ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年8月31日金曜日
膨大な文化遺産『言語』が蓄えていた史実の凄さ
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録32:14頁
《膨大な文化遺産『言語』が蓄えていた史実の凄さ》
「膨大な文化遺産『言語』が蓄えていた史実の凄さ」
「卑弥呼の都はどこか?」という疑問が本題である
『魏書倭人章』解読は、
こうして順序正しく解明すれば、
我が国の建国が八千年の昔に遡るという、
世界に類のない大文明実在の大事実で立証して、
その歴史を完全に復元できる凄い学問だったことが判る。
それなのに、ヤマタイコクなどとという無知丸出しの空名で呼び、
方角が南だ・いや東だという幼児的な「おかど違い」論争を、
いまだに金科玉条として続けている史学の醜態をみると、
私たちの『言語復原史学』という史実探査体系が、
どんなに高度なもので、ケタはずれに進んだものだったか、
改めてよくお解り戴けたと思う。
古語も現代語も、膨大な文化遺産であることに変わりはない。
総てが得難い文化財であることは言うまでもない。
私たちは僥倖によって史実を発見し続けてきたのではなく、
推進すれば必ず真実の答が得られる原則を、
ただ真剣に活用しているだけなのである。
だから発見できた答は崩れることがない。
それは次々に積み重なり組み合わさって立体化し、
いよいよ堅固になるのである。
その史実の積層の上に聳える大建築、
私たちの遠祖の超古代文明史が、
全世界のどんな古代史よりりも、
さらに古く抜きんでたものだったことを現実に示し始めた上これから
展開してくる詳細な建国史は、
ご期待に一層強くお応えすると信じている。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
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存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
2012年8月30日木曜日
隼人はウバイドへの当て字。世界最古の国名。
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録32:13頁
《隼人はウバイドへの当て字。世界最古の国名。》
「隼人はウバイドへの当て字。世界最古の国名。」
大隅の大も、倭も、オオと読まれてきたが、
これは沖縄・大隅語では「ウ」だから、
その首都だった「隼人」は「ウの隼人」である。
この場合、
ハヤトと読まずに、ハイトと読めば「ウハイト」で、
発音は「ウワイト=倭人」と完全に同じになる。
隼人とは、
本来はウバイドを意味する名詞だったことが、
この完全な復元で完璧に証明され、
卑弥呼の都だと確認させる。
では、何故?それが原型を失ってしまったのか?…
それも考えておこう。
大隅は鹿児島発音「ウズン」。
古語はズとヅの区別がなかったから「ウヅン」で、
当て字は「大津見」。
今ある字津見、内海(うつみ)などの地名や姓はその子孫である。
津見は王を意味するから、
それは「倭王」と同じ意味の人称代名詞だったのである。
この大隅と併立していた
薩摩の開聞(ヒラキッ)・枚聞(ヒラキッ)=日羅王(シラキ)=古新羅=
後の小国日本の領主だった
天智天皇が、
倭の名を忌んで取り去ったため、
倭隼人=ウワイトが隼人だけになってしまい、
ウバイドに結びっく歴史が完全に消え、
発音もわざと「ハヤト」と読むように強制されて、
倭人との関係さえも連想できなくされてしまったのである。
そして後世の無知な連中の行政区画変更によって、
さらに上井(ウワイ)という地名も、
国分(こくぶ)市に編入されてボツネンと取り残されたから、
この世界最古の凄い国名は、
ウバイドから遠く引き離されてしまったのだ。
『参考』
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2012年8月29日水曜日
神代紀の史実を廃棄物にした『神話学』の罪
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録32:12頁
《神代紀の史実を廃棄物にした『神話学』の罪》
「神代紀の史実を廃棄物にした『神話学』の罪」
時代 名乗り 漢字記録
ウバイド・スメル 都市国家時代 イシン王
エジプト・クレオパトラ王朝時代 イシス神
ギリシャ人・与那国沖縄王朝時代 イジナ王 (伊是名島)
3世紀・倭人連邦卑弥呼王朝時代 イサンギ (伊声耆・伊佐ン王)
