群集が上げる叫び、

 中国の雲南省の少数民族の村で殺牛祭の祭司が牛を刺殺した瞬間

 「オー」と参集者達が一斉に叫びを上げ、

 さらに日本の神社で神官が祈願の祝詞(ノリト)を上げる前に大きな声で

 「オー」と発声するが、これも「神を誉め祭る」と申し上げているのである。

 闘牛のショウは本来の祝祭を離れてはいるものの、

 年間の定められた日の祭事として開催されている古来からの

 牛飼達の伝統行事なのである。

 スペインでは、

 サン・フェルミンの牛追祭など牛に係わる行事が盛んである。

 学者の中にも牛をトーテムとした原住民がおり、

 牡牛への信仰が闘牛の始まりとなったと主張する学者もあったが、

 牛の崇拝者はクロマョン人のような石器時代の原住民ではなく、

 イベリア人(正確にはケルト・イベリ人)自身が

 北メソポタミアの信仰を持ち込んだものと考えられるのである。

 紀元前二千五百年頃までには

 青銅器文化と牡牛崇拝の商業的金属工達が

 半島の地中海側南方から上陸して来た。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 サン・フェルミン祭

 トーテム

 クロマョン人

カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-7


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:225頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-7
 
  イベリア半島の「牡牛崇拝者」達は遠い祖先の縁故関係にある

 カルトイベリア人出身のキリスト教聖者が

 ゲオルゲ George を信奉することにより

 祖先伝来の「牡牛崇拝」をキリスト教へと宗旨替えしたのである。

 だが、その伝統のすべてを捨てたわけではなかった。

 闘牛はナバラ地方から興ったとされるが、

 ハビエルは祭司、つまりハフリ(祝)で、牛の屠殺者の町だったのである。

 メソポタミアの殺牛技術法の検討のために、

 闘牛の最終場面、闘牛士が牡牛に止めを刺す技法を紹介したが、

 このショウは牡牛屠殺の祝祭であることを前提とし、

 その祭儀がメソポタミアから取り入れられたと考えていたからである。

 スペインにおいては闘牛だけでなく、

 掛け声「オーレ」ガが激励のため叫ばれる。

 この掛け声はシュメル語の

  ār 「神を賛美する、誉める」が olè に転訛したもので、

 本来祝祭におけるものである。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿

 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 『参考』

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 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

2013年9月22日日曜日

カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-6


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:224頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-6

 そこにもエーゲ海に流れ入るエブロス Evros 川が流れている。

 Thraki/Tarraga-na は「崇拝者」を意味し、 Iben と同義である。

 エブロ川を遡るとバスク地方のナバル Navarra に至る。

 ナバ nava はバスク語で「山間の平原」を意味するが、

 その東部に現在 Lumbier の町がある。

  この町はかって Habier と称し、

 十六世紀に日本へキリスト教の布教のために渡来したイエスズ会所属の

 宣教師フランシスコ・ザビエル Francisio de Xavier の出身地である。

 Xavier は英語名で、スペイン語では Javier で Habier のことであり、

 彼の名は「ハビエル出身のフランシスコ」の意である。

 ハビエルは、キリスト教の場合修道士であるが、

 シュメル語においては祭司である。

 シュメル語において、 Sabur,haber は祭司を表すことはすでにみた通りで、

 バスク語とイベリア語の間で発音の転換がみられる。

 Iberi を Javier の転訛と考えても祭司である崇拝者を表すことになる。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿

 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 『参考』

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 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 フランシスコ・ザビエル

カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-5


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:223頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-5

