ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年5月21日月曜日
スサノオ伝承は殷の『帝王本紀』よりも古い史実記録
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録28:23頁
『スサノオ伝承は殷の『帝王本紀』よりも古い史実記録』
「スサノオ伝承は殷の『帝王本紀』よりも古い史実記録」
このように、
その時、彼等は多くの地名も運んで来て、移住先につけている。
その代表的なものの中に「ヤマトバル」があって、
その「バル」という首都・センターを意味する名詞が今なお九州の各地に残り、
「高天が原」という首都名が「記録」として残っているのである。
そうして大学院講義録28の主題である「スサノオ」もまた、
その一つとして古代「エラム」の「スサ」、
今のイランの「スーサ」からやってきた「名詞の渡来人」だったのだ。
その時の彼は紀元前1200年頃、
やはり国を追われて移動してこの列島へ移住してきた王の、
「名乗り」だったのである。
「スサノオ」は名前だけ運んで来たのではない。
名乗りをもつ本人が、
その追放されたという体験も一緒に運んできたのである。
その追放の動機も、
彼からみて天照大神にあたる地位の人物との間に起こったトラブルだった。
それが「ハンムラビ法典」のように、
王のための『法』として伝えられたのが、
初期の「神託」であり、「予言」であり、「法典」であり、
「教科書」であり、「歴史」でもあったのである。
歴史の神託化はギリシャの専売ではない。
我が国のそれは紀元前1200年にさかのぼり、
そこに『記・紀』の原点があったことは
「スサノオ伝承」が立証している。
この意味で「スサ」の地名と、
『記・紀』の「スサノオ記事」とは、
限りもなく貴重な宝物なのである。
それは、「殷」の『帝王本紀』よりも
遥かに古い「史実の記録」だからである。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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