4世紀・倭の五王・仁徳天皇時代 イシヅチ (石槌山)
5世紀・倭の五王・履中天皇時代 イザナキ (伊邪木和気)
5世紀・倭の五王・反正天皇時代 イシヅ王 (石津王)
このリストだけでも、
イザナギが『神話』なんかではなく、
世襲の名乗りをもった王たちだったことは疑う余地がない。
「神話学」は我が国の歴史には有害だということになった。
これで我が国の古代の史実が、本当はどんなものだったか、
それを『記・紀』はどう記録し、どう判らなくしていたか。
神々の正体。
天皇の名乗り、伝承の真実なども全く別ものになってしまったのである。
過去の学者はこんな致命的無知に気付かなかったのだ。
また例えば、
これで伝説の大国主大宮殿は、
本当はインド以西の大建築であって、
貧弱な出雲の木造建築ではなかった可能性も大きくなる。
次はウバイド王が我が国へ遷都した証拠を探してみよう。
『参考』
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古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
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イサナキも都市国家時代の名乗りから
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録32:11頁
《イサナキも都市国家時代の名乗りから》
「イサナキも都市国家時代の名乗りから」
本講では先の「倭の五王」関連の部分で、
伊弉諾の尊の語源が、イシス神だとお話しした。
しかし、そのイシス神の発生までは見なかった。
イシス神は、
ギリシャ人王朝だった
アレクサンドリヤのエジプト王家の尊崇を集めたが、
もともとは、
はるか古代のウバイド期に誕生した神で、
それが後にエジプトへ移ったものだったのだ。
だからイザナギ・イザナミの究極のルーツは、
やはりウバイド・スメル帝国にあったのである。
それはスメルの中央部、
ユーフラテス河の支流に囲まれた所にあったイシンが語源である。
イシンは日本語でイシノ、イサナ。
石野、伊佐、伊声耆、砂子(いさご)、伊勢などの語源だ。
スサから素戔嗚の尊が生まれたのと同じく、
イシンから伊耶那岐・伊耶那美の命が生まれたのである。
それはウバイド=倭人帝国が、
多くの都市国家を持つようになった時、
必然的に生まれた王名であり、
スメルの吾君(あぎ)=スメラギの一人で、
それが死後、
ジグラットの上に祭られた「神」でもあったのである。
では『記・紀』が書く
2神の話は、数千年前のものだったのか?。
それはすでに理解している通り、
倭の五王時代の
履中天皇・伊邪木和気の命と皇后の史実に基づくものでもあった。
らイサナキの名は個人名ではなく、
伝世した名乗りだったと解る。
見易く書こう。
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2012年8月28日火曜日
言語復原史学の基礎知識欠如から起きた惨害
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録32:10頁
《言語復原史学の基礎知識欠如から起きた惨害》
「言語復原史学の基礎知識欠如から起きた惨害」
わざわざ、こんなことを申し上げるのは、それらは何故?、
ほとんど役に立たないのかをよく考えて、
正しい物の考え方、
正しい学問を身につけて戴かないと、
同じ誤りを犯して、
一度しかない、
かけがえの無い尊い人生を、
無駄に浪費なさるからである。
大学院講義録32は皆さまのご幸福のために書いている。
謎が解けさえすればいいという講座ではない。
では、失敗者たちは、何が悪かったのだろう?。
それはまず「倭人」の正しい発音すら、
知ろうとしなかった迂闊さに原因がある。
また我が国の歴史解明に欠かせない
「名乗り」の知識ももっていない。
国名の理解と比較ができない。
天皇家の歴史という基礎史実が読み取れないから
『記・紀』も『魏書倭人章』も何の役にも立たない。
それどころか、
ウバイドなど、
私たちとは切っても切れない故郷の、
重要で貴重な地名群なども全く何の役にも立たないのである。
命と知性を酷使して書いた研究論文が
役に立たないばかりか、かえって被害を与える。
それこそこの項の見出しの通り「惨害」としか言い様がない。
この見出しは極端に見えたと思うが、
ここまでお読み戴くと、
まだ言い足りない程の歯がゆい思いがすると思う。
一人でも多くの方に、
この講義録を読んで戴きたい。
ご協力をお願い申し上げる。
