ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年5月15日火曜日
ヤマトバル陥落以外にない東方大移住の出発点
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録28:10頁
『ヤマトバル陥落以外にない東方大移住の出発点』
「ヤマトバル陥落以外にない東方大移住の出発点」
沖縄は自称を「ウルマ」と言う。
ウル国(マ)であり、漆島=ウル之国(シマ)の姓もある。
アムールも隼人町に天降(アモリ)川があり、
中国ロシア国境にアムール河がある。
その東方移動は間違いないという証拠が、
このほかにもびっしりと残っている。
<リム・シン>は<エラム>の<ヤマトバル>を都にした。
この地名が我が国の古代の都・
<ヤマト>の語源だから、我が国まで来た人たちは、
この<ヤマトバル出身者>だと判る。
すると<永良部>が我が国統一の最古代の重要地だったことか理解できるのである。
では何故?
そんなに遠隔のイラン・イラクなどから
絶海の孤島といいたい日本列島まで移住してきたのか?
という疑問にも、
これまで見てきた言語の一致などから、
この「ヤマトバルの陥落」が契機になって、
移動が始まったと判断できるし、
何故?本拠を海中の国・沖縄に置いたのか?という疑問も、
4頁の地図でご覧の通り、
当時はペルシャ湾が北に深く伸びていて海に面していたので、
ヤマトバルもスサもウルもすべて、
そこの住民たちは海洋人だったからである。
だから戦いが不利とみると彼等は、
敵の支配下で暮すのを嫌って、すぐ海に乗り出した。
そして東に進んで転々としながら沖縄海域にやってきて定着した。
そこで<稲敷>から中国へ移住した<殷人>と出会い、
互いに助けあって、
宝貝貨幣産業の黄金時代を築いたのだと推理できる。
それをこれから、さらに正確に跡づけてみよう。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
『My ブログ』
古代メソポタミア
歴史徒然
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史つれづれ
古代史の画像
ネット歴史塾
古代史ブログ講座
ネット歴史塾
ひねもす徒然なるままに
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