2013年12月8日日曜日

月氏とシルクロード(2)クシャン王朝-3


 『Yahoo!天気・災害』

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 旧約聖書「創世記」:牛角と祝祭・その民族系譜:353頁

  中央アジアと地中海沿岸にパルチア国があったことにより

 事情は変化し始める。

 上記のような陸路による効果的な交易網が機能しなくなる。

 パルチアの成立が

 中央アジアと地中海沿岸との交易路の行き来を邪魔したばかりでなく、

 ローマが東方へと勢力を伸ばすに従い

 パルチアとの間に紛争を再々起こし

 遮断された状態が恒常化するようになった。

 また、東方の漢は後漢の時代になって西域へ遠征軍を送り、

 九〇年にはクシャン王朝と直接戦争する事態となった。

 この当時も漢の史料ではクシャン王朝を大月氏と呼んでいたが、

 大月氏が東方に持っていた商業権も漢に奪われてしまい、

 富をもたらした商業国家カドフィセスの王朝は打撃を受け

 停滞をせざるを得なかった。

 この間の事情についてインドの歴史家

 R・S・シャルマは次のように解説する。

   絹は、

  中国からアフガニスタン北部とイランを通る「絹の道」によって、

  インドを経ずにローマに送られた。

  しかし、パルティア人がイランとその近隣地域を支配すると、

  その交易は難しくなったため、

  絹はインドの西北部を通って西海岸の港へ運ばれるように変わった。

  また、中国からインドの東海岸を経て西海岸へ運ばれることもあった。

  このようにインドとローマ帝国の間には

  絹の中継貿易がかなりおこなわれたのである。

 ARPACHIYAH 1976:高床式神殿
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 

  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 『参考』

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)         
 
 ハラフ期の土器について

 アルパチア遺跡出土の碗形土器

 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 神社のルーツ

 鳥居のルーツ 

0 件のコメント: