2011年1月3日月曜日

新支配者の固有名が新領土名になった

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:24頁

しかしここで、

よく考えて結論しておかねばならないのは、

「国名が先にあって、

それを取って領土に加え、

それを名乗りに加えたのが真実ではないか」という考え方である。

これに対する答えは、

実際に分布している我が国の古代国名の分布状況が教えてくれる。

国名は常に同じ大きさで移動し、

分布しているのではない。

所により拡大したり縮小したりしている。

しかしいま私たちが問題にしている

「建国期の国名」に限ると、

『魏書倭人章』に記録された旁国は、

巴利国と播磨。

倭国南端の奴国(種子島の野間)と

伊都国東南の奴国(福岡県三瀦郡)。

弥奴国と美濃。

姐故国と茅淳と津名・紀伊などは、

すべて3世紀当時は町村程度だったものが、

移動によって国郡クラスに拡大したことを明瞭に記録している。

それらをみると、

大国の播寿が先にあって、それが西に移動して、

小さな巴和国(現在の鹿児島県隼人町)になったのではなく、

3世紀に巴利国のはうが先にあって、

そこから出た人々が移動して現存する

播磨=兵庫県の大郡にしたのであるし、

奴国も離島の小町だったものが邪馬壹国誕生によって、

あっという間に北九州の中央に移り、

人口2萬戸の大国に膨れあがったのだった。

弥奴と美濃も、姐奴と津名と紀伊も全て同じで、

その逆ではない。

だから新しい国名は、

その移動先を王の固有名で呼んだために、

生まれたのだとわかる。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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