2011年1月24日月曜日

日向の歴史と畿内の歴史とが合成された理由と証拠

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:15頁

では『記・紀』が

神武東征を日向進発としているのはウソだったのか?。

それは別の史実のせいだ。

史実編集の間違いで、

幾つもの史実が複合してしまっているのが

『神武天皇紀』なのだから、

その真相を知れば、

なぜ日向からになっているか?

その理由がわかる。

拙著『卑弥呼を攻めた神武天皇』

(ロングセラーズ刊)にも詳細に書いた。

弟の伊支馬・垂仁天皇・位宮と、

兄の拘右制卑拘(クウジャイピク=高津兄彦)・

槁根津彦(コウニヤヅヒコ=高兄津彦)・

武埴安彦(タケチアンビコ=高津兄彦)兄弟が、

卑弥呼の男弟・泄謨觚柄渠觚(シモカピンチュウカ=下吉備津彦)・

伊声耆(イサナギ=五十狭芹彦=戦(いっ)さン君(きん))と日向の川内で戦い、

武埴安彦が戦死した記録を、

雄略の史実に繋(つな)いだためなのだ。

この話ではイサナギと戦さの君=軍君=クシャトリアとが、

同じだということが完全証明されているが、

兄が五瀬の命=伊声耆=五十狭芹彦に逆転していることもわかる。

この部分の神武は倭迩迩日百襲姫(卑弥呼)の末弟・稚武彦で、

五瀬の命は兄の彦五十狭芹彦(またの名・吉備津彦)だったのだから、

役者は揃っていても役柄は完全に正反対になる。

だから河内で負傷して和歌山で死んだ安康天皇ではなく、

3世紀の川内の五瀬の命・彦五十狭芹彦が混入したもので、

5世紀の雄略天皇と日向進発とは、

無関係だと断定できるのである。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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