『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:15頁
では『記・紀』が
神武東征を日向進発としているのはウソだったのか?。
それは別の史実のせいだ。
史実編集の間違いで、
幾つもの史実が複合してしまっているのが
『神武天皇紀』なのだから、
その真相を知れば、
なぜ日向からになっているか?
その理由がわかる。
拙著『卑弥呼を攻めた神武天皇』
(ロングセラーズ刊)にも詳細に書いた。
弟の伊支馬・垂仁天皇・位宮と、
兄の拘右制卑拘(クウジャイピク=高津兄彦)・
槁根津彦(コウニヤヅヒコ=高兄津彦)・
武埴安彦(タケチアンビコ=高津兄彦)兄弟が、
卑弥呼の男弟・泄謨觚柄渠觚(シモカピンチュウカ=下吉備津彦)・
伊声耆(イサナギ=五十狭芹彦=戦(いっ)さン君(きん))と日向の川内で戦い、
武埴安彦が戦死した記録を、
雄略の史実に繋(つな)いだためなのだ。
この話ではイサナギと戦さの君=軍君=クシャトリアとが、
同じだということが完全証明されているが、
兄が五瀬の命=伊声耆=五十狭芹彦に逆転していることもわかる。
この部分の神武は倭迩迩日百襲姫(卑弥呼)の末弟・稚武彦で、
五瀬の命は兄の彦五十狭芹彦(またの名・吉備津彦)だったのだから、
役者は揃っていても役柄は完全に正反対になる。
だから河内で負傷して和歌山で死んだ安康天皇ではなく、
3世紀の川内の五瀬の命・彦五十狭芹彦が混入したもので、
5世紀の雄略天皇と日向進発とは、
無関係だと断定できるのである。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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