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古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
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シュメル出自想像説や在来史学と、史実との酷い隔差
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録32:9頁
《シュメル出自想像説や在来史学と、史実との酷い隔差》
「シュメル出自想像説や在来史学と、史実との酷い隔差」
次はインダス5大河の古名の日葉酢姫を考えてみよう。
それは偶然のいたずらか、他人のソラ似なのだろうか?。
彼女の父は旦波の比古多多須・美智能宇斯王で、
美智能宇斯とは
今見た御中主をミチュウヌシ・ミチノウシと読んだものだった。
当て字と読み方が違うだけで、
それはシンドゥの最高神・ビシュヌー(毘紐縫(ビチュウヌウ))を
意味する名乗りだったのである。
日葉酢姫が、自分の支配する河の名を名乗ったとしても不思議ではないし、
河の名に神の名がついていても少しもおかしくはない。
河川は今も巨大な財産である。
灌漑農業が富の源泉だった当時には、
大砂漠よりも尊い領地だったことを改めて認識する必要がある。
この父娘の名がここに同時に見られるというのは、
これまで見てきた
ウバイド→インダス→我が国という遷都コースが
疑う余地のない史実だったことの、
強力な証拠だと、
はっきりここで、再確認しておいて戴きたい。
こうしたことを1つ1つ確認して行くことによって、
『記・紀』に対する過去の認識の誤りが、
白日のもとに明かに見えてくる。
奇稲田姫の母を田舎婆さんだと思い込んでいた歴史家たちが、
どれくらいヒドい思い違いをしていたかは、子供にでもわかる。
また在来の確証なき日本人・シュメル出自説と、
いま私たちが知った史実との間に、
どれほど大きな隔差があるか、
その大きな問題点もよくお判り戴けたと思う。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
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八俣大蛇退治伝承は我が国独特の歴史寓話
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録32:8頁
《八俣大蛇退治伝承は我が国独特の歴史寓話》
「八俣大蛇退治伝承は我が国独特の歴史寓話」
私たちはかつて、
北斗七星のインド名の中に、
Jyamadaguni ジャマダダニ
邪馬田国という星の名があったのを思い出す。
このJyamadaのスペルはそのままで…。
邪馬田の当て字は唐の発音で…。
どちらもヤマダになる。
それには山田という当て字ができ、ヤマタと読める。
ヤマタの大蛇と、ぴったり結びつく名前である。
また八俣の大蛇そのままの姿をもった
アナンタと共にいるシンドゥの太神・ビシュヌーは、
天の卸中主と当て字され、道の大人(うし)も同じ名だから、
それを倒したという意味になるし、
また十一面観音や千手観音も、
その前身はシンドゥのスーリヤ=太陽神だから、
天照大神で卑弥呼を指している。
八俣大蛇はインド生まれの信仰対象だったのだ。
しかしスメルにも、ギルガメシュの大蛇退治の話があり、
ギリシャにもアポロンのピュトン退治があり、
インドネシャにもアジサカ皇子の大蛇退治があるが、
すべて頭は1つで八俣には分かれていない。
多頭をもつ大蛇を退治た伝説は
インドのクリシュナだが内容は大きく異なっている。
結局、多数ある大蛇退治はどれも八俣大蛇とは別物で、
スサノオの大蛇退治は、
我が国だけの固有の事件なのである。
大蛇の表現は全面的にインドの影響が濃いが、
内容は独特のもので、
我が国のどこかで起こった事件を寓話化した
『風刺物語』だというのが、
今後もう変わることのない結論になる。
『参考』
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稲田姫は田舎娘ではなく母皇は超巨大帝国の皇帝
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録32:7頁
《稲田姫は田舎娘ではなく母皇は超巨大帝国の皇帝》
「稲田姫は田舎娘ではなく母皇は超巨大帝国の皇帝」
(娘の名)眞髪 シンカミ(月の女神・シン)=觸 フルの御霊(みたま)(大月姫)
奇(くし) 手シュ。
地名中1つ残った「可愛」は、
鹿児島県川内市の可愛山陵は「エノ山陵」と読む。
