ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年5月16日水曜日
「初代・スサノオ=スサの王」登場
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録28:11頁
『「初代・スサノオ=スサの王」登場』
「「初代・スサノオ=スサの王」登場」
<ヤマトバル>で<リム・シン>を捕虜にしたのは
バビロン第1王朝の<ハンムラビ>王だった。
この名も<バビロン>は
<バ>=<馬>=<マ>、<ビ>=<美>=<ミ>で馬見(まみ)の丘陵、
狸穴(まみあな)などの<マミ>。
<ロ>=<末盧>の<ロ>=<国>。
<ン>=助詞。
<ハンムラビ>も<ビ>=<ミ>で磐叢耳(ハンムラミン)尊と書ける名だし、
半村姓もある。
彼は<ハンムラビ>法典を制定したことで有名だが、
それは、
今はイラン領に入っている古代<エラム>の都市国家・<スサ>で1901年に、
法文を彫った石碑が見つかった。
<バビロン>に侵入した<スサ>の王が戦利品として持ち帰ったものであった。
我が国に関係のある「スサの王=スサノオ」の名乗りは、
やはり<エラム>人のものだったのだ。
<スサノオ>と<永良部>は共に高天原のあった九州の南の海上にあって、
当時、
<都>を意味した「原」は、
九州語では「バル」と発音する。
それらも皆、
<シュメル>の都市・<ヤマトバル>と一緒にやって来た
「渡来人訛り」だったのである。
地図でおわかりの通り、ヤマトバルとスサは近接して、前面に海をひかえている。
だから山人(やまと)は本来は山の民ではない。
それが山地の奈良に都を置いたのは、
倭の五王時代に九州を出発して近畿へ移動し、
倭王・<武>が奈良の高市へ入ったからなのである。
卑弥呼の時代には
位宮が沖縄・種子島・屋久島にいて、
まさに海幸そのものだったし、
それを迎え討った卑弥呼は姫木(ひめこ)山にいて、
山幸そのものだったが、
<五王は海幸側の壹與の子孫>で山人ではない。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
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