2012年5月31日木曜日

ギルガメシュの竜退治から生まれた世界のスサノオたち



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録29:9頁

 『ギルガメシュの竜退治から生まれた世界のスサノオたち
 「ギルガメシュの竜退治から生まれた世界のスサノオたち

 世界には、「スサノオの尊」だけでなく、

 バビロンの   「ギルガメシュ」

 ギリシャの   「ペルセウス」

 インドの    「クリシュナ」

 インドネシヤの 「アジサカ」

 北欧の     「ジグルト」

 ドイツの    「ジークフリート」

 キリスト教諸国の「セント・ジョージ」

         「サン・ジョルジュ」

 など、たくさんな竜退治伝説がある。

 (加治木義博著『日本人のルーツ』保育社・カラー・ブックス=1983年。参照)

 この『日本人のルーツ』でも指摘しておいたが、

 これらの伝説の主人公の名などが、

 互いに方言関係のように関連しあっていて、

 無関係でないことがすぐわかるので、

 スサノオの尊だけを切り離して考えることはできない。

 ドイツの<ジークフリート>などは、

 むしろ逆に日本から向こうへ伝わった可能性が

 濃いことは前にもお話ししたが、

 ここで全体の共通牲につきお話しすることにしよう。

 まず<ギルガメシュ>の<ギルガ>はで、

 <ジョージ>と同じだとすぐわかる。

 もそのままで<ジーグ>だから、

 ドイツ読みなら<ジークフリート>の前半分だとわかる。

 その<ジークフリート>を縮めて北欧語化すると<ジグルト>になる<。

 Georgeを2分してを<グ>、

 を<リ>にして清音化すると<クリ>、

 これに<ギルガメシュ>の語尾「シュ」を付けると<クリシュ>になる。

 <アジサカ>と<スサノオ>だけが合わないが、

 それには次のような理由があるからである。

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2012年5月30日水曜日

我が国の製鉄はヒッタイト人独特の特異な古代文化



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録29:8頁

 『我が国の製鉄はヒッタイト人独特の特異な古代文化
 「我が国の製鉄はヒッタイト人独特の特異な古代文化

 この例が戒めるように、

 私たち研究者は功を焦って結論を急いではいけない。

 ことに古語の読解は、

 その使用法によって、様々に変化する事実を、

 現代の詩などによって深く認識し、

 誤訳しないように慎重に扱う必要がある。

 例えば皮肉を込めてバカ丁寧に書かれたものなどは、

 上面だけ見たのでは、丁重な賛辞に見えて、

 真意とは逆に受けとれるからである。

 この例に挙げたフロズニー博士の解読は、

 よりヒッタイト語に近い日本語の存在を知らず、

 距離が近いというだけの言語だけで、

 すぐシュメル語と直結して、

 それで充分と錯覚してしまった「落とし穴」に落ちた例である。

 私(加治木義博)はその言語が、

 よく知り早くした自国語だったという幸運に恵まれて、

 彼の誤りを即座に看破できたに過ぎないが、

 この逆も当然起こる。

 研究者は、

 この例を教訓にして、常に自重する深い自覚が必要である。

 ヒッタイト人は、我が列島に他にも遺物を残しているのだろうか?。

 簡単に挙げると、日田、飛騨といった地名とともに、

 製鉄というヒッタイト人独特の特異な古代文化を、

 我が国にもたらしている。

 出雲地方は、その古代製鉄の我が国における最大の先進国であって、

 スサノオの尊が八俣大蛇を退治て、

 『天(アメ)の叢雲(むらくも)の剣』を手に入れたという伝承は、

 古代オリエントとの間の、

 うっかり見過ごせない重大な文化記録の積層を形成している。

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2012年5月29日火曜日

ヒッタイト語の神托は日本語そのもの



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録29:7頁

 『ヒッタイト語の神托は日本語そのもの
 「ヒッタイト語の神托は日本語そのもの

 「ワダル」は「ワタル」と発音すると「渡る」で。

 水上を移動する行為を意味する動詞である。

 その語根は「ワタ」で、

 それは我が古語では「ワタ・ワダ=海」である。

 しかしワタルは海に限らない。

 川でも池でも、水溜まりでも対岸へワタルと使う。

 ワタルというのは「水を越える」の略語で、

 「水(ワタ)を越える=ワタる」であり、

 「ワタ=水」だ。

 語源であるヒッタイト語の、

 本来の意味と発音とを、

 共に正しく伝えているのが判る。

 「ヌ  ニンダ・アン エッツア テニ  ワダル・マ  エク テニ」 は、

 「汝  飲んだ あの 餌=食物 手に  渡る  間  水を 手に」 で、

 『君は 航海するあいだ あの 食べ物と 真水を手に持って 飲食をする

  =航海中無事で飲食も充分だ!』という、

 『神託』を特記したものだったのである。

 フロズニーの訳

 「今や汝はパンを食べ、水を飲まん」

 というのでは何の意味もなく、

 そんなものが麗々しく刻み残されているのは何故か?

 という疑問が湧くが、

 日本語で読めば、神のお告げとして、

 後世に伝える価値のある内容になる。

 こうした神託は単なる単語の羅列ではない。

 必然的な内容があってこそ記録に値いするのである。

 ヒッタイト語の<ニンダ>を、

 主食を意味するシュメル語の<ニンダ>だと、

 慌(あわ)てて発表した研究者の焦りが失敗を生んだ教訓がここにある。

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2012年5月28日月曜日

なんと!日本語で始めて読める真意!



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録29:6頁

 『なんと!日本語で始めて読める真意!
 「なんと!日本語で始めて読める真意!

