2012年5月12日土曜日

埴安彦伝承の実態と名乗りの「入」の真意



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録28:6頁


 『埴安彦伝承の実態と名乗りの「入」の真意
 「埴安彦伝承の実態と名乗りの「入」の真意

  埴  安      彦

  エ  アン  ナ  ツム

  殖  安   奴  津見

  エ  アン  ナ  ツミ

 <アン>と<安>が一致している。

 <埴>は今は<エ>の音は不明だが、

 よく似た<殖>に変えると同じ名になるから<殖>が正しい。

 この戦いはチグリス河を挟んでの対戦だった。

 「崇神紀」の倭韓(わから)河は稚韓(わかから)河だと。

 稚韓子(チガラス)・<チグリス>河になる。

 こうして戦いを繰り返したあと、

 <ウンマ>は<ザバルム>市神殿の法王・<イル>に王位を

 奪われてしまった。

 この<イル>は「入」という字と発音が同じである。

 崇神天皇と垂仁天皇たちはその名乗りに

 「入彦・入日子」と「入」を名乗るが、

 それが何を意味するのか?まだ特定できていない。

 ところが垂仁天皇は、

 明らかに<卑弥呼政権>を倒して<政権>と<法王の地位>とを手に入れている。
 
 崇神天皇も皇后の御間城姫のところへ入り婿になったという名乗りになっている。

 <ザバルム>の法王・<イル>も、入り婿か、

 弓削の道鏡式に政権を奪った可能性が高い。

 とすれば、

 崇神・垂仁2天皇の「入」は始めて正確な意味が判ったことになる。

 それは天皇家本来の皇太子ではなかった者が皇位を継承し、

 その皇子女もまた本当の親王ではないというという表記で、

 この「入」の使用はすぐ廃止されたが、

 一時的に使われた区別名だったことになる。

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
 『言語復原史学会:画像』

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