南九州語では「ノ」は「ン」だから、
これは「エン」で、
スメル語の「王」である。
これが判ると、
インダスの4大河の名が日本語と同じ意味をもっていたことも、
少しも不思議ではなくなる。
稲田姫が素戔嗚の尊と結婚した時、
彼女の母は、前記の通り、
インダス、キシュ、スサ、ウバイド、グデイ、アダドという
ウバイド主要国を領地にもつ名乗りをもっていた。
稲田姫は決して出雲の田舎娘などではない。
八束を最終の都名だとすれば、
母皇はメソポタミヤから日本までを併せもった
巨大な帝国の女帝だったことになる。
こうみてくると我が国で皇族を「宮」と呼ぶのも、
メソポタミヤの語尾のミヤと同じものだし、
上皇=太上天皇を「院」と呼んだことで、
インドやインダスや殷の「イン」が、
山門院や伊集院などの地名の歴史とともに、
退位した先帝の領地だったことも判る。
そればかりか、
「犬」も、
南九州語では「イン」と発音するから、
やはりウバイド人が連れてきた家畜だったことが明瞭に判る。
こうして視野がインド、西アジヤにまで拡大すると、
稲田姫とスサノオの尊の結婚は、
一体?どこの話だったのか?。
これも放置できない重大な問題になってしまった。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
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2012年8月27日月曜日
稲田姫の両親の名乗りは完璧にウバイド王家のもの
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録32:6頁
《稲田姫の両親の名乗りは完璧にウバイド王家のもの》
「稲田姫の両親の名乗りは完璧にウバイド王家のもの」
インダスに語源のある稲田姫の記事は、
『日本書紀』には本文と「一書」が5つあるが、
その中で一番詳しい「一書3」には、次の名詞が書かれている。
(地名) 安芸 可愛 (名乗り) (父)脚摩手摩
(母)稲田宮主簀狭八箇王
(娘)眞髪觸奇稲田姫
(地名) 尾張 吾湯市 熱田 (剣の名) 虵麁正=草薙劒
この母の名をよく見ると、それは明瞭に、次の通りの「名乗り」だと理解できる。
稲田 インダ(ス) 宮主 キシュ 簀狭 スサ 八箇耳 ヤツカキ 八束(郡)王
父に比べて大量の大国名を並べているのは、
母が女帝だったことを記録している。
最後の「八箇耳 ヤツカ・キ」だけが出雲の名なのは、
現住する都が八束で、その耳(ミミ・キ=弥弥=王」だという、
名乗りの様式に正しく合っている。(また八はハティとも読める)。
父の名乗り脚摩はアシマ=葦国。
手摩はシュマ国(ラ)=薩摩語のスメラで、
彼はスメラギだったのである。
安芸と尾張は共に上井で、ウワイ=ウバイ(ド)。
吾湯市はゴドウイチで大隅語でグデイッ。
熱田は阿多・吾田と同じでアダ(ド)と、
ウバイドの8~9カ国が揃っている。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
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日本語の意味をもつインダス五大河の古名
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録32:5頁
《日本語の意味をもつインダス五大河の古名》
「日本語の意味をもつインダス五大河の古名」
大隅語の「植える」は「ウェイ」と聞こえ、
上井・倭・ウバイドと同義語である。
これもウバイド人の稲作が、
大隈での植物栽培の初めだという記録だ。
彼等がインダスから、さらに我が国へ移住してきたのなら、
インダスにも居住記録が残っているであろうか?。
インダスは5つの大河によって構成されているが、
その「5大河の名」が記録している。
現代名は関係ないから、
古代名を日本語発音に直しながら、
よく観察してみて戴きたい。
古代名 現代名 日本語読み
Vitasta ピタスタ (Jhelum ジェールム) ヒタスタ=浸す田 日田須田
Asikuni アシクニ (Chenab チェナープ) アシクニ=葦国(キ・エンギ)
Parsni パルスニ (Ravi ラービ) パルスニ=ペルシャ=イラン
Bipas ビパース (Beas ベアース) ビバス=日葉酢(姫)
Sutdri スッドリ (Sutlej ストレージ) スッドリ=漁(すなど)り(津=ナ)
葦国は、
以前お話しした北斗七星の星名にジャマダグニという名があった。
クニ・グニの 語源がインドにあることがわかる。