 ここまでうまく一致が見られるのだから、

 印欧語であることは疑う余地がない。

 もっと多くの印欧語と比較することで、

 他の単語も一つずつ解明できる。

 小躍りして喜んだフロズニーは、

 残る単語を一気に解いて

 「今や汝はパンを食べ、水を飲まん」と訳した。

 しかし私(加治木義博)の講義は、これで目出度くお終いではない。

 それは彼フロズニーが説明に使った英語やドイツ語以上に、

 ヒッタイト語と近縁の、証拠として絶対不可欠な言語を、

 彼が全然知らず、提出できなかったからである。

 それは私たちが毎日使っている日本語なのだ。

 <ヌ>が<汝>なら、

 日本語は相手を「ヌシ」とか「ナ」と呼ぶ。

 「ナンジ=汝」とは、

 この<ナ>と<ヌシ>の合成語であることまですぐ判る。

 主食パンは古代日本には麦がないから存在しないが、

 「アン」は「あの」という指示代名詞だとすると南九州語では今も「アン」という。

 「ェッツア」は、そのままで、今も南九州で使われている「餌=エッツア」である。

 餌は人類の食べ物でなく鳥獣の食べ物を意味するが、

 本来は「食べ物」であって、

 差別は後世の事情によるもの。言語が殖えて、

 蔑視されていた鳥獣の食物を意味する語に転落したとみると納得がいく。

 だからこの語には「主食・パン」という限定された意味はない。

 南九州語の「アン・エッツァ=あの餌」のほうが、

 私たちには「より解り易い合理的な訳語」になる。

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2012年5月27日日曜日

凄いヒッタイト文字と読み方の大発見



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録29:5頁

 『凄いヒッタイト文字と読み方の大発見
 「凄いヒッタイト文字と読み方の大発見

 19世紀の始めから小アジアへ旅行した人たちが、

 次々に発見した奇妙な象形文字がある。

 しかしそれをヒッタイト文字だと確認したのは、

 チェコのフロズエーで、第一次欧州大戦後のことだった。

 彼は固有名詞を確認することから始めて、

 <魚>と<父>という表意文字を発見し、

 続いて食事を意味する

 シュメル語の「ニンダ」が含まれている一節を見つけた。

 それは

 「ヌ ニンダ・アン エッツアテニ ワダル・マ エクテニ」

 と読めたが、何を意味するのかは、まるで判らなかった。

 主食は食物だから、食べるという語があるはずだと気づいて、

 小アジアがインドとヨーロッパの中間にあるのだから、

 印欧語の一種である可能性が高いと考えつき、

 印欧語類の<食べる>という語と比較してみた。

 ドイツ語の<エッセン>、

 ラテン語の<エドー>、

 英語の<イーツ>と、

 この一節中の<エッツアテニ>が合う。

 そこでさらに食べ物に付き物の<水>はないかと見てみると、

 英語の<ウォーター>や

 ドイツ語の<ヴァッサー>そっくりの<ワダル>がある。

 これだけで「主食(パン)を食べ、水を飲む」という大意はつかめたので、

 あとはどれが「飲む」なのか?見つければいい。

 すると、

 それらしい位置にある<エクテニ>が、

 ラテン語の水「アクァ」に合う、

 <エク>が<アクァ>で、<テニ>を

 動詞とみれば、「飲む」になる。

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2012年5月26日土曜日

有肩石斧とその仲間。ことばと石斧の関係は何か



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録29:4頁

 『有肩石斧とその仲間。ことばと石斧の関係は何か
 「有肩石斧とその仲間。ことばと石斧の関係は何か

 「有肩石斧とその仲間」『日本人のルーツ14頁』

 人が肩をはったような形をしているので有肩という。

 数字は次ページの分布図の地域を示し、

 そこで見つかったものという意味。

 8イ:柄の部分が欠けている(長さ17㎝)

 8ロ:石ノミ。

 9は進化したもの

 A、C:青銅製(タイ・パンチェン。約4000年前)

 B:鉄製(中国雲南省個旧出土

 「ことばと石斧の関係は何か」日本人のルーツ15頁』

 有肩石斧とオーストロ・アジア語の分布が、

 完全といえるほどに一致することは、

 古く松本信広氏らの研究で立証されているが、

 日本でも新石器から古墳の副葬品にまで有肩石斧がみられる。

 これを手がかりに、日本語を検討してみると、

 やはりオーストロ・アジア語との共通語がみつかり、

 古代にこの言葉を話す人々が、

 日本列島に住みついていたことが証明される。

 有肩石斧は鉞(まさかり)の形に特に関係が深いとされるから、

 これも見逃すことはできない。

 銅鉞(どうえつ)は儀式用とも考えられているが、

 有肩石斧の大型のものも同様である。

 「オーストロ・アジア語の分布」『日本人のルーツ15頁』

 1チョタナグプール語群

 2ケルワーリー語群

 3ムンダー語群

 4ヒマラヤ語群

 5カシ語

 6ワ語群

 7モン語

 8モン・クメール諸語

 9スマン・サカイ語

 10ニコバル語

 11フィリピン諸語

 12高砂語群

 ※数字は前ページの石斧の出土地を示す。

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
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2012年5月25日金曜日

