2012年5月16日水曜日

「初代・スサノオ=スサの王」登場



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録28:11頁


 『「初代・スサノオ=スサの王」登場
 「「初代・スサノオ=スサの王」登場

 <ヤマトバル>で<リム・シン>を捕虜にしたのは

 バビロン第1王朝の<ハンムラビ>王だった。

 この名も<バビロン>は

 <バ>=<馬>=<マ>、<ビ>=<美>=<ミ>で馬見(まみ)の丘陵、

 狸穴(まみあな)などの<マミ>。

 <ロ>=<末盧>の<ロ>=<国>。

 <ン>=助詞。

 <ハンムラビ>も<ビ>=<ミ>で磐叢耳(ハンムラミン)尊と書ける名だし、

 半村姓もある。

 彼は<ハンムラビ>法典を制定したことで有名だが、

 それは、

 今はイラン領に入っている古代<エラム>の都市国家・<スサ>で1901年に、

 法文を彫った石碑が見つかった。

 <バビロン>に侵入した<スサ>の王が戦利品として持ち帰ったものであった。

 我が国に関係のある「スサの王=スサノオ」の名乗りは、

 やはり<エラム>人のものだったのだ。

 <スサノオ>と<永良部>は共に高天原のあった九州の南の海上にあって、

 当時、

 <都>を意味した「原」は、

 九州語では「バル」と発音する。

 それらも皆、

 <シュメル>の都市・<ヤマトバル>と一緒にやって来た

 「渡来人訛り」だったのである。

 地図でおわかりの通り、ヤマトバルとスサは近接して、前面に海をひかえている。

 だから山人(やまと)は本来は山の民ではない。

 それが山地の奈良に都を置いたのは、

 倭の五王時代に九州を出発して近畿へ移動し、

 倭王・<武>が奈良の高市へ入ったからなのである。

 卑弥呼の時代には

 位宮が沖縄・種子島・屋久島にいて、

 まさに海幸そのものだったし、

 それを迎え討った卑弥呼は姫木(ひめこ)山にいて、

 山幸そのものだったが、

 <五王は海幸側の壹與の子孫>で山人ではない。

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
 『言語復原史学会:画像』

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