助詞の「津」は「ノ・ナ・ヌ」に変わる。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
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最新の考古学的発掘の方法
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2012年8月26日日曜日
オリザ・ヤワニカと、沢口靖子の証言
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録32:4頁
《オリザ・ヤワニカと、沢口靖子の証言》
「オリザ・ヤワニカと、沢口靖子の証言」
植物の女神イナンナの名から稲のルートが判ったが、
稲は植物の品種の一つだから植物学を無視できない。
それは主食を作る文化で農学最大の対象であり、
人類生活の根底を支える経済活動だから経済学も切り離せない。
名前の比較だけでは史実は復元できない事が判る。
史学の調査に出掛けても、広い視点で観察し、記録し、
問題を提起しなければ収獲は貧弱なものに終る。
説得力のある、
その実例として、
私(加治木義博)が昭和40年代から50年代にかけて、
台湾からタイ・ミャンマーまで
東南アジヤの山地居住者(Hill tribe)調査を重ねた、
その体験を少しお話ししてみよう。
その時、
私(加治木義博)が発見したのが大学院講義録30の4頁に転載した
カラーブックス『日本人のルーツ』26頁の、
日本米・ヤポニカよりさらに見事な丸々とした大粒の水稲だった。
これはその後、専門家によって研究が進められて、
Oryza javanica オリザ・ヤワニカと命名され、
私(加治木義博)はその図版の解説の中に
「日本の初期水稲遺跡は自然の湿地帯を求めて開かれている。
マレー語で水田をサワというが、
まさに沢こそ初期の水田だったのである」と書いている。
ウバイド人はインダスから我が国まで来て、沢に稲を植えた。
俳優の沢口靖子の顔立ちは、
その姓と共に、
古く遠い故郷がウバイドであることを、
今も雄弁に立証しているのである。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
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《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
歴史学の科学化
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録32:3頁
《歴史学の科学化 》
「歴史学の科学化 」
歴史を復元するには完全な学術体系が必要である。
私たちは言語を主軸に、消滅した古代史を復元する学問を構築して、
それによってウバイドから倭人までの、発展、移動の事実を、
それが残した遺物で確認することができた。
それをさらに、どう追及して行けばいいのか?。
ウバイド・倭人というのは名詞で、言語史料である。
過去のシュメル起源説は出発点をシュメルだと主張していたが、
円筒印章に注目して考察すると、
私たちの祖先の出発点は、
シュメルではありえず、ウバイドだったことが確認できた。
円筒印章は言語史料ではなく「用具史料」である。
それはまた取引きに必要な「経済史料」でもあり、
契約で成り立っている政治に必須な「政治史料」でもあり、
神への誓約書に必要な「宗教史料」でもある。
私たちの研究は言語史料だけでなく、
当然、
広範な分野の史料による立証に拡大して行かねばならない。
そのとき、
すでに学問として体系化が進んでいるものは、
それを活用すれば、
用語や分類が進展していて、記録し比較するのに、
何と呼び、どう記載しようかと迷わずに済む。
そうした命名をし、
必要な項目を決めて分類し、
活用するのが科学の任務である。
私たちは史学を、
在来の文学と考古学の範囲から、
もっと広範に拡大して、
完壁な科学体系をもったものに高めねばならない。
大学院講義録32は
この問題の具体例からお話にはいってみよう。
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2012年8月25日土曜日
本講にもご高評をお寄せ下さい
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録31:30頁
《本講にもご高評をお寄せ下さい》
「本講にもご高評をお寄せ下さい」
学問は小説ではない。
売れさえすればいいなどと考えて書かれては、
その学問全体が崩壊する恐れさえある。
『邪馬台国論争モノ』の末路が、