8000年前に実在したオリエントと日本列島の往来



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録29:3頁

 『8000年前に実在したオリエントと日本列島の往来
 「8000年前に実在したオリエントと日本列島の往来

 地球上で発見された最古の大集落は、

 ヨルダンのイェリコ(ジェリコ)遺跡であり、

 それに次ぐのが北イラク(メソポタミヤ)のジャルモ遺跡である。

 これらの遺跡は放射性炭素の測定値で、

 8000年から6000年前の新石器時代のものだと判ったが、

 イェリコ遺跡の家具は、

 煉瓦を積んで石膏で塗装してあって現代建築を思わせるし、

 町の周囲を大石を積んだ石壁で囲み城塞としても完成している。

 この時代に次ぐハッスーナ期には彩文土器が出土するが、

 家屋は藁などの<スサ>を入れた土壁である。

 日本語の<スサ>が地名の<スサ>から来ている証拠で、

 スサノオが「スサの王」である傍証だ。

 我が国では1万年前に世界一古い装飾土器が出土する。

 人口が殖え天災や侵略が相次ぐと人々は移住を余儀なくされた。

 アジアの東西はジェット機で1日ていどの距離で、

 モンスーンなどの風に乗れば帆船はペルシャ湾からインドヘ数日で着き、

 インドから日本列島まで1と月とはかからない。

 事実、日本列島で欧州と酷似した新石器が見つかる。

 温暖な西日本にオリエントから1人の移住者も無かったと考えるほうがおかしい。

 私たちはすでに3000年前の宝貝産業遺物を豊富にもち、

 <殷>とカリエン=カルデアンの史実を復元し終わっているが、

 人々の移住も往来も、もっと古くから頻繁で濃厚だったのである。

 下図(私(加治木義博)者カラーブックス『日本人のルーツP14・15』から引用)もその1証である。

 8000年前に実在したオリエントと日本列島の往来

 『参考』
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2012年5月24日木曜日

玉-中国文明の象徴-



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録28:29~32頁

 『玉-中国文明の象徴-
 「玉-中国文明の象徴-

 「玉(ぎょく)」は大きく「硬玉」「軟玉」に分かれる。

 硬玉とはいわゆる翡翠(ひすい)のことで、

 鉱物学的にいえばヒスイ輝石を指し、

 軟玉とはネフライト、角閃石や陽起石を指す。

 硬玉は粒状結晶が交差繊維状組織をなす

 輝石のグループ、ネフライトは繊維状組織をなす

 角閃石のクルーフに属し、

 同じ「玉」でも成分的にはまったく異なる鉱物である。

 硬玉、軟玉という呼び方はモース硬度によっている。

 モース硬度が6.5~7の翡翠を硬玉、

 5.5~6と低いネフライトを軟玉と

 呼びならわすようになったもので、

 軟玉といっても「軟らかい玉」の意味ではない。

 翡翠と比ベて相対的に硬くないというだけのことで、

 むしろ軟玉は、硬玉よりも繊維状の結晶が密に絡み合っているため、

 割れにくく、強靭である。

 地球上でもっとも硬い鉱物は硬度10のダイヤモンドだが、

 衝撃に対する強さ(欠けにくさ、割れにくさ)や

 粘り強さ(靭性)においては、

 実は軟玉が最も優れているとされる。

 中国古代において主に用いられた「玉」はこの軟玉である。

 軟玉には、叩くと非常によい音色がするというもう-つの特性もいわれ、

 そういったことが、軟玉が愛好された要因の一つかもしれない。

 中国では玉の使用はかなり古い。

 すでに新石器時代の早期に属する遺跡から玉を用いた

 耳飾りなとの装身臭が見つかっている。

 新石器時代後期には、

 長江流域で栄えた良渚文化で玉器が王権と結びつき、

 王権のシンボル、

 あるいは威信財として社会的役割を担うようになる。

 その後、商や周なとの初期王朝時代においても、

 青銅器とともに威信財として尊ばれた。

 戦国時代になると、

 玉は「生命の再生力」や「辟邪(へきじや)」といった

 特別な力を持つものとして、さまざまな場面で用いられた。

 着物にさまざまな形をした精緻な玉(煙玉(えんぎょく))をくくりつけたり、

 埋葬の際に死者の口に「玉蝉(ぎょくせん)」を含ませたり、

 手に「玉豚」を握らせるなとの風習が行なわれた。

 玉の持つ神秘的な力を信じてのものである。

 さらには、玉の持つ温かみや竪さといった特性が儒教とも結びつき、

 「徳」のある君子を「玉」に例えるなど、

 儒教的徳目の象徴としても位置づけられるようになる。

 漢代には、儒教の官学化にともない、玉への信奉はいっそう強くなり、

 死者の全身を玉片で綴った衣(玉衣)で覆って埋葬することなども行なわれた。

 「図:玉貝(ぎょくばい)