  スペインの北東ピレネー山脈の南方をカタルナ Cataluna というが、

 そこを地中海へ向かってバスク地方を水源とするエブロ Ebro 川が流れる。

 ローマ時代にはイベリス Iberis 川と呼ばれた。

 河口近くに Tortosa 、Cherta の町があるが、

 トルトーサの語幹 toro- は牡牛を意味し、

 チェルタは角 khard/celt の転訛であるので、

 エブロ川は「牡牛の角崇拝者の川」であったかもしれない。

 カタルナは、

 シュメル語の kuršada (牧畜業者)、

 ドイツ語の Kuhhirte(牛飼)、

 英語の cattle(家畜:アメリカでは畜牛) の同義語である。

 トルトーナ市は闘牛の盛んな土地である。

 エブロ川の河口近くにサン・ホルヘ San Jorge 湾があるが、

 これは英語名で sant George と称し、

 ウェールズとアイルランドの間の海峡名ともなっている。

 この聖者名は、

 第二世紀のローマ時代の

 コーカサスのイベリア人出身のキリスト教聖者の名である。

 また近郊のタラゴナ Tarragona はギリシャの東北方に当たる

 トウキアの地名と対応する。 

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 『参考』

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2013年9月21日土曜日

カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-4


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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:222頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-4

  グルジアのイベリア半島でもスペインの中央から東方の地方は

 古くにはセルティベリアと呼ばれ、

 そこに住む人々をセルティベロ族 Celthbero と称したが、

 この民族名について一般的にイベリア人とケルト人が混血して

 形成された民族であるというのが定説である。

 その学説によると紀元前九〇〇年頃から六〇〇年頃にかけて

 インド・ヨーロッパ語族が波状的に

 ピレネー山脈を越えて侵入して来たが、

 その中でもケルト人の侵入が顕著で、

 往古からの居住者イベリア人との混血が進み、

 その結果ケルトイベリ族 Celtbero が形成されたという。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿

 牛頭を象った神社建築の棟飾部



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 シュメル語・日本語

 《Key Word》

カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-3


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:221頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-3

  例として挙げるのであるが、バスク語で鹿を意味する

  orein はコーカサスのグルジア語での iremi の同義同根語である。

 文法上でも能格を持ち主格と区別されるなど

 バスク語とコーカサスの諸言語との共通性を是認し、

 バスク人はコーカサスからやって来たと主張した学者がいた。

 ここで対象にされているコーカサスの諸民族とは

 グルジアに居住する 諸族のことである。

  バスクがコーカサスと結びつけられたのは、

 グルジアの地にイベリア国がローマ時代まであって、

 その名称がイベリア半島のイベリア人の呼称であることにもよる。

 イベリア人とバスク人の関係については語学上原初イベリア語は

 バスク語であったとの見解を述べる学者が以前にはいたけれど、

 現在では原初のイベリア族は単一民族でなく、

 その言語も単一の言語でなかったと考えられる、

 バスク語もイベリア族の複数言語のうち一つであったとの見解が

 一般的に承認されている。

 イベリア族も土着の民族とは考えておらず、

 外来の民族で起源をコーカサスに求められているのは上記の通りである。

 論争の争点はコーカサスからの移動行程についてである。

 その一は、コーカサスを発ち大陸を横断し、

 ピレネー山脈の北方から入ってきたというもの。

 その二は、アナトリアを経てアフリカ大陸に入り、

 南方から上陸して来たというものである。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部



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 《Key Word》

2013年9月20日金曜日

カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-2


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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:220頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-2

