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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
旧約聖書「創世記」:牛角と祝祭・その民族系譜:359頁
インドにおいて海洋交易商人を vanika といい、
彼等の史跡がワニ伝説に残り、その一つが稲羽の白兎物語である。
つまり、古代にインドの商人たちは日本近海に徘徊していたことになる。
それも紀元前後にはすでに日本へと渡来していたと考えられる。
漢書に「奴」と記され「漢委奴国王」名の金印を授かった奴国は
彼等の停泊地で、
その国名はサンスクリット語の船を表す nau に依るものである。
そればかりではない。
インドの商人たちは朝鮮半島の南端方面に月支国も成立させた。
それが韓(馬韓)であり、後に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)へと発展する。
インド商人を東アジアへ誘導した理由は、
そこが絹糸の生産地であったからである。
なお、ヘブライ人の古代日本における拠点の一つは
「魏志」に記載されている「伊都国」と考える。
「イト」はヘブライ語で、本来は「会衆、集団」の字義だが、
世界各地に散った「(イスラエル)の記念碑」を表す
IDH(Iedah) の音写とみられるからである。
「奴国」が福岡市中央区の沿岸であるのに対し、
「伊都」はその西、前原市にある。
絹産業の専門家に成長していた大月氏お商人集団は、
推測であるが、インド商人の利権の仲間に入り
商船隊に参加して東アジアに移動して来たと考えられるのである。
その停泊地が韓半島では半島の西側、
『日本書紀』雄略天皇紀に載る倉下(へすおと)(クルジャ)で、
現在の群山から鐘山方面、
百済の首都であった扶余の南方面とみられる。
現在倉下に当たるような地名は見当たらないが、
『三国史記』地理に「百済比象県」(現舒川郡庇仁)があるので、
同地であったかもしれない。
ARPACHIYAH 1976:高床式神殿
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
アルパチア遺跡出土の碗形土器
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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