 (子安貝を摸した玉の飾り

  Jade cowrie-Shaped ornament

  商晩~西周時代 前14~8世紀

  2001年/成都市金沙遺跡出土

  玉製/長さ3.2cm、幅2.7cm、厚さ0.2~0.63cm、重さ8g

  成都市文物考古研究所載

 子安貝を模した玉器。

 裏面は平らにさかれ、上方には穴があけられており、

 ペンダントとして用いられたものと思われる。

 また、

 左右両側には展示品75の玉牙璧に見られるような

 ギザギザ状の突起がこの玉器にも飾られており、

 金沙遺跡に独特に見られる特徴がここにも表われている。

 中国では新石器時代以降、

 海から遠く離れた内陸部の遺跡からも数多くの子安貝が出土することが知られ、

 また二里頭遺跡や商代に属する墓のなかには

 大量の子安貝を副葬する例も少なからず存在し、

 当時このような海洋産の貝が何らかの重要な意味をもっていたと考えられる。

 同じ成都平原に位置する三星堆遺跡からは、

 一号坑から62枚、二号坑からは

 4600枚もの実物の子安貝が出土している。

 周囲を高い山々に囲まれた内陸世界である成都平原が、

 直接的であれ間接的であれ、

 海洋産の貝を産出する沿海地域と密接な繋がりを

 持っていたということは非常に興味深い。

 そしてまた、

 金沙遺跡でこのように子安貝が玉で精緻に模倣されたということは、

 三星堆のみならず金沙の人々にとっても

 子安貝が何らかの主要な意味のあるものとして

 捉えられていたということを示していよう。(K.D.)

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2012年5月23日水曜日

四川地方のシルクロード



 『出典』四川地方のシルクロード杉本憲司

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録28:29~32頁

 『四川地方のシルクロード
 「四川地方のシルクロード

(Ⅰ)

