ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年8月4日土曜日
決定的になった『日本書紀』は天智天皇の政略書
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録31:15頁
《決定的になった『日本書紀』は天智天皇の政略書》
「決定的になった『日本書紀』は天智天皇の政略書」
この発見と真実確認の真価は、
「8世紀まで続いた天皇制は女帝制だった」という
定義が成立したことである。
ところが『記・紀』の書く『皇国史観』は、
5000年を超えるどころか、
せいぜいが2000年の「神武紀元」でしかない。
しかもそれは冒頭にスメルの神々を換骨脱胎した神代7神を載せ、
伊弉諾尊・伊弉冉尊2神の論争を特記して、
男帝制の優位を主張する。
これは明らかに、斉明天皇を退位に追いやって皇位につき、
男帝制を日本帝国の基本とした天智天皇の企図である。
他に同じ必要に迫られた為政者がいるか?
詳しく検討してみても、
多数の主張者がいる藤原不比等説も誤解ばかり多く、
全くの時代錯誤で了承できない。
こうみてくると大化に滅びた倭国は、
途中ギリシャやインドの血を交えたが、
スメルから延々と続いた女帝皇室だったことが判るが、
その歴史は皆、
焚書の憂き目に遭ったことが、これで確認できる。
『日本書紀』が大化改新の際、
蘇我氏が焼いたと書く国史や帝記などは、
間違いなくスメル以来の女帝倭国の歴史と系譜だったのである。
そのため一方では天照大神として最高神の位置に据えられているのに、
女帝としては何の記載も残らない卑弥呼の謎は、
何が原因だったか?
これで、はっきりしたし、
『記・紀』とは何か?
という論争にも決定的定義が成立した。
我が国の建国史は、始めて正しい出発点に立つことが出来たのである。
『参考』
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『言語復原史学会:画像』
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