『出典』
四川地方のシルクロード杉本憲司
『出典』
言語復原史学会・
加治木義博:
大学院講義録28:29~32頁
『
四川地方のシルクロード』
「
四川地方のシルクロード」
(Ⅰ)
ここ数年私(杉本憲司)は、
(財)なら・シルクロード博記念国際交流財団シルクロード学研究センター事業
の一環として 行なっている。
青海(せいかい)省シルクロードと
四川(しせん)省シルクロードの現地調査に参加している。
なぜ、このような調査を行なっているかというと、
一つは、
今まで多くの人が調査をしてきた表街道である周知のシルクロード
(古代の長安から西の方(かた)、
甘粛(かんしゅく)省内の
河西回廊、
すなわち
祁連(チリエン)山脈の北側を通り、
敦煌、玉門関を通過して
新疆省内の
タクラマカン砂漠周辺のオアシス都市国家づたいに進み、
やがて
パミール高原をこえてさらに西にいく)が、
政治的な理由や、
また何かの理由で通行しがたくなったときに、
裏街道一つとして、
今日の青海省内を通行することがあったのではないか。
もしそうであったならば、
どの道を通ったのであろうかを調べてみたかったからである。
二つには、文物に関しての関心である。
その一つは、
南海産の「タカラガイ」が
甘粛、青海、四川地方の新石器時代から
青銅器時代
青海省内の
卡約(カユエ)文化、
ノモホン〈諾木洪〉文化。
四川省内の三星堆(さんせいたい)文化など)にかけての墓などの遺構から出土しているが、
これがどの海岸から、どの道を通って運ばれてきたのか、
この外、四川省内の後漢代から蜀漢代の墓室の壁や、
墓室内から出土する
揺銭樹(ようせんじゅ)などにみられる仏教関係の造形物が、
いかなる道を通じて伝播したのかについて関心がある。
これら以外に四川、青海からチベットへの道にも興味があり、
唐代の文成公主などの入吐蕃(とはん)道が、
今まで言われているようなものでいいのかということも考えている。
これらの道は今日の計画的に造られたもの
(青海省では緯度線に治って東西に一直線の道がある)でなく、
当時の自然・歴史環境のなかで、
もっとも安全な道を通っていると考えたとき、
それが今日のどのあたりを通っていたとみたらよいのかを、
机上の地図だけでなく、
現地にはいり可能なかぎり見てみようと考えた。
その際、地図(入手可能のもっとも精微なものとして、
ロシアの十万分の一の地図を原則として使用、
その他、共同詞査をする中国側には、
外国人が使用できない中国作成の十万分の一の地図をできるかぎり使用してもらう。
コロナ衛星写真(1970年・代の写真であるが、これが案外役に立つ。
それは、最近30年間に開発などで壊された遺跡(城壁、古墳墓など)が写真から確認できる)、
GPSによる位置確認などを可能なかぎり利用し、
自分たちの足で歩いて人間が残した痕跡を目で確認していくことを行なった。
この調査は大変であるが、半面楽しさもあり、
衛星写真歴史学・考古学というような学問が、
できるようになるかもしれないと思っている。
(Ⅱ)
貝の道について、まず見ていこう。
タカラガイが中国の
<殷>(商)王朝期に、
南海からはるかはなれた黄河流域に運ばれ、
王族・貴族たちに珍重されていたことはよく知られるところでこあり、
貨幣のような使われ方もされていたようで、
経済関係の漢字、
たとえば「賣」、「買」のような貝偏の字が多くあることは周知のことである。
また、「タカラガイ」は他の地域でもみつかっていて、
その出土分布地のあり方を調べることは道を知る上で大変役立つ。
最近の研究
(
熊本大学文学部考古学研究室ら
『中国古代のタカラガイ使用と流通、その意味-商周代を中心に-』2003年)によると、
「タカラガイ」はインド・太平洋の暖水域を中心に熱帯から温帯海域に
ひろく生息する<巻貝>のことで、中国で142種、日本で105種知られている。
黄河中下流域の殷・周時代の遺跡から発見される
「タカラガイ」の大部分は
「キイロダカラ」で、
この産地は他の貝との組み合わせから見て
東南部海域(澎湖諸島を含む中国南部沿岸・台湾)で、