 ここ数年私(杉本憲司)は、

 (財)なら・シルクロード博記念国際交流財団シルクロード学研究センター事業


 の一環として 行なっている。

 青海(せいかい)省シルクロード

 四川(しせん)省シルクロードの現地調査に参加している。

 なぜ、このような調査を行なっているかというと、

 一つは、

 今まで多くの人が調査をしてきた表街道である周知のシルクロード

 (古代の長安から西の方(かた)、

 甘粛(かんしゅく)省内の河西回廊

 すなわち祁連(チリエン)山脈の北側を通り、

 敦煌、玉門関を通過して

 新疆省内のタクラマカン砂漠周辺のオアシス都市国家づたいに進み、

 やがてパミール高原をこえてさらに西にいく)が、

 政治的な理由や、

 また何かの理由で通行しがたくなったときに、

 裏街道一つとして、

 今日の青海省内を通行することがあったのではないか。

 もしそうであったならば、

 どの道を通ったのであろうかを調べてみたかったからである。

 二つには、文物に関しての関心である。

 その一つは、

 南海産の「タカラガイ」が

 甘粛、青海、四川地方の新石器時代から

 青銅器時代

 青海省内の卡約(カユエ)文化

 ノモホン〈諾木洪〉文化

 四川省内の三星堆(さんせいたい)文化など)にかけての墓などの遺構から出土しているが、

 これがどの海岸から、どの道を通って運ばれてきたのか、

 この外、四川省内の後漢代から蜀漢代の墓室の壁や、

 墓室内から出土する揺銭樹(ようせんじゅ)などにみられる仏教関係の造形物が、

 いかなる道を通じて伝播したのかについて関心がある。

 これら以外に四川、青海からチベットへの道にも興味があり、

 唐代の文成公主などの入吐蕃(とはん)道が、

 今まで言われているようなものでいいのかということも考えている。

 これらの道は今日の計画的に造られたもの

 (青海省では緯度線に治って東西に一直線の道がある)でなく、

 当時の自然・歴史環境のなかで、

 もっとも安全な道を通っていると考えたとき、

 それが今日のどのあたりを通っていたとみたらよいのかを、

 机上の地図だけでなく、

 現地にはいり可能なかぎり見てみようと考えた。

 その際、地図(入手可能のもっとも精微なものとして、

 ロシアの十万分の一の地図を原則として使用、

 その他、共同詞査をする中国側には、

 外国人が使用できない中国作成の十万分の一の地図をできるかぎり使用してもらう。

 コロナ衛星写真(1970年・代の写真であるが、これが案外役に立つ。

 それは、最近30年間に開発などで壊された遺跡(城壁、古墳墓など)が写真から確認できる)、

 GPSによる位置確認などを可能なかぎり利用し、

 自分たちの足で歩いて人間が残した痕跡を目で確認していくことを行なった。

 この調査は大変であるが、半面楽しさもあり、

 衛星写真歴史学・考古学というような学問が、

 できるようになるかもしれないと思っている。

(Ⅱ)