 地中海地帯で錫が産出する所は

 アドリア海の東岸ダルマチア地方とイベリア半島のジプラルタル海峡を

 大西洋へ出た半島の西南端地方しかない。

 青銅器時代においてイベリア半島が重要であった理由はここにある。

  ギリシャ人、ラテン人が野蛮と称した barbar を

 「自分自身」 berbera の意味に用いている民族がある。

 スペイン語で Vasco と表記され、

  Basque ないし Euskal と自称する民族である。

 彼等は大西洋岸ビスケー湾の底に当たる

 スペインとフランスの国境を挟んでというより両国に分けられて

 居住している。

 バスク人の伝説で、彼等の祖とされる人物の名は Tubel トゥベルという。

 この名称はカナン・ガリレアの町チベリアス Tiberias 、と同様

 メソポタミアの金属工 Thveli の同祖語とみられる。

 十六世紀のスペインの歴史家エステ・バン・カリバイは、

 バベルの塔の後、トゥベルという男が

 バビロンからバスク語をスペインへもたらしたと述べている。

  また、バスクの伝承には大洪水を逃れた

  Aitor はバスク人のもう一人の祖とされている。

 バスク語の aita は「父」を表すので、アイターは父祖の意であろう。

 また神話上の用語として「神の国」である

 jainkoaren-begi があるが、

 これはシュメル語の dingir-igi ni 対応するだろう。

 Euskal はフランス語では Gascogne と表記されるが、

 これはシュメル語の guskin の同祖語と考えられる。

 グスキンは金・金鉱の意味であるが、この地方からは金が掘り出された。

 バスク人とは、金鉱山に係わる金属工であったと推測できるのである。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿

 牛頭を象った神社建築の棟飾部



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 Tell Arpachiyah (Ir aq).

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 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 アドリア海

 ジプラルタル海峡

 青銅器時代

 大西洋岸ビスケー湾

 バベルの塔

 バスク語
 

カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-1


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:219頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(8)イベリア半島-1

  古代のイベリア半島で重要な条件は、銅、鉛、銀、錫が、

 そして金が産出されたことであった。

 スペインの南東の端アルメリア近郊は銅、

 鉛のほか銀の鉱脈が露面近くにあって半島有数の鉱山があった。

 セルヴィアからポルトガルの南端にかけては銅、銀及び錫が産出した。

 また、北西のガリシア地方からは金、銀、鉛、錫が産出し、

 スペインとフランスの国境のピレネー山脈が

 大西洋のビスケー湾に向かっていく地帯からは金が、

 スペイン側の湾岸地方からは鉄も産出された。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 『参考』

 Tell Arpachiyah (Ir aq).

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 シュメル語・日本語

」 《Key Word》
 
 イベリア半島

 ピレネー山脈

 ビスケー湾

2013年9月19日木曜日

カルト(スバル)人の地中海進出(7)ベルベル人-4


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:218頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(7)ベルベル人-4

  ギリシャの繁栄時代、クレタ島の南方対岸の

 キレネ、アポロニアがある地方は穀物などの食料産地で

 ギリシャへの供給地であった。

 北アフリカは豊穣の血であったのである。

  イベリア半島へ紀元前三千年頃

 農耕技術と家畜飼育の技術を導入したのは

 アフリカの民族であるとの

 ビセンス・ビーベスの見解があるが、

 その担い手はベルベル人の仲間しかないであろう。

 なぜならば金属鋳造の技術も伝播されたと述べているからである。

 紀元前三千年頃のアフリカの民族は金属鋳造、

 つまり鋳造銅の技術を知っていたことになる。

 スペイン語の中にはアフリカ北部地方を

 古くは Berberia と名づけていたとの名残がある。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 『参考』

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 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》

 ビセンス・ビーベス

 Berberia

 ベルベル人

カルト(スバル)人の地中海進出(7)ベルベル人-3


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:217頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(7)ベルベル人-3

  北アフリカ地中海海岸一帯にも池中海系人種は分布していた。

 彼等は白人系人種でベルベル人 Beriber 人と呼ばれた。

 ギリシャ語では非ギリシャ人の総称で野蛮人の代表であったが、

 ギリシャ人にもエジプト人、リビア人とならんで

 ベルベル人が知られていた証左とはなる。

 紀元前千九百年頃、

 牛に車を引かせる画を岸壁に描いた牛飼の集団はベルベル人であった。

 ベルベルの名称はシュメル語で「輝く、白い」を意味する

 barbar を礎にしたもので、

 メソポタミアの金属工たちがその祖であったとも推測できる。

 カルタゴの鉛鉱山は彼等の活動の中心であっただろう。

 因みにシュメル語の ku-barbar は「白い金属」ではあるが、

 銀を表すとされている。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿


 牛頭を象った神社建築の棟飾部



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 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

 シュメル語・日本語

 《Key Word》