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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:313頁
第五章 旧約聖書「創世記」:(3)セムの子孫(b)ペレグ-3
紀元前二千五百年頃にアッカド人が
南メソポタミアへ向かって流れ込ん出来た。
二三五〇年にはサルゴン王がシュメルを制圧し、
アガテに王宮を建て支配するようになった。
その圧力で移動を開始したのである。
移動を始めたペレグであるバローチ族は
ザクロス山脈の南端に向かって行き、
イランのケルマン地方に長期活動していたとみられる。
ケルマンの名称は彼等が持ち込んだものであり、
ホルムズ海峡を渡って、オーマンに渡った仲間があったのである。
分裂したエベルの支族のうちのいくつかは移動せず
メソポタミアに留まっていたとみられる。
そして、創世記にいおいての五代後、
テラはカルディアのウルをその子アブラムなどの一族を連れて出立し、
ハランに向かったということになる。
その時期は紀元前一八世紀頃とみられる。
なぜかというと、ヘブライ人たちがエジプト行きを決めたのは、
「ヒクソスのエジプト侵入」の流れに乗ったものと
考えられるからである。
侵入が始まったのは紀元前一六七〇年頃かという。
そして、モーセの出エジプトの伝説の舞台は紀元前一二三〇年頃とされる。
テラ、アブラムが南メソポタミアを後にしたのは
東北方面から徐々に侵入して来たカッシート王朝を築く」
カッシートに押し出されてからであろう。
ARPACHIYAH 1976:高床式神殿
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
『参考』
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
アルパチア遺跡出土の碗形土器
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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