 貝の道について、まず見ていこう。

 タカラガイが中国の<殷>(商)王朝期に、

 南海からはるかはなれた黄河流域に運ばれ、

 王族・貴族たちに珍重されていたことはよく知られるところでこあり、

 貨幣のような使われ方もされていたようで、

 経済関係の漢字、

 たとえば「賣」、「買」のような貝偏の字が多くあることは周知のことである。

 また、「タカラガイ」は他の地域でもみつかっていて、

 その出土分布地のあり方を調べることは道を知る上で大変役立つ。

 最近の研究

 (熊本大学文学部考古学研究室

 『中国古代のタカラガイ使用と流通、その意味-商周代を中心に-』2003年)によると、

 「タカラガイ」はインド・太平洋の暖水域を中心に熱帯から温帯海域に

 ひろく生息する<巻貝>のことで、中国で142種、日本で105種知られている。

 黄河中下流域の殷・周時代の遺跡から発見される

 「タカラガイ」の大部分は「キイロダカラ」で、

 この産地は他の貝との組み合わせから見て

 東南部海域(澎湖諸島を含む中国南部沿岸・台湾)で、

 ここから琉球列島や中国東海岸沿いに北上して、

 東部海域(渤海・黄海・長江以北の東中国海)から

 山東をへて中原の<殷>中心地に運ばれたと考えられる。

 中原以外の「タカラガイ」の出土地には、

 青海省、四川省、雲南省などがあげられる。

 これが、西南<シルクロード>にかかわるもので、

 私(杉本憲司)の青海・四川調査の動械の一つであった。

 青海では、新石器時代から青銅器時代の墓などから、

 何種類かの貝が出土しているが、

 その中には東南部海域産の

 オオカニノテムシロ

 キイロダカラ

 ハナビラタカラ(?)、

 ナツメモドキと、

 東部海域産(?)のシジミと、

 中原淡水域産のイシガイ類と、

 ベンガル湾産(?)のシャンクガイがふくまれている。

 四川では、今回の展覧会でもみられる、

 広漢(こうかん)市郊外の

 殷代後期にあてられる三星堆遺跡の一号、二号祭祀坑から


 多数の青銅器、金器、玉(石)器、象牙らとともに

 数千におよぶ<カイ>が出土している(図1)。

 この<カイ>のほとんどはキイロダカラで、

 他に若干のハナビラダカラなどがふくまれている。

 また最近発見の、

 成都市内西北部にある殷代終末期から周代初期にあてられる金沙遺跡

 今回、金器などが展観されている遺跡からは玉製のタカラガイが出土している(図2)。
 
 さらに南にある雲南でも、

 春秋時代末期から前漢時代にかけての遺跡から<カイ>が出土している。

 ここから出土するものはほとんど<ハナビラダカラ>で、

 他にわずかの<キイロダカラ>と<ホシダカラ>と<シャンクガイ>がみられる。

 この<ハナビラタカラ>はベンガル湾産と考えられていたが、

 最近の研究(先述の熊本大学の報告にみえる黒住耐二氏の研究・調査)によれば、

 南部海域(海南島、ベトナム中・南部)産と考えた方がよいようである。

 また、この地の宋代火葬墓から出土する<キイロダカラ>は

 インド洋のモルジブ諸島産の可能性があるようである。

 この、奥地の三省で発見された<カイ>が、

 海岸からどのような道を通ってきたのか。

 <カイ>の産地からみていくと、

