2011年1月23日日曜日

徹底的に解った「神武大和入り」と漢風諡号の真相

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:14頁

安康天皇が

倭王・興であり、

百済・蓋盧王だったから、

大阪府の河内を領有していたことは疑いないが、

この比較リストを見ると、

それは高千穂という当て字にも換えられることがわかる。

河内の東は奈良県。

すると五瀬の命のモデルだった彼が、

弟の武・神武天皇たちと

「東に良い国があるからそこへ行こう」と決意した

「高千穂の宮」は、

南九州の高千穂とはまったく無関係で、

大阪府下にあった「河内王の宮」のことだったとわかる。

これが史実で、

神武天皇の出発点「高千穂の宮」は、

意識的に日向から出発したことにするために

工夫した、換え字だったのが真相なのだ。

そしてこのことは、

五瀬の命と神武天皇が、

安康天皇と雄略天皇兄弟だったことを、

くっきりと立証しているのである。

だから「高市(カウチ)=興の」で、

安康が高市をとっていたこともわかる。

しかし允恭天皇に奪われて

武内・タケチ王国に変わったから発音だけタケチに変わり、

安康天皇は負傷して紀州へ行って死んだ。

弟の武はさらに南に逃れた後、

熊野から山道を北進して吉野にはいり、

そこを基地にして高市を背後から攻める平地戦に持ち込み、

高市を再び占拠したが、

そこはタケチと呼ばれていたので、

今度は発音だけタケシと改めた。

これが倭王・武は

絶対に「ブ」ではないという理由である。

淡海の三船はこの事実を知っていたから

「神・武(コウ・タケシ)」と諡号をつけたのである。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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