ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年8月28日火曜日
稲田姫は田舎娘ではなく母皇は超巨大帝国の皇帝
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録32:7頁
《稲田姫は田舎娘ではなく母皇は超巨大帝国の皇帝》
「稲田姫は田舎娘ではなく母皇は超巨大帝国の皇帝」
(娘の名)眞髪 シンカミ(月の女神・シン)=觸 フルの御霊(みたま)(大月姫)
奇(くし) 手シュ。
地名中1つ残った「可愛」は、
鹿児島県川内市の可愛山陵は「エノ山陵」と読む。
南九州語では「ノ」は「ン」だから、
これは「エン」で、
スメル語の「王」である。
これが判ると、
インダスの4大河の名が日本語と同じ意味をもっていたことも、
少しも不思議ではなくなる。
稲田姫が素戔嗚の尊と結婚した時、
彼女の母は、前記の通り、
インダス、キシュ、スサ、ウバイド、グデイ、アダドという
ウバイド主要国を領地にもつ名乗りをもっていた。
稲田姫は決して出雲の田舎娘などではない。
八束を最終の都名だとすれば、
母皇はメソポタミヤから日本までを併せもった
巨大な帝国の女帝だったことになる。
こうみてくると我が国で皇族を「宮」と呼ぶのも、
メソポタミヤの語尾のミヤと同じものだし、
上皇=太上天皇を「院」と呼んだことで、
インドやインダスや殷の「イン」が、
山門院や伊集院などの地名の歴史とともに、
退位した先帝の領地だったことも判る。
そればかりか、
「犬」も、
南九州語では「イン」と発音するから、
やはりウバイド人が連れてきた家畜だったことが明瞭に判る。
こうして視野がインド、西アジヤにまで拡大すると、
稲田姫とスサノオの尊の結婚は、
一体?どこの話だったのか?。
これも放置できない重大な問題になってしまった。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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