 青海では中原の淡水産のイシガイ類が見られるところから、

 <カイ>が複数類セットで運ばれてきたものとすれば、
 ここの東南部海域産の<キイロダカラ>なども

 中原径由で運ばれてきたと見るのが自然である。

 また、四川の三星堆遺跡のものは、

 青銅器がどの地域と関係を濃くもっているかと

 格んで考えなければならないが、

 <タカラガイ類>だけでみれば、

 青海と同様に中原径由とみられるようである。

 つぎに、雲南はどうであるかをみると、

 ここでもっとも多いのは<ハナビラガイ>で、

 どうもこれは中原経由ではなく、

 南部海域からどこかの陸地の道を経由して運ばれてきたようである。

 しかし、ここで気になるのは<シャンクガイ>で、

 これは前述のようにベンガル産で、

 このカイがどの道を通って運ばれてきたのかに大変興味がある。

 今、正解があるわけでないが、

 いくつかの考え方ができるのではないかと思う。

 その一つに私が考えている、

 ベンガル湾沿岸から東パキスタンを径由して雲南西部から雲南中部に至り、

 ここから北上して四川をへて青海に入る道を想定してもよいのではないか。

 これは雲南中部で南から北上してくるビルマ・ルートと合わさっている。

 これが、私の今考えている西南シルクロードにあてはまるのではないかと思っている。

 「図1:キイロダカラ/三星堆一号祭祀坑出土(『三星堆祭祀坑』)より」

 「図2:玉貝/金沙遺跡出土(『金沙陶珍』)より」

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

中国初期王朝時代(前2000-前1000年ごろ)



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録28:27~28頁

 『中国初期王朝時代(前2000-前1000年ごろ)
 「中国初期王朝時代(前2000-前1000年ごろ)

 「図:中国初期王朝時代(前2000-前1000年ごろ)

 「黄河中流域」

  辛店文化寺窪文化

  二里頭文化

  「夏王朝」二里頭遺跡洛陽・鄭州

  「商王朝」殷墟遺跡安陽・太原


 「周王朝」周原遺跡西安

 「鄭州商域」

  「三星堆文化」三星堆遺跡金沙遺跡成都

  「十二橋文化」

 「揚子江下流域」

  「薛家崗文化」

  「呉城文化」

  「馬橋文化」

  「湖熟文化」
 
 「初期王朝時代」

 黄河中流域に大型の宮殿跡や青銅礼器(れいき)類などを持った

 二里頭(にりとう)文化

 (「夏(か)」王朝か)が出現し、

 初期王朝時代をむかえる。

 その後、

 商=殷

 周(しゅう)

 の両王朝が興り、

 黄河流域を中心に支配。

 ただし、これら初期王朝の支配領域の「外」では、

 中央の影響を受けながらも在地的な文化が花開き、

 四川でも

 三星堆(さんせいたい)文化

 十二橋(じゅうにきょう)文化が隆盛した。

 三星堆文化やそれに続く十二橋文化は、

 成都平原一帯なった独自の文化圏を形成した。

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
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