ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年8月23日木曜日
インダスから稲敷へ、そして殷への明確な時代わかる
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録31:27頁
《インダスから稲敷へ、そして殷への明確な時代わかる》
「インダスから稲敷へ、そして殷への明確な時代わかる」
その都市国家時代はB.C.E.2350年ごろの
ジェムデト・ナスル期まで続いたが、
サルゴンの率いるアッカド人に敗北してアッカド王朝時代に変わり、
サルゴンの曾孫・ナラム・シンは神名のシンを名乗って自分を現人神に譬えた。
しかし圧制に反発してウルクやキシュの市民が反乱を起こしたので、
ザグロス山脈からグディ人が雪崩れこんで、
アッカド王朝は崩壊し、グデイ人支配が90年続いたが、
それを倒したのは、
ウルクのウトゥヘガルで、メソポタミヤを再びスメル人の手に取り戻した。
これが新スメル時代で、B.C.E.2112年にはウルナンムが王朝を樹てた。
それが栄えたB.C.E.2060年以後をウル第3王朝と呼ぶ。
インダスのほうはB.C.E.3500年のスメル支配以後にインダス流域に植民し始めて、
アムリ文化を生み、
インダス文明を発達させて、B.C.E.1400年ごろまで続いたあと、
衰微してしまったが、
その時期がピッタリ、殷の登場期に当たる。
縄文時代後期である。
茨城県稲敷郡に移住した歴史的瞬間もこの前だったことは明らかである。
先にお話しした遺物から、当時の信仰が、やはり水神だったことは、
器の神象が「竜」を意味していることで明らかである。
そして稲敷は「水郷・霞ヶ浦」の奥、
ウバイドそっくりの環境に位置している。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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