『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:22頁
雄略天皇は、
御所(ごせ)市の葛城山で、
天皇のような供揃えの神に会う。
一言主の大神だという説明になっているが、
現実問題として考えれば、
5世紀に神が姿を現わすはずがない。
これは前政権時代の有力者との遭遇が描かれているとみていい。
『記』は長谷朝倉宮で天下を治むと書き、
『紀』は泊瀬朝倉壇で即位したと書いてある。
ところが『古事記』は幾つもの歌謡を挙げているが、
その中の三重の采女(うねめ)の奉った歌には、
纏向(まきむく)日代宮とある。
皇居を移したのであれば、
そのことが書いてあるはずなのにそれがない。
この答は意外なところにある。
それはこの纏向日代宮は
景行天皇の皇居の名であり、
垂仁天皇が、
あの狭穂姫と暮らした宮も、
同じ纏向の珠城宮だったことがヒントになる。
私たちは垂仁天皇=位宮が
狭穂姫と共にいたのは、
種子島だったことをよく知っている。
それは山幸が海を渡って行った島で
豊玉姫の島、
浦島太郎の竜宮で、
オオヒルメが八幡を連れて隼人町まで、
海を渡ってきた出発点の島でもある。
景行天皇も卑弥呼政権の崩壊後、
大移動でカラになったそこへ移ったから同じ地名なのだ。
この纏向がもとは種子島だったことは動かない。
これも香椎が奈良県に移って橿原になったように、
地名の移住があった証拠である。
だから「纏」はテン⇒チヌで、
向は日向のガ、
チヌガ=角我=ポントスの都だ。
『参考』
翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史学講座『創世』
歴史回廊
ウワイト
古代史の画像
0 件のコメント:
コメントを投稿