2012年5月18日金曜日

インド→イナ(稲)→イン(殷)の移住は史実



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録28:17頁

 『インド→イナ(稲)→イン(殷)の移住は史実
 「インド→イナ(稲)→イン(殷)の移住は史実

 しかし殷人は本当にシュメル人だったのであろうか?。

 その名からみて、インドの方が深い関係がありそうである。

 その答は我が国の特産物のように考えられている鰹節にある。

 それは古代から、

 インド西岸にあるラッカデヴ諸島の名産だったのである。

 この諸島はまた宝貝の宝庫でもある。

 日本の鰹節と、

 殷帝国を支えた<古代沖縄の宝貝通貨>が、
 シュメール人の移動コースを記録している。

 それはラッカという発音で<サッマ>に結びつく。

 彼等はインド人として我が国へきて、

 次第に北へ東へと拡大して分布圏を拡げた。

 その歴史を今ある主な地名でたどってみると次のようになる。

 まず『後漢書』が書く

 後漢の光武帝が授けた印綬=福岡の志賀の島出土金印

 「漢の委奴国」=稲築(いなちく)(福岡)

 因の島(広島)

 因幡(いなば)(鳥取)

 稲美(いなみ)(兵庫)

 伊南(いなみ)(兵庫・徳島)

 稲(いな)・猪名川(兵庫)

 員弁(いなべ)(三重)

 稲沢(愛知)

 伊那(岐阜)

 引佐(いなさ)(静岡)

 稲城(いなぎ)(東京)

 印旛沼(千葉)

 伊奈(埼玉)

 稲敷・伊奈(茨城)と続き、

 小地域名には<稲>、<稲葉>、<稲荷>、<稲田>など

 <稲のつく地名>が多数あるが茨城以北には分布しない。

 <殷墟>と<稲敷>を結ぶ<レイライン>は、

 <殷>から真東を求めて、

 偶然そこに稲敷があっただけだという人もあったが、

 それだと、こんなに移動コースに匹敵する地名分布だけ残り、

 それ以北に分布しない、こんな現象は絶対に起こらない。

 インド→イナ→インの移住は史実である。

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
 『言語復原史学会:画像』

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