ここから琉球列島や中国東海岸沿いに北上して、
東部海域(渤海・黄海・長江以北の東中国海)から
山東をへて中原の<殷>中心地に運ばれたと考えられる。
中原以外の「タカラガイ」の出土地には、
青海省、四川省、雲南省などがあげられる。
これが、西南<シルクロード>にかかわるもので、
私(杉本憲司)の青海・四川調査の動械の一つであった。
青海では、新石器時代から青銅器時代の墓などから、
何種類かの貝が出土しているが、
その中には東南部海域産の
オオカニノテムシロ、
キイロダカラ、
ハナビラタカラ(?)、
ナツメモドキと、
東部海域産(?)の
シジミと、
中原淡水域産の
イシガイ類と、
ベンガル湾産(?)の
シャンクガイがふくまれている。
四川では、今回の展覧会でもみられる、
広漢(こうかん)市郊外の
殷代後期にあてられる
三星堆遺跡の一号、二号祭祀坑から
多数の青銅器、金器、玉(石)器、象牙らとともに
数千におよぶ<カイ>が出土している(図1)。
この<カイ>のほとんどは
キイロダカラで、
他に若干の
ハナビラダカラなどがふくまれている。
また最近発見の、
成都市内西北部にある殷代終末期から周代初期にあてられる
金沙遺跡、
今回、金器などが展観されている遺跡からは玉製のタカラガイが出土している(図2)。
さらに南にある
雲南でも、
春秋時代末期から前漢時代にかけての遺跡から<カイ>が出土している。
ここから出土するものはほとんど<ハナビラダカラ>で、
他にわずかの<キイロダカラ>と<ホシダカラ>と<シャンクガイ>がみられる。
この<ハナビラタカラ>はベンガル湾産と考えられていたが、
最近の研究(先述の熊本大学の報告にみえる黒住耐二氏の研究・調査)によれば、
南部海域(海南島、ベトナム中・南部)産と考えた方がよいようである。
また、この地の宋代火葬墓から出土する<キイロダカラ>は
インド洋の
モルジブ諸島産の可能性があるようである。
この、奥地の三省で発見された<カイ>が、
海岸からどのような道を通ってきたのか。
<カイ>の産地からみていくと、
青海では中原の淡水産のイシガイ類が見られるところから、
<カイ>が複数類セットで運ばれてきたものとすれば、
ここの東南部海域産の<キイロダカラ>なども
中原径由で運ばれてきたと見るのが自然である。
また、四川の三星堆遺跡のものは、
青銅器がどの地域と関係を濃くもっているかと
格んで考えなければならないが、
<タカラガイ類>だけでみれば、
青海と同様に中原径由とみられるようである。
つぎに、雲南はどうであるかをみると、
ここでもっとも多いのは<ハナビラガイ>で、
どうもこれは中原経由ではなく、
南部海域からどこかの陸地の道を経由して運ばれてきたようである。
しかし、ここで気になるのは<シャンクガイ>で、
これは前述のようにベンガル産で、
このカイがどの道を通って運ばれてきたのかに大変興味がある。
今、正解があるわけでないが、
いくつかの考え方ができるのではないかと思う。
その一つに私が考えている、
ベンガル湾沿岸から東パキスタンを径由して雲南西部から雲南中部に至り、
ここから北上して四川をへて青海に入る道を想定してもよいのではないか。
これは雲南中部で南から北上してくるビルマ・ルートと合わさっている。
これが、私の今考えている西南シルクロードにあてはまるのではないかと思っている。
「図1:キイロダカラ/
三星堆一号祭祀坑出土(『三星堆祭祀坑』)より」
「図2:玉貝/
金沙遺跡出土(『金沙陶珍』)より」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
『My ブログ』
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歴史徒然
ウワイト(倭人):大学講義録
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《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状