筆者の残骸を無残に晒している現実に眼を向けると、
歴史とは、ごまかしのきかない相手だとよくわかる。
それは、この講義録も例外ではない。
その場合はどんどんご指摘を戴ければ幸いである。
それ以上、無駄な迷走を続けなくて済むからである。
「教授論文コンテスト『優勝論文』発表について」
会員諸賢のご研究も、功を急ぎ過ぎて、
悪にならぬようにご推考を重ねて戴きたい。
それにはご自分だけでなく、批判者の眼を借りることが望ましい。
それは自惚れのない人はなく、見落としもあるからである。
本学では、
その点に留意して、教授、助教授の、
より高い権威醸成を目標に、
今期から論文コンテストを実施し、
本号と次号に付録として、
最優秀論文を同封してご参考に供することにした。
諸先生のご遠慮なき御高評をご期待申し上げる。
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2012年8月24日金曜日
八千年にも及ぶ我が国の歴史確認
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録31:29頁
《八千年にも及ぶ我が国の歴史確認》
「八千年にも及ぶ我が国の歴史確認」
ウルマを沖縄に作ったウル人は、
円筒印章発明以前のウルから来た人たちだったことが解るから、
この紀元を記録したハムムラビ王とは無関係である。
『神武天皇紀』にその数を特記した記録を持っていた人たちは、
後からやってきた人たちである。
すると神武天皇が行なった東征とは、
この後続の人たちの史実の記憶が根底にある伝承だったことが判る。
それに次々に起こった類似の事件が重なって、
層をなしたものが、
神託による教えの基礎になって、
予言として役立つものに成長した。
それが『記・紀』の原型になった、
「十八氏纂記」などの実体だったことが、
これでさらに確認できた。
『記・紀』とは何か?…
という疑問の答は、
ウバイド~スメル史を正しく知ることで見つかったのである。
湾岸戦争まで続いたメソポタミヤ最南部のテル・エル・オウェイリの調査で、
ウバイド期はさらに古く8000年前にも及ぶことが推定されている。
途中政権の個人的な左右はあったが、倭人(ウパイド)の皇統は絶える事なく続いている。
永年、本講で御研鑽になった受講会員は今、世界の人々に先駆けて、
世界最古・最長の皇統をもつ祖国の真の歴史をお知りになった。
高額の学費をご負担いただいた甲斐があったとお喜び戴きたい。
それは同時にこの手刷りの限定版講義録が、
『御家宝』になる時をお迎えになったということでもある。
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『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録31:28頁
《世界最古・最長の皇統をもつ祖国の真の歴史》
「世界最古・最長の皇統をもつ祖国の真の歴史」
ウルといっても、これだけの歴史があるから、
沖縄の古名「ウル国(マ)」は、
そのうちのどの時代の人がやってきて命名したのか?。
その答も『日本書紀』の中にある。
ウル第3王朝もB.C.E.1960年頃には
南部メソポタミヤのイシンとラルサの2国が
支配権を争う時代に入り、
B.C.E.1830年には中部バビロニヤに
新たなバビロニヤ王国が生まれ、
法典で名高いハムムラビ王がB.C.E.1792年に即位した。
この即位年の『1792年』が、我が国建国史にとって、
最も重要な記録数字になっている。
それは「神武天皇紀」の始めに特記された
「建国回顧年数」に完全に一致するからである。
「我が 天祖 彦火 瓊瓊杵(ニニギ)尊 天関を開き
(中略) 此の西偏を治む。
(中略) 年を歴る所、多し。
「天祖降跡以逮=天孫降臨以来」于(今までに)
一百七十九萬二千四百七十余歳(1792)。」と明記してある。
この1792年は、
ほぼ正しい神武紀元だとされる西暦からさかのぼると、
ハムムラビ王が即位したB.C.E.1792年に、ぴったりと合うのである。
『日本書紀』は千倍になっているが、
それは翻訳者が記録にある数字の、
単位の知識をもっていなかったためで、
書かれていた数字は非常に正確なものだったことが確認できる。
『日本書紀』はそれらの古記録を焚書してしまったが、
これでその記録と、
沖縄のウル国(マ)が、ハムムラビ王までさかのぽることがわかる。
とすればそこに書かれている瓊瓊杵(ニニギ)尊とは、
ニンギルスへの当て字としか考えられない。
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